第12尾【凍えた心、あたためて】


 結愛を保育園へ送り帰宅した涼夜を玄関で待っていたのは、真っ白な雪を彷彿とさせる髪と尻尾を持つ少女だった。


「キュン!」

「やぁキュウ。またこんなところで……さ、中に入って」


 キュウは涼夜の腕に絡みつく。涼夜はそれを振り解くと首を横に振る。彼の黒縁眼鏡に映る彼女は膨れっ面でそっぽを向いた。

 リビングに移動した後もキュウの機嫌は悪い。涼夜は気にせずパソコンと向き合い続編の執筆。

 続編の他に、短編も新たに。そんな彼のスマホがテーブルの上で小さく揺れた。音に反応したキュウの尻尾が跳ねる。


「社長から……」


 涼夜は西岡麻衣、——エヌオカ出版社長、麻衣からのメールに目を通す。


「一年ですか……」


 キュウは洗濯物を畳みながら横目で彼に視線を送る。スマホを見ながら唇を噛みしめる涼夜は、まるでヒトの形をした氷像のようだ。

 冷蔵庫を開けると、ペットボトルのアイスコーヒー。キュウはコーヒーを二つのコップに注ぎ氷を三つ投入、片方にはミルクを足した。

 それを涼夜の前に差し出し自らも腰を下ろす。


「キュウ、ありがとう」

「キュキュン」


 涼夜はアイスコーヒーを一口飲み、徐に語り始めた。


「キュウ、君には感謝しています」

「キュ?」


 キュウは大袈裟に首を傾げて見せた。


「少しお話をしましょうか。私がキュウとの接触を嫌うのには理由があります」

「キュウ……」


 涼夜は眼鏡の位置を整えキュウに視線を合わせた。


「私には、生涯をかけ愛すると決めた人が居ます。でも、その人にはもう、会えないのです。私が今、作家として名を馳せているのも彼女との約束で作品を受け継いだからであり、私の力ではありません。

 結愛ちゃんは彼女が、——結衣が死んで、笑わなくなりました。一年間、一度も。

 私の力では小説はおろか、結愛ちゃんを笑わせる事も出来ない」

「キュウ」

「去年、——二○十九年八月十一日、私と結衣は結婚しました。結愛ちゃんは結衣の連れ子です。当時四歳、いえ、五歳になったところでした。

 そんな日に、彼女は命を落としました。少し道路にはみ出した結愛ちゃんに、暴走した乗用車が突進して来たのを身を挺して守り……即死、でした」


 キュウは飲みかけていたコーヒーをテーブルに置いて、涼夜の言葉に大きな耳を傾けた。

 涼夜は続けた。


「私達は婚姻届を提出し、これから共に住むマンション、——ここへ足を運ぶところでした。これから、三人で人生を歩んで行くんだと疑いませんでした。盛大な式はあげなかったのですが、それでも彼女は幸せだと言ってくれた。

 その笑顔の数分後、終わりを迎えたのです。

 結愛ちゃんは言葉を失い、背中に消えない傷も負いました。多分、プールを嫌うのはその所為でしょう。それに、今でこそ会話をしてくれますが、事故から三ヶ月程は魂の抜けた人形のようで、言葉すら発する事はなかったのですよ」


 涼夜はパソコンに視線を移し続ける。


「でも、君が来てから、結愛ちゃんが笑った。キュウに母親を重ねているのか、私にはわかりません。理由はどうあれ、君のおかげで笑顔を取り戻したんです。結衣にそっくりな、笑窪の出来るクシャッとした笑顔。私は、その笑顔が大好きでした」


 涼夜はコップに口をつけた。キュウも同じく、ミルクたっぷりなコーヒーを飲む。

 同時にコップを置くと、二人の視線が重なった。

 キュウは優しく微笑んだ。


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 二人は結愛の事を語り合った。


 語り合った、と言っても、涼夜が一方的に語っているのをキュウが聞いているだけではあるが。

 結愛の一年間、大変だった事、その中でも楽しかった事、エモフレを継いだ話や、お友達とのケンカの話、お好み焼き屋の常連になった話、——それをキュウに聞かせた。

 キュウはとても嬉しそうに聞いた。


 まるで夫婦が子の話をして笑うように——


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 やがて夜が来た。

 涼夜は保育園に泊まっている結愛を案じた。キュウが居なくても泣かずに眠れるか心配なのだ。


 深夜零時、キュウは先に眠りについた。

 涼夜は仕事を切り上げ寝室へ。

 そっと扉を開ける。

 キュウは結愛のベッドで丸くなって眠っている。涼夜はじっとその姿を見つめる。


 沈黙、鼓動、静寂、


 手が、伸びる。意思とは反して。


 手のひらが彼女の柔肌に触れる寸前、彼は自我を取り戻し理性を働かせた。


「……私は……最低だ……」


 涼夜は自らのベッドに横たわり、キュウに背を向けて強く目を瞑った。脳裏に過ぎる様々な思惑が眠りを妨げる。

 時計の針の音が、鼓膜を揺らす。揺らす。

 そして、フワリと香るのは、少女のかぐわしい香り。甘い蜜のような香りが涼夜の背中をあたためる。広い背中と柔らかな胸が密着し、不揃いな鼓動が歪なリズムを刻む。


 沈黙、


 ——言葉は、はかない

 涼夜は向き直り、その細い両腕を掴むと、彼女に覆い被さる。眼鏡を外した切れ長の眼が、はだけたパジャマ姿の少女を捉える。乱れた息、時計の針の音、軋む、ベッド。涼夜は掴んでいた腕を放し唇を震わせた。しかし、


 ——言葉は、吐かない

 キュウは白く細い両腕を伸ばし、涼夜の首にまわす。そして子供を愛でるように優しく抱き寄せる。涼夜は、導かれるままに彼女の吐息をのんだ。

 溢れる吐息、時計の針の音、舌を絡め合う大人の旋律、歪な不協和音はいつしか完成されたリズムを刻み出してゆく。


 ——言葉は、儚い

 二人は無言で体温を分け合った。

 彼女の初めてを彼は奪った。

 全てを奪って、汚して、そして、傷を付けた。



 これが彼と彼女の、最初で最後の——





 キュウは、笑いながら、泣いていた。その心は彼女にしか知り得ない。

 同じく涼夜も瞳から大粒の涙を流した。そんな涼夜を大きな胸で慰めるキュウ。この時、キュウが言葉を話せたなら、どんな言葉を紡いだだろう。

 泣く子供を諭すように優しく頭を撫でる。

 身を委ね、大人げなく顔を埋める。

 涼夜の心を埋め尽くす背徳感をはらうように、キュウは鼻歌を歌った。


「……っ……!?」

「……キュ、キュウキュウ〜」


 涼夜は、言葉を飲み込んだ。


「……」

「キュウキュキュ〜」


 優しいメロディが夢へといざなうと、小さな寝息を立て大きな子供は眠る。


 時刻は深夜二時二分、


 涼夜を抱くキュウの背後に、——気配。


 気配は云った。


『刻限は近い』


 キュウは涼夜を強く抱き瞼を閉じ耳を塞いだ。依然として声は響く。もう一度、気配は告げる。


『——刻限までに、汝、願いを成就出来なければ、待つものは永遠の闇。無の世界、

 ——刻限は九月の九日、午後九時九分、九秒、

 汝、仮初の幸せに溺れ、目的を忘れるなかれ』


 告げた気配は消えた。


 夜が明ける——

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