本・風船・冷酷な殺戮

 私には、少々変わった友人がいる。

 一秒でも暇な時間があれば本を手に取り、文字に視線を落とし、その世界に没頭する。本の虫と言ってよいだろう、活字中毒とも言っていいかもしれない。


 とにかくその友人は、朝起きてから寝る直前まで、一日のすべての時間を読書に費やしているそうだ。思えば小学生のころから現在に至るまで、彼が読書以外の何かをしているところを見たことがない気がする。


 我々もつい昨年に三十代へと足を踏み入れたが、彼の生活は依然として変わってはいない。なんでも、某証券会社社長の息子かなにかだそうで、働かなくとも生きていけるそうな。


 昨年、息子を何とか社会に出るよう説得してほしいと彼の両親に説得され、彼の部屋を訪れた。大量の本が所狭しと積まれており、足の踏み場もないほどだった。本屋か図書館に向かう以外に一歩も外に出ない彼の体は、破裂寸前の風船のように肥えていた。


『僕は本に生き、本に死ぬ。読書のない生活なんて考えられないね。これら一冊一冊には、著者の魂が宿っているのさ。僕は生きている間に、ひとつでも多くの魂と触れ合いたい』


 視線と両手は本から離さないまま、彼は僕にそう言った。

 ここは自分の王国なのだと、王国から出て奉公に行く王がどこにいるのだと、そう雄弁に語っていた。あの部屋が王国ならば、数多の本たちは国民だろうか。


 そんな彼を説得することは到底不可能な話で、早々に匙を投げた私は部屋をあとにした。それ以来、彼とは連絡すらとっていない。


 その一年後、彼から一通のメールが届いた。

 メールはつい先日届いていたようだったのだが、私が確認するのを怠って、一日遅れの確認となってしまった。


『明日の正午、僕は冷酷な殺戮を行う。大変心苦しいが、慈悲もない。ついに限界がきてしまったのだ。友人である君には伝えておこうと思った。殺戮のあと、僕がどうなってしまうかわからないからだ』


 その内容を読んだ直後に、背筋に冷たい何かが伝うのを感じた。

 同時、昨今の日本でよく起こっている、無職や引きこもりが起こした陰惨な事件が頭をよぎる。不安や憤り、閉塞感がその者たちを狂わせてしまったのだ。きっと彼もそうに違いない。


 時計を見ると、とっくに正午は過ぎている。

 恐怖と正義感とが私の中でせめぎあい、とにかく彼に電話をしてみることにした。


「早まるな、よせ」

「どうしたんだ。急に連絡がきたかと思ったら、えらく慌てているじゃないか」


 声と手とが震える私に対して、彼はいつもの調子で電話にでた。

 いつもの、本を読みながら答える、その感じで。


「殺戮だなんて、何を言っているんだ。正午と言っていたな、殺戮は――」

「そのことか。殺戮ならもう終わったよ。無垢な命が散っていくのは、実に心苦しかったね」


 ああ、なんてことだ。

 彼はもう、多くの命を奪ってしまったという。せめて私がメールに気づいていれば、彼を外道の道から救ってやれたかもしれないのに。彼を狂わせてしまったのは、王国か、それとも大量の国民たちか。


 絶望に打ちひしがれる私をよそに、彼はけろっとした声で話を続ける。



「あれからも大量に本を買い続けてね、とうとう限界がきてしまった。床が抜けてしまったのだよ。泣く泣く、彼らを処分することにした。著者の魂が灰燼に帰すところは、見ていて辛かったよ。けれども背に腹は代えられない、冷酷に殺戮を実行したさ。だけど、いいこともあったんだ。これをきっかけに、これからは電子書籍を読んでいくことにした。これでもう本屋に行く必要もなくなったし、いよいよ僕はこの部屋で人生を完結できるぞ」



 私はがくりと項垂れる。

 それと同時に、とうとう外出することがなくなった彼は、その風船のような体をどこまで膨らませるのだろうと、少し楽しみになった。

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