第3話 誰もいない客船

ああ、助かった。天の恵みだ。水平線の向こうにぼんやり見える大きな船影を見つけて、私は救われたような気持ちになった。

 漂流し続けて一週間は経っただろうか。助かる保証もなしに、少ない食料と水を切り詰めながらひたすら助けを待ち続けるのは想像以上に過酷なことだった。

 しかしそれももう終わりだ。ついに忍耐が報われた。ようやく私は救われるんだ。私はその船に向かって全力で大きく手を振った。

 私に気づいたのだろうか、船は少しずつ私の方に近づいてくる。しかし船が近づいてくるにつれ、私は何か様子がおかしいことに気づいた。船尾から波が出ていない。この船は動いていないんだ。船が近づいているんじゃなくて、私がこの船の方に流されているんだ。どうしたのだろう。

 私はついに船のすぐそばへと流れ着いた。ここまで近づいても中からは何の反応もない。私は手で伝って船の周りを回って調べているうちに、甲板から海の下まで続いている綱に気づいた。これはいかりの綱だろうか。こんな何もないところに錨をうって船を止めるなんて不自然だ。一体この船に何があったんだろう。しかし、これは今の私にとってすごくラッキーだ。これで船の中には入れる。私は弱った体から力を振り絞って綱をよじ登った。

 船は客船のようだった。甲板から中に入るとその部屋はギャラリーのようで、額縁に入れられた油絵がたくさん飾ってあった。そこで私は部屋の電気が付いていることに気づいた。しかし人は見当たらない。

 私はそれから船の中で人を探した。けれども客室、操舵室、トイレ、どこを探しても船員も乗客も見つけることはできなかった。もしかして...私は思いついて救命ボートを探した。何かこの船を放棄しなければいけない事情があったのかも知れない。しかしボートは一隻も使われた形跡がなく、全てそのまま残っていた。私は静まりかえった船内に戻り頭を抱えた。皆どこへ消えたのだろう。何かトラブルがあって皆お互いを海へ落とし合ったとか?でも争った形跡は一切ないし、それなら一人も残ってないのはおかしい。この船で何があったのだろう。その時突然バタバタと廊下を走る音がして、私はその場に凍り付いた。誰かいるのか。私は恐る恐る音のした方に行ってみた。しかしそこにはただ、誰もいない廊下が続いているだけだった。

 温度調節された食料庫の中には高そうな肉、見たこともない果物、それに大量のパンといった食べ物と、水がまだたくさん残っていた。船の燃料がきれないうちはすぐに腐ったりしないだろう。私一人が食べていくのには十分な量だ。私はとても喜んで、今まで食べられなかった分そこから食べたいだけ食べた。それぞれこの上なくおいしかった。

 食べ終わって食器を片づけていたら、調理室の壁にナイフで彫ったような跡があるのに気づいた。積み上がった皿の陰に隠れてよく見えない。何だろう。私は気になって皿をどけてみた。”コノフネニハナニカイル”壁にはそう彫ってあった。不気味だ。何だってこんな落書き残さなきゃならないんだろう。私は皿を元の場所に戻した。

 日も暮れてきて、私は客室の一つを借りて寝ることにした。この船は何かおかしいが、幸い後数ヶ月生き延びるのには十分だ。明日にでもどうにかして錨を引き上げておこう。私はその晩久しぶりにベッドの上でぐっすり寝た。

 次の日起きてすぐ、視界の端に誰かが膝を抱えて座っているのが目に入った。ぎょっとしたてそちらを見ると、それはケースに入ったギターだった。無理もないよね。私は思った。ずっとギリギリで生きていたから少し疲れているんだ。

 その日は錨もなんとか上げることに成功し、救難信号発信器も見つけたが、依然助けは来る気配もなく、この船に何があったのかも分からない。航海の知識が無い私は下手に燃料を使わない方がいいと判断し、船は走らせずにこのまま助けを待つことにした。     

 ほとんどの客室には乗客の持ち物がそのまま残されていた。部屋の一つで備え付けの電話を使って外に助けを呼ぼうと試したとき、電話は内線しか使えないことが分かった。しかし私は留守電のメッセージが一件だけ残されているのを偶然に見つけた。録音された日付は1972/6/8。今日が何日かは忘れてしまったが、そんなに前ではないはずだ。そう思って私はメッセージを確認することにした。だが、内容を聞いて何か分かると思っていた私は、予想外の内容にぞっとした。留守電には誰かのすすり泣く声だけが5分も入っていた。

 夜に私は変なものを見た。食堂で自分の用意した料理を食べ終え、デザートの果物を食べていたときだった。私は微かに視線を感じた。そんなはずは無いと思いながらも、ゆっくりとそちらの方に目を向けた。すると、白い服を着た小さな女の子が遠くのテーブルからこちらを見つめているのを見てしまった。私は驚きと恐怖で固まった。この子、私どこかで...。少女は目が合うと部屋の外へ駆けていった。その瞬間私は我に返り、後を追った。しかしその時にはもう少女がどこに行ったのか分からなくなっていた。

 あの少女は何だったのだろう。私は寝る前にベッドの上で考えた。もしかしたら、この船に何があったかを見ていたのかも知れない。全然姿を現さないが、次会うことができたらなんとかして話を聞こう。その日は遠くの部屋から微かに物音がするのが聞こえてきて、よく眠れなかった。

 それから私は何度もあの少女を見かけた。見かける場所はまるで規則性がなくて、まさに神出鬼没だった。しかし毎回話しかける前にどこかへ消えてしまって、探しても見つからない点は同じだった。なぜか少しずつ少女を見かける頻度は増えていった。

 そんなある日、私はまだ調べていなかった船長室を見つけた。私は喜んだ。消えたこの船の人々の行方について何か手がかりがつかめるかも知れない。中へ入ってみると中は書類であふれていた。これだけあれば何か分かるかも知れない。私はその紙の山を調べていくことにした。

 書類はこの船そのものと予定されていたクルーズについて書かれた物が主だった。しかし私はその中で積み荷のリストの紙に目を引かれた。ほとんどの品目は機械で印刷されていたが、あの見たことのない果物だけがボールペンで書き足してあった。航海の途中で仕入れたのだろうか。何か引っかかった。しかし直後に私は欲しかった物の一つを手に入れた。乗客の年齢、性別、名前の書かれたリストだ。これであの少女の正体が分かるかも知れない。私はそれらしき人物を探した。しかし最後まで目を通してみて私は困惑した。乗客は一番若くて二十歳だった。この中に小さな少女なんていない。何かいやな感じがした。

 私はずっといないはずの人間を見ていたのだろうか。あの少女は一体何者なんだろう。その瞬間、私はあの少女を初めて見たときの違和感のような物を思い出した。そうだ、もしかして...

 私はギャラリーに着いた。ここには結構な数の絵が並んでいる。一つ一つをよく見たのはこれが初めてだ。そして...

 これは。一枚の絵に目がとまった。並んでいる絵の中に、あの少女そっくりの絵があったのだ。絵の中の彼女は黒をバックに、どこか寂しげな視線を画面左下に向けている。どこかで見た気がしたのは、ほとんど無意識のうちにこの絵を見ていたからだったんだ。でもときどき見かけるあの子は誰なのだろう。 私は考えた末一つの結論にたどり着いた。そうか、彼女は私が取り憑かれた妄想なのかも知れない。彼女がこの船と直接関係ないことから考えても、私の心が一瞬だけ見たこの絵から無意識に作り上げたんだろう。だとしたら突然現れてすぐに消えてしまうことも説明できる。私の認識がおかしくなってきていた予兆もないわけではない。この船に来た次の日に、ギターケースが人に見えていた。

 それに調理室に残されていた落書きから考えるに、この船にいた人間にも幻覚を見ていた人がいたみたいだ。だとすると私が見た幻覚も、ずっと一人でいるストレスだけが原因とも考えづらい。この船には人間の精神に悪影響を与える何かがある。それも乗客と私のどちらにも関わっている物。現実的に考えると、多分水か食べ物だ。特にあの得体の知れない果物は最初からあったわけじゃなさそうだし、どこから来たのか、なんて種類なのか全部不明だ。てっきり私が知らなかっただけで普通に食べられている果物かと思っていたが、こう考えてみると謎だらけだ。

 この船に人がいなくなったのも、船長も含めてあの果物の毒で精神に異常をきたしたから、他の船が救助に来て皆を連れて行ったのかも知れない。こんなところで錨を降ろしていたのもきっとそのせいだ。

 やっと謎に答えが出た。私はずっと考え込んでいた顔を上げた。これからはとりあえずあの果物を食べるのは避けよう。そうすればきっともう幻覚に悩ませられることもなくなるだろう。そう思ったら、救助を待ち続ける気力が湧いてきた。もうこの船に恐い物なんて無い。このまま救助が来るまで生き延びるんだ。

 その時、船の外から何かが聞こえた気がした。私はギャラリーを出て甲板に向かった。

 目に飛び込んできたのは船の周りに広がる賑やかな港だった。いつの間にこんなところまで来ていたのだろう。そうか、潮に流されるうちに陸にたどり着いたんだ。やっぱり錨を引き上げたのは正解だった。

 ああ、やっと助かった。胸の中を安心感が満たしていった。それと同時に神経を張り詰めていた疲れがどっと襲ってきた。でも休むのはこの船をでてからだ。錨を降ろして船を岸に着けた。私はタラップを一段ずつ降りる。ようやく陸に帰ってこれたんだ。懐かしさが胸にしみる。すっと待ちわびていた瞬間だ。私は最後の一段を降りる。

 ビタッ。踏み出そうとした足が急に止まった。待て。私はタラップを下ろしていない。

 額に冷たい汗が浮いてきた。このタラップは私が来る前から降りていたんだ。間違いない。そうか。この船にいた人たちは救助されたんじゃない、皆幻覚を見たせいで海に落ちたんだ。そうでなければ下へ伸びるこのタラップを説明できない。

 気が付くと目の前にあった港の風景は消え去り、見えるのはどこまでも続く水平線だった。出しかけた足の下に目を向けると、底なしに深い海だった。

 危ないところだった。私は急に早くなった鼓動を抑えながら船へ戻った。もう少しでこの船にいた人々と同じ運命をたどるところだった。やっぱりこの船に何があったのか、ちゃんと知っておかなきゃいけない。そうだ、航海日誌だ。きっと船長室に航海日誌が残されているはずだ。私は船の中を船長室へ急いだ。

 航海日誌は意外とすぐに見つかった。風や変針、天候といった記載の他に船長の日記のような細かいメモも残っていた。私は最初の方を飛ばして、終わりの方であの果物や幻覚に関して何か書かれたものがないか探して読み始めた。


1972/5/24 小波 晴れ

寄港した島で現地の住民から種類不明の果実を大量に譲り受けた。食べてみたという乗客の一人がその味を気に入ったといい、食事として毎日出して欲しいと言ってきた。自分でも一つ食べてみたところ信じられないほど美味であり、彼の言う通り出してみるよう料理長に提言した。


1972/5/25 かなり波 全曇

あの果物は予想以上に好評で、本当に毎日出されることになった。船員も好んで毎日食べている。


1972/6/2 波がかなり高い 雨

近頃なぜか幽霊を見たという乗客が増えている。大方酒が入っていたとか、旅の疲れが出たとか言うことだとは思うが、見たという人が多いのが気になる。この船に呪われる筋合いなんて無いはずだ。それよりも最近自分が机の上で捜し物をすることが増えている方が深刻かも知れない。ペンや書類が現れたり消えたりするように感じるのは私の机が乱れているからだろう。


1972/6/6 鏡のよう 快晴

ついに私も昨日幽霊らしき物を見てしまった。船員の一人と夜中に廊下を歩いていたとき、彼は突然、向こうに何か黒いものがいると言って遠くを指さした。そちらの方を見たら、確かに私にも黒い人影が見えたのだ。そいつはゆらゆらと揺れた後、煙のように消えた。二人同時に目撃したということは、どうやらこの船に何かいるのは認めなければいけないようだ。もっとも、彼はあの影は人の形ではなかったと言っていたが、それは霊感という物の違いかも知れない。とにかく今この船で起きていることは制御不能だ。乗客の身に危険が及ぶのはなんとしても避けなければいけない。現にストレスのせいかおかしな言動をする乗客も出てきている。原因が分かるまで最寄りの港へ一時的に止まることにした。


 日記はここで終わっていた。6/7のページにいくつか時刻が書いてあり、赤い丸や点線で囲まれているが、これは出港した日のページにも似たようなもな物が書いてあるから、きっと入港に関する印だろう。この日に皆幻の港を見て死んでしまったのだ。

 これで私の推測が当たっていたことが分かった。船長が船員に言われて同じ幽霊を見た時のように、船にいた誰かが港が見えると言ったのだ。それで船の人々全体が一種の集団催眠にかかり、皆存在しない陸に向かってタラップを降りたんだ。それからあの果物は、食べ始めて数日はなんともないが、食べ続けると幻覚を頻繁に見るようになるだけでなく、行動もおかしくなるらしいことも分かった。なんとも恐ろしい毒だ。手遅れになる前に気づけて本当によかった。

 しかしこの日記は何か引っかかる。何かおかしいような...私はページをめくって日誌を眺めた。それから徐々に違和感の正体に気づいた。日付だ。思い出した。私が客室の留守電から聞いたすすり泣きは6/8に入れられた物だった。しかしこの日誌によればこの船から人がいなくなったのは6/7だ。私はもう一つ気づいた。私はこの船に来た最初の日に足音を聞いた。でも、それは確か、あの果物を食べる前じゃなかったか...

 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。私は息を殺して耳を澄ませた。明らかに普通じゃない、ふらふらとした足取りが確かにこっちへ近づいてくる。今度は幻聴じゃない。くそ、気づくのが少し遅すぎた。船には最初からずっと何かが潜んでいたんだ。多分この船にいた人の生き残りだろうが、私に話しかけることなくずっと隠れていたあたり、果物の毒の影響は危険な段階に達しているに違いない。多分もう正気は保ってない。そういえば、食料庫にあった果物も私が食べる以上に減っていた気もする。

 足音は近づいてくる。私はその足音がこの部屋を通り過ぎてくれるのを必死に祈った。ヒタ...ヒタ...足音はついにこの部屋の前に来て、止まった。まずい。私は覚悟を決めた。張り詰めた空気の中静寂が続いた。しばらくして、足音はまた歩き出し、聞こえなくなった。助かった。私はほっと胸をなで下ろした。とりあえずここを離れるんだ。今までの行動を見るにあいつも私を恐れている。刺激しなければ安全なはずだ。私は音を立てないように扉を開けて外に出た。

 そして心臓が止まりそうになった。すぐそこにボロボロの服を着た男が立っていた。しまった、まだいたか...!その焦点の合っていない目からは、言葉の通じるような理性を感じられない。私に気づいた男は、追い詰められた獣のように取り乱して、どこからか取り出した刃物を振り回して向かってきた。私は反射的に逃げ出した。

 最悪だ...私は焦った。とりあえず逃げ出したものの、何も考えずに走ってしまったため逃げ場のない甲板に出てしまった。真っ黒い空ではいつの間にか雷が鳴り始めて、雨が降っている。どこか隠れられる場所は...しかし甲板は開けていて隠れる場所は一切無い。戦うか...?しかしあいつは足こそ遅いものの刃物を持っている。素手で戦ったら殺される。あの様子だと説得しても応じてくれないだろう。やばい。来る。どうすればいい?考えろ、考えろ...

 男が扉を開けて甲板に入ってきた。しかし、そこにはさっきまで追いかけていた者の姿はない。どこだ。男は疑った。まさか自分から海に...。海の方を見るため手すりの方へ一歩、二歩進み出た。次の瞬間、突然後頭部に強い衝撃を受けて、男は気を失った。

 よし。男が開けた扉の裏に隠れていた私は、後ろから思い切り頭を殴られて気を失った男から刃物を取り上げた。こいつは陸に着いたら病院に連れて行かなきゃならないな。どこかにこいつを縛っておけるものはあっただろうか。

 その時遠くの海で何かが光った。私は目をこらした。もう一度光った。私は気づいた。あれは船だ。救難信号を受け取ったのか、動きのおかしいこの船を心配したのか分からないが、この船に向かってモールス信号というやつを送っているんだ。その意味は私には分からないが、今なら無線に応えてくれるに違いない。助かった!

 最初にこの船に来てから何日経っただろう。悪夢のような船だった。しかしようやく助けが来た。私はこの船の秘密に勝ったんだ。さあ|、早く反応を返さなきゃいけない。私は通信室へと急いだ。

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