桜・みかん・テンキー

「みかんの皮むいてやるよ、口を開けてな」


 ベッドに横たわる友人は、ゆっくりと口を開く。城門が開くかのようにのっそりと、けれども確実に開いてゆく。友人の口が開ききるまでの間に、俺はそそくさとみかんの皮をむく。果実の部分にこびりついた白い筋も、念入りに取り除いてやる。こいつは意外とグルメなところがあって、筋があると食べようとしないのだ。


「ほれ、ゆっくりな」


 つるりした橙色以外に何色も見受けられなくなった果実を、友人の口へと放り込む。それを、友人はゆっくりと噛みしめた。顎が微妙に左右に揺れ、咀嚼音が微かに聞こえてくる。しっかりと噛み砕くのではなく、まるですり潰しているかのようなその様は、まるで草食動物のように思われた。


「ああ、もう。こぼしてら」


 友人の口の端から、ぽたぽたと果汁がこぼれ落ちる。俺は笑いながら、そっとそれを拭きとってやった。


「どうだ、美味いか?」


 友人の口元が綺麗になったのを確認した後、俺は彼の顔を覗き込みながらそう言った。俺の質問に答えるよう、友人の右手の先がぴくぴくと動く。質問をしてから数秒ほど経過してから、友人から返答があった。


『1』


 カチリ、と友人の手元から何かを叩くような音がした。

 彼の右手の下に添えられた、数字や記号の書かれた長方形型の機械――テンキーから。


「そうだろ、この銘柄のみかんは甘くて美味いんだ。そらもっと食え」


 彼は、事故の後遺症で体をまともに動かすことが叶わない。意識はあるのだが、話すことも身振り手振りで感情を伝えることもできないのだ。友人が何を思い、何を考え、何を伝えたいのか、俺たちにはそれを知ることができない。


 友人として、非常に歯がゆい思いをこれまでしてきた。

 だがそれ以上に、こいつもやるせない気持ちで一杯であったろう。


 そこで医師が提案してきたのが、このテンキーである。なんてことはない、パソコンにUSB接続するタイプのどこにでも売っているものだ。1から9の数字と、四則演算記号、CとかCEの記号、あと少々の記号――ごくありふれたテンキーと思う。


 友人は、右手の指であれば辛うじて動かすことができる。動かすことができるといっても、本当にごくわずかだが。とにもかくにも、テンキーの数字を選んで押すことは何とかできるのだ。


「まだいるか?」

『1』


 医師が提案したのは、数字ひとつひとつに意味を持たせて、友人とコミュニケーションをとることだった。『YES』ならば『1』を、『NO』ならば『2』を、『嬉しい』なら『3』を、苦しいなら『4』を、といった具合に。


 わずかに動く右手のリハビリ的な意味も込めた試みであったが、これは革命的であった。十年来の友人である彼と意思疎通ができず、参ってしまっていたところに差し込んだ光明、俺と彼とを包み込んでいた常闇を切り裂く一筋の光――そんなものに感じられた。


 単純なコミュニケーションしか取れないが、それでも0よりはマシだ。0と1では、何もかもが違う。


「それにしても、この部屋いいよなあ。窓から桜が見えるなんてな、風情があるぜ。そう思わねえ?」


 しばらくみかんを食べさせていると、ゆっくりと友人の右手が動き、カチリとテンキーが音をたてた。押されていたのは『2』――『NO』だ。もうお腹いっぱいということだろう。


 俺はみかんをむくのをやめて、余りを自分の口へ放り込む。ふと窓の外に目をやって、散りかけの桜を眺めながらそう言った。


『1』

「だよなあ。ここ、個人部屋だろ? しかも窓からは桜が見える、特等席じゃねえか」

『3』

「そら嬉しいよな。なんせ――」


 そこまで口にして、はっと我に返ってその先の言葉を飲んだ。

 『なんせ、冬を越せないでしょうなんて言われてたのにな』――そんな無神経な言葉を。


「ごめん」

『2』

「気にすんなってか。優しいなお前は」


 友人の優しさに、俺は思わず涙しそうになった。


 彼は、もう長くない。

 俺も詳しいことは知らないが、事故のダメージが脳にまで影響を及ぼしているだかなんとかで、医師からは冬を越せないと言われていたのだ。


 彼の家族はもちろん悲しんだが、どうやらある程度の覚悟はしていたようだった。一方で俺はというと、全くそれを受け入れられず、声を張り上げ、泣き、叫んだ。


 どうしてこいつがこんな目にあわなければならないのか。誰よりも優しく、誰よりも暖かく、誰よりも強いこいつが。しかし俺は、病室で泣き叫びながら、はっと気が付いた。


 誰よりも苦しく、悔しいのは、こいつ自身だ。

 けれどもこいつは、泣き叫びたくてもできない。


 そのことに気が付かされた俺は、自らの行動が恥ずかしくてたまらなくなった。だからせめて、友人が最期の時を迎えるまで一緒にいようと決めたのだ。彼が俺の言葉にテンキーで応えてくれる限り、一緒にいようと。


「駄目だな俺は、ほんと。無神経と言うか、馬鹿と言うかさ」

『2』

「慰めてくれんのか。ほんとさ、お前はいい奴だよ」


 けれども俺は馬鹿で、無神経で、弱い人間だ。

 こうして何とか冬を越せて春の桜を拝めた友人の目の前で、弱音を吐いてしまっている。窓の外でなんとか花弁を留まらせている桜の木のように友人も踏ん張っているというのに、何一つ不自由ない俺がそんな彼に慰められているだなんて、笑い話にもならない。


 視界がじわりと滲む。

 友人が長くないと知ってから、俺の涙腺はすっかりと脆くなってしまっていた。ただそれを彼に見られたくない程度に自分は矮小な人間であるので、思わず彼に背を向けて、窓の外に見える桜へ目をやった。


「もう桜も散っちまったな。冬を越せるか、とか言われたお前が、桜の散るところまで見れたんだ。こりゃ、秋の紅葉が散るのも見られるぜ」


 熱くなる目尻を見せまいと、俺は背中を向けてそう語る。声も背中も震えているが、せめて顔だけでも隠さねばならない。強く生きた彼の目の前で、どうして弱い姿を見せられようか。


「ごめんな、こんな友達でよ。迷惑、じゃなかったか、俺となんかいて。俺はさ、お前と友達で、本当によかったと思ってるんだ。感謝さえしてる。その、さ。お前は、どうだ?  俺はお前に色々迷惑とかけて、嫌な思いとかさせちまったかもしれない。正直に教えてくれ、俺に対してどう思ってるかをさ」


 友人からの返答はなく、テンキーは静かに彼の手元で佇んでいるようだった。

 だが、その数分後だろうか――


 ――カチ、カチリ


 ゆっくりと、テンキーが押される音が病室へ響いた。

 それは、桜の木に留まっていた最後の花弁が風に舞って散るのと、同時のことだ。


「ごめんな、なんか変なこと言っちまってよ。なんだなんだ」


 なんとか自分を奮い立たせ、目尻にたまった涙を拭い、俺は友人の方へと振り返った。

 彼の右手の指は、確かにテンキーのボードを押し込んでいる。だがそんなことよりも、俺は友人の表情に釘付けとなった。


「おい、寝てんのか? 寝ちまったんだよな、そうだよな。そうだって言ってくれよ」


 両の瞼は閉じ、首はだらりと力なく落ち、微かに残っていた全身の力が抜けているように見える。それはまるで糸が切れた操り人形のごとく、中身のない器のごとく、抜け殻のごとく――こと切れているように見えた。


「冗談だろ、おい。返事しろよ、おい。冗談なんだろ」


 俺がいくら声をかけても、『1』の返事は返ってこない。

 体はぴくりとも動かず、俺の声も届いていないように思われた。


 しかし、微動だにしない体だが、その一部は力強く友人の意思を俺に伝えてくれていた。彼の右手の下に添えられたテンキー、その一部が力強く入力されたままになっていることに俺は気がついたのだ。


 肩と声とが震え、大量の涙が頬を伝う中、俺はゆっくりと彼の言葉を確認する。いつもは、『1』とか『2』とか、ひとつの数字を押すことで精一杯だった友人だが、右手の下では確かに2つの数字が押し込まれている。


 先ほど俺がこぼした――『俺に対してどう思ってるか』だなんて弱々しい言葉に対する返事が、そこにはあった。




39サンキュー

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