Gratify Sword 《グラティファイソード》

冬待丸

 彼は待っていた。闇のなかで、ただじっと。

 空には真円にわずかに足りない銀盤が白々と輝き、夜の帳の降りた街並みを淡く照らしている。表通りの喧噪は遠く、風に乗ったかすかな声がときおり届く以外、あたりはしんと静まりかえっていた。寄りかかった石壁から、マントごしに冷たさが伝わってくる。

 そうして闇に紛れ過ごしていると、去来するのは虚しさに似た感情だった。若き日に故郷を捨てて以来ずっとつきまとってきた思いが、心の奥深くから泡のように浮かび上がってくる。何故このような酔狂に付き合わねばならないのか。この行為にどれほどの意味があるのか。

 もちろん彼は知っていた。人を殺すことに、それ以上の意味などないのだと。

 どれだけの時が経っただろうか、月が尖塔の陰に隠れ、ふたたび顔を出す頃になって、ようやく彼は身を動かした。待ち人が訪れたのだ。石畳の路地に複数の足音が響き、声とともに近づいてくる。

 闇を破ってほどなく現れたのは、護衛や従者の一団を引き連れた老貴族だった。緊張からか、あるいは何かに怯えているのか、誰もが一様に硬い表情を浮かべている。従者の掲げる角灯ランタンの明かりがゆらゆらと揺れ、闇を払うと同時にいくつもの長い影を作っていた。

 ひとつ息を吐くと、彼は踏み出した。暗がりから、月光の下へと。

「──何者だ!」

 姿を見せた男に、護衛たちが誰何すいかの声を放つ。主を護るように立つ彼らの手には、すでに抜き放たれた剣が握られていた。月明かりの下、幾筋もの刃が鈍い光を放っている。

 彼は答えず、護衛たちを一瞥した。それだけだった。

 次の瞬間、護衛の身体が弾けた。無形の鎚に叩き潰されたかのように。

 驚きと恐怖が、一瞬にして場を支配した。ひっ、と息を呑んだのは誰だったろうか。

 彼が歩を進め、その一歩ごとに護衛が、従者が、西瓜を無造作に割ったかのように弾け、その生命を散らしてゆく。噴き出した血が雨となって大地を殴りつけた。

 そうして、彼は老貴族の前に立った。

「……、お前は……」

 咽喉の奥からようやく絞り出したような、かすれた声が、貴族の口から漏れた。

「お前は、奴の使いなのか? わかっているのか、奴は……」

「貴様が案ずる必要はない。貴様には、死以外の運命は残されてはいないのだから」

 陰よりも暗い声、闇よりもなお深い響き。すべてを言い終えるより早く、彼は右手を無造作に振り切った。水平に、その手に槍を掴んだまま。

 音が、響いた。なにか、水を含んだ重いものが、弾けて落ちて、潰れて転がる。そんな音が。

 彼はその様を無感動に見据えると、歩き出した。闇の奥へ。

 しばらく後、異変を察した衛士が駆けつけたとき、そこにはすでに誰もいなかった。少なくとも、人と呼べるものは。

 石畳は紅に舗装され、鼻をつく鉄に似た臭いだけが、ただあたりに満ちていた。

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