不可思議な短編集

宮沢新一

第1話 あとかたもなく

 どこから来たのかも思い出せない。視界を濃い霧が覆っている。目を凝らしても見えるのは突き放す様な白だけ。ここがどこなのか、私がどうしてここにいるのか必死に思い出そうとする。しかし生まれて間もない頃の記憶を呼び起こそうとした時のように、探しても何の手応えもない。私を覆うこの深い霧が、頭の中にまで立ちこめているように感じる。どうにもできなくて、私は理由もなく歩き出す。

 自分の踏んだ地面が立てる乾いた音だけが聞こえる。柔らかい光が輪郭を溶かして、全てがぼんやりしている。私は少しずつ、ここが森だと言うことに気付き始めた。だがここは年老いた猫のように静かで、寂しい。鳥の声一つ聞こえてこない。

 歩いているうち、少しずつ周りが見えるようになってきた。あたりにあるのは葉を落とした背の高い木々ばかりだ。私は遠くの方を見つめた。だが木々が奥に行くにつれて霧の中に消えていくが見えるばかりだった。私は進む。自分の足音と一緒にいることがかえって孤独を感じさせる。森に生える木は少しまばらで、平坦な地面がずっと続いている。私は木の一本に触れてみる。私はこれが何の木か知らない。好きとも嫌いとも、何の印象もない。この木が私と関わるのを拒んでいるようにも感じる。

 私は歩き続ける。地面は柔らかくて歩きやすい。私とこの森を包む白い無機質な光からは今が何時なのかわからないし、それはどうでもいいことのように思われた。全く同じ景色がずっと続く。でも私にはなんとなく、同じ道を回っているのではなく前に進んでいるという気がした。

 顔を上げてはっとした。霧でかすむ向こうの方に何かがいる。私は立ち止まってそれをよく見た。それは一頭の鹿だった。亡霊のようにぼんやりと霧の中に沈み、こちらを静かに見つめているように見える。私たちは少しの間霧を挟んで黙って見つめ合った。私は近づこうと一歩踏み出した。すると鹿は急に走り出して、森の向こうに消えていった。私は鹿の去って行った方をしばらく見つめた。なぜかあの鹿はこの森のものではないように感じた。

 私は再び歩き出した。かなり歩いているように感じていたが、奇妙なことに足は一向に疲れる気配がない。それとも本当は歩き始めてからそれほど経っていないのだろうか。少ししてまた鹿が現れた。さっきの鹿だろう。今にも霧の中に溶けそうにおぼろげに立っている。私は今度は慎重に足を踏み出した。しかしやはり鹿は、私が一歩近づくとすぐに向きを変えて走り去っていった。この鹿は何なのだろう。私をどこかへ連れて行きたいのだろうか。

 私はその後もう一度鹿を見た。しかしその次に見えてきたのは鹿ではなかった。それは古びた薄汚い木造の建物だった。そこだけ森が開けて、その広い建物のために空間を作っている。私はそれをよく見るために立ち止まった。家にしては大きい。人は住んでいるのだろうか。私は興味が湧いた。近くの壁にくすんだ小さな窓が開いているのを見つけた。しかし中を覗いても暗くてよく見えなかった。建物の周りを歩くことにした。建物の向こう側は納屋のようになっている。中には何かがたくさんいる。牛だろうか。いや、違う。私は次にそれらを馬だと思った。しかしそれも違った。それは無数の鹿だった。私は少し薄気味悪くさえ感じた。納屋で鹿を飼うような人がいるだろうか。鹿たちは微塵も動こうとせず、不気味に静まりかえっている。私は少しためらいつつも、もっとよく見るために納屋へ足を踏み入れた。私が中へ入っても鹿たちは何の反応も見せない。鹿たちが静かすぎること以外に、私はもう一つ奇妙なことに気がついた。この鹿たちはあまりにそっくりなのだ。人間は見慣れない動物に関してはどれも同じに見えるものだが、これは何か違う。大きさ、毛並み、顔、何もかも同じに見える。もしかしたら来る途中に見かけたあの鹿も、同じ鹿を何回も見たわけではなく、全て別の鹿だったのかもしれない。

 「そうだよ。」突然後ろから声がした。驚いて振り返ると、作業着のようなものを着た少年が立っていた。「ここに来るまで見たのは全部別の鹿だよ。」こいつはなぜ何もかも知っているのだろう。私は思った。全て見ていたのだというのだろうか。いや、周りには何もいなかったはずだ。一体何なのだろう。「何でそうだって分かる。同じかも知れないだろう。」私は聞いた。「皆そうだ。変わっても分からないのに、ずっと同じだと勝手に思っている。」そう言うと彼はどこかに戻っていった。ここは何なのなのだろう。鹿たちはまるで何かを待っているように身じろぎ一つしない。私は近くの鹿の一匹に近づいた。触ると少し暖かいことから考えるに、生きてはいるようだ。その時私は気がついてぎょっとした。この鹿には片目がない。見ると隣の鹿には片耳がなかった。ここの鹿たちはどれも体が欠けていた。欠けた部分の断面からは血も出ていない。それで気づきにくかったのだ。中には頭しか残っていないものもいた。

 私は不気味さと同時に好奇心を感じた。これが何なのか知りたい。私は少年の去って行った方へ歩き出した。鹿の林をかき分けて進むと真鍮のドアノブのついた扉を見つけた。私は錆びきって悲鳴のような音を上げる扉を開けて、中へ入った。中は長い廊下が続いていていて、奥の方に見える部屋に明かりが見える。私は暗い廊下を明かりの方に進む。部屋の前まで来ると、中でさっきの少年が背中を向けて何かしているのが見えた。その前には首の無い鹿がいた。見ていると、少年は隣に置いてあった、血のように赤く、水銀のような光沢を持った液体を金属のバケツから手ですくった。そして鹿の、首があったであろう部分につけた。すると液体はひとりでにゆっくりと動き、いびつな赤い首を形作り始めた。私はその様子を固唾をのんで見守った。鹿は失った首を取り戻すと急に元気に動き出し、少年が近くの扉を開けてやると、霧の向こうへと走り去っていった。

 「これは一体何だ。今何をしたんだ。」私は聞いた。少年は気づいているのかいないのか、すぐには答えなかった。「ねえ、人間の体を作ってる物質は、一年でほとんど入れ替わるって話、聞いたことある?」少年は唐突に聞いた。「ああ、知ってる。それがどうしたんだ。」「なら今から一年後の自分って自分だと思う?」愚問だ。私は思った。「それは間違いなく自分だろうな。物質が入れ替わっても、記憶は残っているからな。生まれてからそれまでの記憶を持っているのであれば、自分が自分だと証明できる。」少年は何かを考えるように立ち上がり、床を見ながら歩き始めた。私はまだこの少年の言いたいことが分からない。床には細かいタイルが敷き詰められている。白を基調に、黒いタイルが点線を成すように規則正しく並んでいる。

「点線じゃない。」少年は言った。「これは点線じゃあない。これを点線とみた時、何もないところも線の一部になってしまう。」少年は少し黙ってから続けた。「あなたは自分という存在は一本の線のようなもので、それが途切れるのは自分が死ぬときだと思っているが、それは違う。あなたが自分自身だと思っているのは、途切れ途切れの記憶の断片の集合なんだ。あなたは毎日同じような日常を繰り返す。でもその日が平凡であったならば、いずれきっとその日の自分のことを忘れてしまう。それは前の日のことは思い出せるし、次の日の用事は覚えている。でも普通の一日なんて思い出そうともしないはずだ。その日自分が何を考えどう生きたかなんて一日一日覚えてなんかいない。あなたは18歳で、1年は365日あるのだから。そして誰かがあなたのために記憶のバックアップをとっていてくれているわけじゃないし、あなたは日記をつけてるわけでもない。もう存在しないんだ。あなたがその日を生きた証拠は。その日のあなたは死んでいる。今日のあなたがそうかも知れない。数年、いや数日後のあなたに忘れられて、もう存在しないかも知れない。記憶だから、消えてしまったら跡形も残らず、復元できない。消えたことにすら気づかれない。あなたは自分の存在は記憶が保証していると言った。だとしたらあなたを忘れた未来のあなたはもう、あなたじゃない。」

 私は何も言わなかった。ここがどこなのか分かってきた。少年は次の鹿に移って作業をしながら言った。「ここにいる鹿は、記憶なんだ。霧の向こうからやってきて、もう元の場所へは帰れない。時間が経つにつれて体が溶けていって、最後にはここからもいなくなる。でも今みたいに体を作り変えてやれることが時々あるんだ。だからこうしていろんな鹿で試してる。作り変えればもちろん元の体からは変わってしまうけど、きっと自分自身の中に帰って行けるかも知れないから...」そう言って振り返った少年の顔は、嗚呼、どうして気づいてやれなかったのだろう、私がとうの昔に忘れてしまった、あの日を生きた私の顔だった。

 

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