第33話 千怪万妖骸鬼ノ王⑤
決戦の地となったコレクションルームにて。
「……どうした?」
拳をゴキンと鳴らして、ゴーシュが訝しげに尋ねる。
「何故、武装を解く?」
土煙が晴れて、現れた久遠真刃。だが、彼は式神の武装を解いていた。
かといって、傍らに式神が控えている様子もない。完全に無防備な姿であった。
「まさか、さっきの一撃程度で戦意喪失した訳じゃないだろう?」
「無論だ」
真刃は、言う。
「本番は――いや、終幕はこれからだ。だが、それにしても」
そこで苦笑を零しつつ、左の懐に手を入れた。
そして、取り出したのは一本の缶コーヒーだった。
「拳を受けたのが右脇腹で助かったぞ。危うく一日たった三本という貴重な缶コーヒーを無駄にするところであった」
言って、カシュッと開ける。真刃は喉を何度か鳴らして、コーヒーを味わった。
今回は糖分一切なし。ブラックだ。
「……さて」
苦味を堪能した後、真刃は缶コーヒーから指先を離し、フロアに落とした。
カツン、と音が響く。
垂直に落ちたため、缶は倒れることもなく、その場に留まった。
「……一服は、終わったか?」
ゴーシュが皮肉気な様子でそう尋ねる。と、
「ああ。では、終幕といこう」
言って、真刃は笑った。その直後のことだった。
「――なにッ!」
ゴーシュが、目を見開く。
突如、壁の一角が崩れ落ち、大量の瓦礫が真刃を包み込んだのだ。
蠢く瓦礫は、まるで巨大な人の腕のようにも見えた。
続けて、瓦礫の腕は、真刃を壁の中へと引きずり込んでいく。
一瞬、まだ我霊の首魁が生きていたのかと疑ったが、視線を向けると、そこには変わらない女の腐乱死体があった。少なくとも、我霊の仕業ではない。
そう判断した矢先だった。
『……サテ。カクゴシテ、モラオウカ』
唐突に。
とても不気味な声が、コレクションルーム内に響いた。
ゴーシュが唖然とすると、室内が大きく揺れる。
全方位の壁から大量の溶岩流が溢れ出し、鋼のフロアを覆った。
溶岩流は、ゴーシュの膝下まで呑み込む。戦闘装束まで浸食することはないが、室温はみるみる上昇し、部屋はまるで火口にでも落とされたかのような熱気に包まれていく。
ボコン、ボコンッと気泡が響いた。
さらには、支柱のごとく巨大な灼刃まで乱立する。
――無数の刃が反り立つ灼熱の海。
その光景は、もはや完全に別世界のものだった。
「な、何だ、これは!」
想定外の異常事態に、眼光を鋭くしてゴーシュが叫ぶ。と、
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
溶岩の海から、灼刃よりも巨大な腕が突き出してきた。
それは先程の人のような腕ではなく、爪を持つ獣の巨腕だった。
流動する溶岩流を纏う、灼岩の腕である。
ゴーシュが唖然としていると、巨腕から天井、壁、溶岩の海に向かって、十数の黒い鎖が飛び出してきた。鎖はそれぞれの場所に抵抗もなく沈み込む。
ギシリ、と鎖が軋んだ。
灼岩の腕の動きが一気に緩慢になる。
どうやら、あの十数の鎖によって拘束されているようだ。
(あれは《
ゴーシュは眉根を寄せた。
大きさこそデタラメではあるが、見覚えのある鎖だった。
かつて、ゴーシュに敗北した男が、最後の悪あがきで彼に術を放とうとした時に発現した鎖である。誓文に対し、反する行為を強制的に封じる拘束具だと聞いている。
しかし、あの鎖が発現するということは……。
(あの男、何かしらの《制約》を受けているのか? いや、それよりもだ!)
今はそんな推測にかまけてもいい事態ではなかった。
「くそ!」
ゴーシュが小さく舌打ちして間合いを取ると、今度は壁の上方が振動した。
「今度は何だ!」
ゴーシュは、険しい顔つきのまま視線を上に向ける。
と、そこには、恐らく五メートルにも至るであろう巨大な顔が生まれていた。
これもまた、灼岩と溶岩流で造られた獣の顔だった。
既存の生物だと、羆に似ているが、雄牛のような巨大な角も持っている。
『グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!』
岩のアギトがおもむろに開かれて、放たれる咆哮。
ただそれだけで、溶岩流が大きく波打った。
そして、灼岩の巨獣は、ゴーシュを見下ろした。
「――チイィ!」
ゴーシュは、周囲の溶岩流を吹き飛ばして跳躍した。
黄金の軌跡が、宙に奔る。
それは壁に当たると反射し、縦横無尽に部屋中を駆け巡る。攪乱と加速を繰り返したゴーシュは、閃光のような速度で渾身の拳を巨獣の眉間に叩きつけた!
衝撃が館を揺らした。
――が、
「ッ!? ぐうううッ!」
叩きつけた右拳に、激痛が走る。
巨大な我霊を圧倒し、鉄塊さえも粉砕するゴーシュの剛拳。
それを限界まで加速させた必殺の一撃のはずだった。
だというのに、灼けた岩にしか見えない巨獣の額は、揺らぎもしなかった。
それどころか、渾身の反動か、今の一撃で拳の方が壊れかけている。
(なんという強度だ!)
愕然とする。と、同時に、負傷した右の拳がズキンッと強く疼いだ。
ゴーシュが顔を苦痛で歪め、わずかに集中力を途切れさせた、その瞬間だった。
――ズドンッ!
鎖を引きずる巨大な灼岩の腕が、宙空にいたゴーシュの体を打ち払う!
「――があッ!」
ゴーシュは叫びながら、溶岩流へと叩きつけられた。
ゴーシュの身体は、灼熱の海の上を何度もバウンドする。
並みの引導師ならば、即死してもおかしくない衝撃だ。しかも勢いがまるで衰えない。乱立する灼刃の一つに激突することで、ようやく止まったぐらいだ。
「が、がはっ……」
膝の上に片手をつき、ゴーシュは血が混じった息を吐き出した。
バキンッ、と鏡面の仮面の口元が割れる。
たった一撃で全身が悲鳴を上げていた。
喉が灼けつくほどに熱かった。もはや、立つことさえ困難な状況だった。
ぐらり、と体が傾く。今にも意識が飛んでしまいそうだ。
だが、それでも――。
「ぐ、ぐう……ッ」
膝から手を放し、ゴーシュは二本の足だけで立って巨獣を睨み付けた。
――敵の前でひれ伏すなどあり得ない。
戦士として、何より一族の長としての矜持である。
対する灼岩の怪物は、冷たい眼差しをゴーシュに向けていた。
数秒の沈黙。
「……お前は、一体、何者なんだ?」
ゴーシュは怪物を問い質す。
はっきりと感じ取れる。こいつは
あの巨大な女の我霊など、足下にも及ばない。
明らかな
まるで、こいつこそが、この館の真の主のようで――。
『オレガ、ナニモノナノカ。ソレハ、オレモ、サガシテイル、トコロダ』
灼岩の怪物が言う。
その声には、どこか皮肉が込められていた。
『ダガ、イマハ、ドウデモイイコトダナ。オワリニスルゾ』
そう告げて、怪物はふと視線を逸らした。
ゴーシュは、つられるように視線の先を追った。
――そこには迫りくる巨腕の姿があった。
黒い巨大な鎖に拘束されて、その動きは決して速くはない。
しかし、あまりに悠然としたその姿は、まるで巨鯨の遊泳でも見ているかのようだった。そのため、ゴーシュは一瞬だけ呆然としてしまった。
――が、
「――チイッ!」
すぐに舌打ちする。
続けてその場から跳ぼうとするが、ガクンと膝が崩れてしまった。
溶岩流に片腕をついて青ざめる。
呼吸すら厳しい熱気の中で、知らぬ間に著しく体力も消耗していたのだ。
巨腕は指先を開き、ゴーシュの体を捕らえた。
宙空に持ち上げられ、下半身がギリギリと締め付けられる。
「くそッ! くそがッ!」
ゴーシュは巨大な手に掴まれつつも、灼岩の指に、何度も肘や拳を打ち付けた。
だが、指はビクともしない。
ただ、巨腕の握力だけが増していく。背骨が悲鳴を上げた。
「ぐがあああああああッッ!」
苦悶の表情を浮かべるゴーシュ。
このまま握り潰す気かと強い焦りを抱くが、それは杞憂だった。
何故なら、巨腕に伝わる溶岩流が、突如、赤い光を放ち始めたからだ。
「き、貴様ッ!」
すぐさまこれが攻撃の予兆だと察する。そして恐らく、その攻撃とは――。
『デキレバ、シヌナヨ。ゴーシュ=フォスター』
怪物は、そんなことを言った。
さらに輝く巨腕。フロアを呑み込む溶岩流は、波打つように躍動した。
ゴーシュは「うおおおおおおおおお!」と絶叫を上げた。
そして――。
大爆炎が、骸鬼王の館の一角を呑み込むのであった。
「……おおッ!」
古き館の一角を吹き飛ばす爆炎に、青年は目を丸くした。
そこは森の中。佇むのは、ぼさぼさとした長い髪を後頭部で纏める、灰色のスーツを着た青年。エルナたちの担任教師である大門紀次郎だ。
彼は密かに見届け人として、この場所に来ていた。そして目にしたのが今の光景だ。
「これは、何とも凄い術ですねェ……」
まるで火山の大噴火を思わせるような爆炎。威力のほどは、破壊された館が教えてくれる。
「本当に凄いですねぇ。あれでは、まるで……」
そう言いかけて、大門は苦笑を零した。
伝説にある《
大門の先祖も討伐に一躍を担ったという、お伽噺にも等しい怪物。
かの怪物も、大爆炎を放っていたという。
「ふふ、流石に例えとしては言い過ぎですかねえェ」
大門は、目を細めた。
帝都を両断したと伝えられる大爆炎と一緒にするには、規模が小さすぎる。
まあ、それでも充分、とんでもない威力ではあることに変わりはないが。
「いずれせよ」濛々と火炎と黒煙が立ち上る館を見やりつつ、あごに手をやる。「あれはフォスター氏の術ではないでしょうゥ。勝利したのは久遠氏ですかぁ」
勝敗は決した。勝者は久遠真刃。
同時にそれは、杜ノ宮かなたが、彼の隷者になることが決まったのである。
まだ子供である教え子の一人の未来が決まり、教師としては少しだけ心が痛むが、
「ですが、彼女も引導師。これも習わしですしねェ。弱者は強者の所有物に。それが今も昔も変わらない引導師の理ですからぁ」
嘆息しつつも、そう言い切る。
弱肉強食。結局、それがこの世界のすべてなのだ。
ただ、すでに隷者であるというエルナ=フォスターの様子を見る限り、久遠真刃は非道な男ではないようだ。保護者面談でも彼女に対する深い愛情が感じ取れた。
きっと、杜ノ宮かなたの扱いも、ゴーシュ=フォスターよりは、まともだろう。
「とは言え、存外、フォスター氏も、愛人たちには優しいとか――と、存外、存外。フォスター氏の口癖が移りましたかねえェ」
何にせよ、ここから先は大門が口出すことではない。
後は、久遠真刃と、杜ノ宮かなた。そしてエルナ=フォスターたちで決めることだ。
果たして、彼らはどんな未来を選ぶのか――。
「ふふ、あなたもこれから大変そうですねえェ。久遠真刃氏。ですがァ」
大門は少しだけ、眼差しを優しくした。
と、その時だった。
特に、意識していた訳でもなく。
皮肉気に思っていた訳でもなく。
大門は小首を傾げた。
何故か、その台詞は、ごく自然に自分の口から零れ落ちていた。
「……はは、真刃」
青年は、告げる。
「君の未来に幸多からんことを心から祈っているよ」
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