7.人間、変われば変わるもの
階段を上りきると空気が一変した。
一階は生暖かい空気で埋め尽くされていたが、二階は逆に薄ら寒い空気が漂っていて、今が春だとはとても思えなかった。肌寒さを感じるほどに冷えた廊下は昂った気分をも冷やし、緊張感はほぐれるどころか余計に高まった。
「まるで冷蔵庫の中みたいだな」
ぽつりと漏らした軽口は白い壁に吸い込まれて消える。相変わらずこの家は物音がしない。
しんと静まり返った場所というのは、騒がしい場所よりも落ち着かないということを、彰は身をもって実感していた。
二宮はいつ何が起きても対処できるように、彰の前で油断なく周囲に視線を巡らせている。
彰は二階の様子を確認しようと首を巡らせた。
正面は寝室。菜央の両親が使っている部屋だ。すぐ左にある部屋は使われていない。菜央は一人っ子なので右手奥の一部屋があれば十分なのだ。
菜央はあの部屋に閉じこもっている筈である。
「池永」
可愛らしいネームプレートがぶら下がった木製のドアを凝視していると、二宮が短く名前を呼んだ。
どうしたと目で尋ねる。目が合った後、二宮は使用されていない方の部屋を見た。何だろうかと目線を負ってみる。
ドアが僅かに開いていた。手前に開いたドアの隙間から何かが見える。彰の足が、自然とそちらへ向いた。
「待って」
好奇心の囁くまま無用心に近寄ろうとした彰を二宮が制止する。彼はゆっくりと近づき、慎重にドアを開けた。
二宮の肩越しに見えたのは、折り重なって床に倒れた二人の人物だった。仰向けに倒れている男性には見覚えがある。菜央の父親だ。
しかしもう片方、彼の上半身に覆いかぶさるようにうつ伏せている男性には見覚えがない。
とりあえず見知らぬ男性を菜央の父親の横に並べて寝かせた。スーツ姿のこの男性の顔を彰は知らない。ということはおそらく、この家を尋ねてきた客人なのだろう。
二人の容態は菜央の母親と全く同じで、二宮はそれぞれにお札を握らせていく。これもまた彼女と同じように、二人の表情は安らいだものになった。
症状が治まったところで、彰は部屋の中央に茶色い革の鞄が落ちていることに気が付いた。無造作に放り投げられたようなかたちで転がっているそれを二宮が拾い上げ、中身を確認する。
「医療道具にカルテ、か。どうやらその人、医者らしいね」
「菜央の両親が呼んだんだな。でも……」
どうしてこんなところで倒れているんだ? 彰は疑問に思った。
菜央の母親は台所で倒れていた。それはお客さんにお茶を出そうとしていたからではないかと推測できる。だが、半ば物置と化しているこの部屋に、菜央の父親とこの医者は何の用があって入ったのか。それが分からなかった。
浮かんだ疑問に眉を顰めていると、二宮が隣に戻ってきた。
「この二人は多分、自分の意思でここに来たわけじゃないと思うよ」
二宮も同じことを考えていたらしい。
「さっきの状況、まるで邪魔な荷物を適当に投げ捨てて蓋をしたみたいな感じだった。これをやったのはおそらく―――」
「おぬしら、そこで何をしておる?」
不意に、暗い声が響いた。妙齢の女性の声だ。
はっとして声の聞こえた方へ振り向く。
「菜央……?」
彰が居る部屋と菜央の部屋のちょうど中間あたりに、パジャマ姿の菜央が立っていた。
「先ほどからこそこそと何をしておる小僧ども」
だらりと力無く腕を垂らし、俯いたままなおも問うてくる声は、底冷えのする威圧感を纏っていた。
それは十五・六の少女の喉から出るにはあまりにも不釣合いであり、彰の知っている幼馴染のものでは到底ありえない。
「……解せぬ。そもそもおぬしら、なぜ平然とこの家を歩き回ることが出来る?」
影のような不気味な闇を周囲に纏わり付かせ、身じろぎ一つせず言葉を投げかけて来る。
真っ白な壁も、彼女の着ている物も、彼女の周りは一切合財が色を無くし、くすんだ世界を形成しているようだった。
「彼らをここに放り込んだのは君?」
普通の人間ならば物怖じするような状況の中、二宮は顔色も変えずに菜央に問いかけた。
一拍の間。
菜央の姿をしたものはここでようやく顔を上げた。
「おお、そうだとも。わしの話をそんなことと軽んじ、くだらぬことばかりべらべらと喋りおる。うるさいから黙らせてやったまでよ」
眇められた目は濁っており、その瞳は暗い光を湛えていた。吊り上った口をさらに吊り上げにたりと笑う幼馴染の顔に、一週間前までの面影はまったくと言っていいほど見当たらない。
あまりの変わり様に、彰は声も出なかった。
「取り憑いただけでなく意識まで完全に乗っ取ったか。なかなかの力を持ってるじゃないか、狐」
菜央の顔色が変わる。二宮の言葉を聞き、笑みを引っ込めたかと思うと、すぐに得心が行ったと納得した表情を浮かべた
「小僧、貴様……。そうか、なるほどな。道理で顔色ひとつ変えぬわけだ。わしを祓いに来たのか」
「その通り。僕が祓う前に自分で出て行ってくれると手間が省けて楽なんだけど、どうかな?」
口調は軽いが、要は力ずくで祓う前にさっさと出て行けということだ。舐められていると感じたらしい菜央は、顔を怒りに染めて二宮を鋭く睨んだ。
「たわけたことを抜かすな小童」
「ま、当然そう言うよね」
元から説得に応じるとは思っていなかったのだろう。二宮は肩を竦めてあっさり引き下がった。
「ふん、まったく腹立たしいことよ。齢四百を超えるわしが、この白玲(はくれい)ともあろう者が、たかが十やそこらを生きたばかりの餓鬼に舐められるとはな」
白玲と名乗った者が憤然として吐き捨てると同時に、白玲の周りの闇が蠢いた。
じわりとその幅を広げていき、それが壁や床や天井に達した途端、凄まじい勢いでもってこちらへと迫ってくる。
大口を開けて自分を呑み込もうと伸びてくる影。反射的に目を瞑り、顔を手でかばった彰はこの瞬間、本気で死を意識した。
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