#5.1 偽善の国

 土曜日の朝。目が覚めた時には、すでにハルは家を出ていた。リビングのテーブルの上には、『十時に大阪駅集合』と書かれた紙と黒焦げの物体が乗った皿が置かれていた。

「おーい、深海!こっち、こっち!」

 大阪駅の改札を抜けると、高橋と天音が立っていた。高橋がひと目も憚らずに僕に向かって大声で叫び続けるので、駆け足で彼らの元へ向かった。

「おはよう、深海君」

 天音が僕から目を逸らしながら言った。僕も彼女と同様、目を逸らしながら「おはよう」と言った。

「元気出せよ、深海。朝からテンション低くて、いつテンション高くなるんだよ」

 僕の腕を馴れ馴れしく突いてくる高橋が鬱陶しくて仕方がない。

「それで、僕に一体何の用だよ?」

「「え?」」

 天音と高橋が目をぱちくりさせた。何やら嫌な予感がする。

「王子に、あ、王子って秋草のことな。秋草からお前のことを知りたいから、まずは知人の俺らからお前の話を聞きたいって頼まれたんだよ」

 知人という言葉にびくりとする。きっとハルのことだから、ストレートに彼らにそのように伝えたのだろう。気まずさのあまり、顔が引きつった。

「そう、なんだ」

「それで、一緒に遊園地で遊ぼうって話になったんだけど・・・・・・お前、秋草から何も聞いてないの?」

「聞いてない。というか、誰が王子なんて大層な綽名付けたんだよ」

「俺。ちなみにその綽名を広めたのも俺」

 ドヤ顔を向けてくる高橋に殺意が芽生えた。ハルに馴れ馴れしくするなとは口が裂けても言えないが、一発殴ってやりたい気分ではある。

「あ、王子からLINEきた。『電車が遅延しているので先に行ってください。後で合流します。』だってさ」

 高橋の携帯に送られたLINEメッセージを見て、思わず卒倒しそうになった。

「深海君、大丈夫!?」

「大丈夫。ちょっと眩暈がしただけ」 

「いや、大丈夫じゃないだろ。ベンチで少し休むか?」

 よろめく自分を支えようと手を差し伸べてきた高橋の手をやんわり押しのけ、近くの柱に寄りかかりながら深呼吸した。その後、僕たちはUSJへ向かった。帰りたいのは山々だったが、来て早々帰るのも彼らに悪いし、ハルとこれ以上ギクシャクした関係でいるのは嫌だった。



「あー、楽しかった!やっぱり遊園地といえばジェットコースターだよな!」

「うん、楽しかったね!帰るまでにあと二回は乗りたいね!」

「・・・・・・楽しかった。楽しかったな」

 強い日差しの中、三時間以上待たないと乗れない超人気アトラクションの長蛇の列に並び、大して好きでもないジェットコースターに乗るという試練を乗り越えた僕は、まだ昼過ぎにもかかわらず体力的にも精神的にも疲弊しきっていた。

 皆が楽しいと言えば楽しいと言い、皆が美味しいと言えば美味しいと言う。息をするように空気を読み、オウム返しのように他人と同じ言葉を繰り返しながら、心の中では「そんなわけないだろ」とツッコミを入れる。自分でも馬鹿みたいだと思うのに、昔の癖が治らない。

 中学時代の知り合いといるせいか、自己というものを極限まで消して、常に皆から愛されることばかりを考えて必死に笑顔を取り繕っていたあの頃の自分を嫌でも思い出してしまう。相手の顔色ばかりを伺って、相手が喜ぶと思われる言葉や物を与えて、偽善を振りかざす。そうしなければ、僕は誰からも相手にしてもらえない。そう思って必死に取り繕っていたあの頃の自分には、もう戻りたくはない。

「あのさ・・・・・・」

 スマホで調べ物をしていた高橋が顔を上げた。

「なあ、深海は昼飯どこで食べたい?」

「え、あ、僕はいいよ。お腹すいてないし」

「じゃあ、そこのベンチで少し待ってろ。そこのコンビニで適当に買ってくるわ」

 高橋と天音の後ろ姿を見ながら、ベンチに座って彼らの帰りを待つことにした。

「・・・・・・帰るタイミング、完全に逃したな」

 軽快な音楽。家族連れの親子や学生たちのはしゃぎ声。楽しそうに自撮りする若者たち。どこもかしこも活気に満ち溢れ、この世のどこにも不幸なんて存在しないかのように皆が幸せそうな顔をしている。

 生きづらさを抱えている人が大勢いるにも関わらず、ここでは皆が幸せそうに振舞う。遊園地という場所は一時の幸福を手に入れることが出来る、まさに偽善の国なのかもしれない。そんなことを考えていると、頭上から一滴の水が落ちてきた。

「せっかく楽しい場所にいるんだから、もう少し楽しそうな顔をしてもいいんじゃない?」

 振り向くと、アイスのカップを持ったハルが立っていた。

「遅い」

「ごめん。これで許して」

 ハルがアイスカップを僕に差し出した。カップの中にはオレンジのシャーベットが入っていた。

「もしかして、ずっと尾行してたのか?」

「尾行じゃないよ。観察だよ」

「尾行も観察も同意語だろ」

 ハルからシャーベットを受け取るついでにシャーベットの代金を彼に渡した。

「高橋君たちは?」

「昼ごはん買いに行った」

「渚は買いに行かなくていいの?」

「お腹すいてないから要らない」

「シャーベット、余計だった?」

「・・・・・・いや、食べる」

 シャーベットをひとさじ掬い、「お前も食べる?」とハルに向けたが、彼は「僕はいいよ」と言った。兄の言っていた通り、ハルも兄と同様、生身の人間ではないのは確かなようだ。本当にハルがサイボーグだったとしても、別に気持ち悪いとは思わない。ハルはハルだ。彼が自分の隣にいてくれる、それだけで十分だった。

「ねえ、渚は何味が好き?」

「特にない」

「じゃあさ、渚の好きな食べ物を教えてよ」

「好きな食べ物・・・・・・。ごめん、分からない」

 ある時から意識的に自我を無視するようになった。気付けば、自分の好きなものだけでなく、自分のしたいことややりたいことさえも分からなくなってしまった。

「そっか。だったら、これからが楽しみだね」

「なんで?」

「自分の好きなものが見つかったら、知らない自分に出会えたみたいで嬉しいじゃん」

「その考え方、お前らしいな」

「そう?」

「ああ。僕も、お前みたいになりたかった」

 休み時間になると、いつもハルの周りに大勢の人が集まる。昼休みには中等部の学生が、放課後には他校の生徒が、ハルの姿を見に現れる。中性的で美術品のように整った彼を一目見たいと思う気持ちは分からなくもないが、ハルに関わる人間全員死んでしまえばいいのにと思ってしまう自分がいる。

「明るく社交的で、そこにいるだけで太陽みたいな存在に、僕もなりたかった」

「渚は十分魅力的だよ」

「お前に言われても嬉しくない」

「じゃあ、渚は誰に言われたら嬉しいの?」

 ハルの質問に言葉を詰まらせた。僕は手にしていたスプーンでドロドロに溶けたシャーベットをぐちゃぐちゃと掻き混ぜた。

「少なくとも、高橋君は渚のことを大事に思ってくれているよ」

「何も知らないくせに知ったようなこと言うな!!」

 頭に血が上り、持っていたシャーベットを地面に投げつけてしまった。ハルは床に落ちたシャーベットを見て、茫然としていた。

「おーい、深海!」

 遠くで高橋の声がした。不穏な空気を察知した天音は途中で足を止めたが、高橋は持ち前の鈍感さを発揮し、地面に落ちたシャーベットを踏みつけて、僕の前で足を止めた。

「なあなあ、深海!これ、新商品でめっちゃ上手いんだけど、一口要らない?」

「要らない」

「そう言わずに食ってみろよ。何事も経験してみないと分からないって言うだろ?ほら!」

 高橋がフランクフルトを僕に突きつけてきた。肉の匂いがしたかと思うと、次の瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。様々なトラウマが一気にフラッシュバックし、意識がぷつんと途切れた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る