02 おっさんとお勉強


 暑い。寝起きのぼんやりした脳が異常を訴えた。次いで耳元で聞こえた荒い呼吸音と頬にかかる湿った息遣い。思わず布団を払いのけた手に、毛足の長い何かが触れた。


「お……ッ、ぇあ?」


 悲鳴を押し殺すあまり間抜けな声が出てしまったが、誰も聞いていないのでいいだろう。文字通り目と鼻の先に、濡れた鼻先があった。瞬きを繰り返し、おぼろげだった視界をはっきりさせる。近すぎてなかなかピントが合わない。何かに触れたままだった手を動かせば、心地いい肌触りと体温が手のひらに滲んだ。


「狼?」


 ぽつりと落ちた呟きにわふんっ、とやけに上機嫌な鳴き声が返ってきた。身の丈2mは軽く超えている狼だ。上半身を起こせば、それに合わせて身を引いてくれる。賢い狼だ。


「アオイちゃん、起きたぁ?」


「あ、おじさん。おはようございます」


 寝室からリビングに繋がるドアから男が顔を覗かせる。革のズボンを履いただけの上半身裸だ。この世界はシャツを着る習慣はないのだろうか、と一瞬馬鹿げた考えが頭をよぎる。狼は男の顔を見るなり勢いよく尻尾を振った。思った通り、男の飼い犬ならぬ飼い狼なのだろう。


「うん、おじさん……おじさんかぁ……」


「す、すいません……」


「いや、いいんだけどねぇ……」


 男はそのたくましい背にしょんぼりと哀愁を漂わせた。結局名前を知ることが出来なかったので、碧は男の事をおじさんと呼ぶことにしていた。本人はおっさんと呼んで欲しかったようだが、お世話になる人をそんな風に呼ぶのは気が引けたのだ。最初はおじさまと呼ぼうとしたが、男は酷く嫌がった。曰く、『おっさんそんなキャラじゃない』とのことだった。


「あの、この仔は?」


「あぁ、コイツはおっさんの相棒のチビだ」


 チビ。碧は思わず男の言葉を復唱した。名を呼ばれた当人はベッドに前脚をかけてふんふんと碧の匂いを嗅いでいる。


 繰り返すが、チビは身の丈2mほどの狼だった。青みがかったグレーの毛並みはうっとりするほど美しく、滑らかで手触りが良い。金色の瞳は人懐っこそうにキラキラと輝いている。鼻先に手をかざせば擦り寄ってきた。かわいい。


「出会った時は小さかったのよ」


 言い訳のように唇を尖らせて男が呟く。よくある話だ。そのままチッチッと舌を鳴らしてチビを呼ぶ。が、チビは男を一瞥して尻尾を揺らしただけで、動く気配はない。相変わらず興味深そうに碧の身体を嗅ぎまわっていた。碧も碧でチビの耳の裏やら頬やらを撫でてその滑らかな毛並みを堪能している。


「むー、若い子が良いってかー? 浮気者めー」


 わざとらしく芝居がかった仕草で肩を落としたかと思うと、男はつかつかとベッドに歩み寄った。そして戯れる1人と1匹の内の1匹を引きはがす。襟首を掴まれてぶら下げられたチビが抗議するように唸る。片手に狼をぶらさげたまま、男は碧へと向き直った。


「これ、おっさんの昔の服。多分おっきいけど……着替えたら降りておいで、ご飯にしよ」


「すみません……ありがとうございます」


 男は反対の手に提げていた紙袋を碧に渡した。そのまま空いた手でぽりぽりと頬を掻く。


「おっさん、若人の服はよくわかんないからね。ご飯食べたらちょっとお勉強してから色々買いにいこうか」


「あ、はい……色々とすみません」


 男はへにゃりと眉を下げた。


「謝ってもらうようなことはしてないんだけどなー」


「あっ……えっと、ありがとうございます」


 良く出来ましたと言わんばかりに男は碧の髪をかき回す。そうして、チビをぶら下げたまま、部屋を出ていった。碧はしばらくぐしゃぐしゃにされた頭に手をやって呆けていた。が、あまり待たせるわけにはいかない。紙袋を持ってベッドを降りると、部屋の隅にある姿見へと向かった。


 寝間着の代わりの大きなシャツと短パンを脱ぎ、鏡に映す。そこには昨日男が見せてくれた犬の足跡のような紋様が浮かび上がっていた。異世界の人間である証だと言っていたが、何か意味があるのだろうか。


 散らかる思考を取り敢えず一度頭の片隅へと追いやり、紙袋の中に入っていたシンプルなシャツとスラックスを身に付けた。男の言う通り、少し袖と裾が余る。覗き込んだ鏡の中の顔色は昨日より幾分か良かった。ベッドでぐっすり眠れたおかげだろう。


 昨日の夜は男の呼び方以外に寝る場所についても一悶着あった。ソファで寝ると言った碧を男が止めたのだ。居候の身で男を差し置いてベッドで寝る訳にはいかないと主張したのだが、こちらも男曰く、『そんな病人みたいな顔色の子、ソファに寝かせらんない』とのことだった。そのまま押し切られる形でベッドを借りることとなったのだが、男の判断は正しかったのだろう。碧は2階の寝室に入るなり、ベッドに倒れ込んでそのまま寝入ってしまったのだ。身体はともかく、精神的にはかなり疲弊していたらしい。


 髪を手櫛で整え、リビングへと続く階段を下りる。扉を開けるとチビが駆け寄って来た。碧が歩くのに合わせて足元をぐるぐる回っている。碧が席についてようやく、自分用のエサ入れの前に戻っていった。


「随分気に入られたねぇ。おっさん、コイツとはそれなりに長い付き合いだけど、ここまで他人に懐いてるの初めて見たよ」


「そうなんですか?」


「フェンリルって種族なんだけど、人には滅多に懐かないよ」


 男はチビの水入れに水を注ぎ、擦り寄ってきた頭を撫でた。チビはぶんぶんと尻尾を振っている。なかなか懐かないなどと言われても正直ピンとこなかった。


「コーヒー飲める? お茶もあるよ」


「あ、じゃあお茶で……あの、何か手伝えることありますか?」


 腰を浮かせた碧を制し、男は碧のグラスにポットからお茶を注いだ。


「まぁ、そのへんはおいおい覚えてもらうからさ。君はとりあえず元気になってね」


 どこまでもいい人だ。碧は冷えて汗をかいたグラスを手に取りながらそう思った。同時に疑問にも思う。どうしてここまでしてくれるのだろう。同じ世界の人間ですらないまったくの異物である自分に、どうしてここまで優しくしてくれるのだろうか。


 だが、それを訊くのはまだ、少し怖い。


「ありがとう、ございます……」


「ん、どーいたしまして。さ、食べよ」


 男はカトラリーを碧に渡すと、ぱちんと手を合わせる。碧もそれに倣い、いただきますと呟いて食事を始めた。目の前にはパンとシチュー、サラダのボウルは2人の真ん中に置いてあり、傍らにドレッシングの小瓶と小皿が添えてあった。


「不味くはないと信じてるけど、どうかな? 大丈夫そう?」


「あ、はい! おいしいです」


 心配そうにこちらを覗き込む男に碧は慌てて答えた。とろりとしたシチューは家で食べていたものとほとんど変わらなかった。サラダも何となく見たことがあるような野菜で作られている。パンも温かくて柔らかい。


「そ、よかったぁ……人に食べてもらうのとか久々だからさ。チビは何出しても喜んで食うしね」


 あ、一応味見はしたんだよ? と男は少し焦ったように付け加える。大きな身体に不釣り合いなその仕草に、碧は小さく笑った。そうしてもう一度、おいしいです、と告げた。



◆◆◆◆◆



 食事を終えた後、碧は男に頼んで皿だけは洗わせてもらった。今回はさほど強く反対はされなかった。だいぶ落ち着いて見えたのだろう。手持ち無沙汰の男はこちらも食事を終えたチビとボールで戯れていた。手を拭きながら眺めていると、本当に懐かない狼には見えない。ただその遊びの速度だけは尋常でなく早かった。


 男がボールを投げる。その瞬間に瞬きをしてしまうと、目を開けた時にはもうチビはボールをくわえているのだ。そうしてぶんぶん尻尾を振りながら、男にボールを渡す。碧が濡れた手を拭いている僅かな間に10回以上は同じことを繰り返していた。飽きないのだろうかとも思ったが、尻尾の様子を見る限りそんな心配は不要のようだ。


「チビ、楽しそうですね」


「そうだね……おっさんはそろそろ疲れたかな。チビ、お座り」


 手首が痛いのだろう、プラプラと揺らしながら男が呟く。言葉に従ってチビはちょこんと座った。そうして大欠伸をするとそのまま身体を横たえる。男はボールをその辺に放ると、チビを撫でてから昨日の地図を取り出して机に広げた。青い海の中に3つの大きな大陸が浮かんでいるだけの簡易な地図だ。


「昨日ここがどの辺かは教えたよね?」


 碧はこくりと頷く。昨日とは違う場所を指で差しながら男は続ける。


「まず、この世界は3つの大陸で成り立ってる。一番小さいのがニダヴェ、ニダヴェの東側がスバルム。で、北側の一番おっきいのが俺らがいるミズガルドね」


 男の指が地図の上でくるくると円を描く。地図上に描かれた逆三角形に近い形をした一際大きな大陸は上から3分の2ほどの辺りでグリョート山脈という標高の高い山々によって分断されている。山脈の北側、ノア王国とは反対側の広大な土地は黒く塗りつぶされていた。


「この、黒塗りの部分は何ですか?」


「ここは未開発の土地なんだ……って言っても魔物の領土だから誰も開発しようなんて思わないんだけどね」


 魔物。うん、魔物。思わず繰り返した碧の言葉をなぞるように男は頷く。


「このチビも種別的には魔物だかんね。まだ子供だからこんなだけど、成体はもっとデカいんだよ」


 足元で悠々と寝そべっているチビを指しながら、男は事も無げにそう言った。自分が話題に上がったのがわかっているのか、ぴこぴこと耳を動かしてこちらを向く。この大きな狼は更に『チビ』ではなくなるらしい。


「その辺の解説も必要かな」


 男は地図を畳んでページをめくった。見開きのページには簡易なスケッチと説明文が載せられている。見たこともない文字ではあったが、碧は理解することが出来ていた。不思議だが、便利だ。


「魔物ってのは簡単に言うと魔力を持った動物の総称。基本的にはさっき言ったミズガルドの北側に生息してるんだわ。たまーに昨日みたいにこの辺りをうろつくこともあるけど、こっちからちょっかいかけなきゃ基本は無害だから」


 魔物の代表格なのか、解説の傍らにはフェンリルと昨日窓越しに見たドラゴンのような生物が描かれていた。対になるように隣のページには普通の狼とトカゲの絵が描かれている。男がまたページをめくる。


「んでこれがヒューマーとデミヒューマー」


 開かれたページには保健体育の授業で見たような男女と、ゲームやアニメなどでよく見る、人に獣や竜の耳と尻尾を足したような人間の絵が描かれていた。


「もうちょい詳しく言うと、こっちの獣耳のがフェルパーでこっちのドラゴンみたいのがバハムーン。この2種族の他にもエルフとか、ドワーフとか……極端に言うと人間より数が少ない種族達をひっくるめてデミヒューマーって呼んでるのね」


 おっさんは見ての通りヒューマーだよ、と付け加えられ、碧はひとまず頷いた。そうして男は再び地図を広げる。


「で、ミズガルドにはヒューマー、スバルムにデミヒューマー、ニダウェにはヒューマーとデミヒューマーが混在して住んでる……大まかな説明はこんなもんかな。他に何かききたいことある?」


 最後の質問に碧は男の説明を思い返した。そうして一つの単語を思い出し、口にする。


「あの、魔力ってことは魔法があるんですか?」


 あぁ! と男が声を上げ、慌てた様子でページをめくっていく。やがて『魔力と魔法について』と命題が掲げられたページが開かれた。


 ――魔力とは。精霊と対話出来るか否かの資質である。この世の総ての自然現象は精霊によって引き起こされる。精霊と対話し、その力を借りて自然現象を人為的に起こすことを魔法と呼ぶ。


 一通り目を通すと、碧は男に視線を移した。男は困ったように眉を寄せている。


「おっさん見てわかる通り、資質ゼロだから。詳しいことはわかんないのよ」


 男は肩をすくめて続けた。


「まぁ、ヒューマーで魔法使えるヤツってのもあんまり見たことないんだよね。魔法が使えるヤツのほとんどは魔物かデミヒューマーだよ。精霊との波長がどうとか聞いた気がするけど、ミズガルドに住んでりゃほぼ縁はないから」


「なるほど……」


 碧もいまいちピンとはこないが、要するにファンタジーの世界の話のようだ。取り敢えず普通に生活していれば関わりのない話なのだろう。


「ま、後わかんないことあったら逐一おっさんに聞いてね。遠慮しなくていいよ。多分、バレる方がヤバいからね」


 男はそう言うとぱたんと本を閉じた。そうして立ち上がると壁に引っ掛けてあったコートを羽織り、剣を腰に差した。碧がきょとんとそれを見上げる。こちらも不思議そうな表情をした男がドアの方を指差した。


「一通り説明も終わったし、買い物行こうよ」


「え、ぁ……」


 碧は口ごもった。一通り終えたと言われても不安は残る。らしく振舞えるだろうか、ボロが出たりしないだろうか、と嫌な想像が頭の中を駆け抜けていった。


「不安?」


 そんな思いを当然のように見透かして、男は碧を覗き込んだ。素直にこくんと頷く。そっかぁ、と呟いた男はにかっと笑うと碧の頭を撫でた。


「おっさんの近くに居れば安心だよ。何かあってもすぐフォローするし、さ」


 本当に、どうしてここまでしてくれるのだろうか。差し出された手に、碧は自然と自分の手を重ねていた。身体に見合った大きな手だった。傷だらけでごつごつとした、力強い手だ。


「じゃ、行こ?」


 男が軽く手を引く。碧は少しだけ笑って、自分から立ち上がった。

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