第9話 大将軍は妄想か?
なんてことだ。
漢軍の最高幹部ふたりによって漢王に引き合わせてもらったかと思えば、その場で斬首決定とは。さすがの俺もこんな展開は妄想だにしていなかった。
「待ってくれ、俺はまだ何もしていないじゃないか」
簫何と張良を交互に見るが、二人とも素知らぬ顔だ。
「あんた達からも何か言ってくれ。ここへ連れてきた責任ってものがあるだろ」
「水が高きから低きへ流れるのは自然の理。そう言っておられたではないか。これもまた運命と思い、諦めなさい」
「簫何どのぉ」
逃げだそうとした俺は、待ち構えていた二人の男に取り押さえられた。
親衛隊長の
「逃げられはせんぞ、韓信」
「では一緒にきてもらおうか」
歴戦の男二人は凄みのある笑顔を俺に向けた。
☆
俺は広場に引き出された。
いま漢軍が駐屯しているのはごく小さな街だったが、たいてい街の中心にはこんな広場が造られているのだ。驚いたことにそこは兵士で埋め尽くされていた。
「こんな観衆のなかで首を斬られるのか……?」
いや、そんな筈はない。
これはきっと、あれだ。
まったく、どれだけ娯楽に飢えているのだ、漢軍って。
俺は樊噲と夏候嬰に挟まれた格好のまま進んで行くと、兵士達は左右に分かれて道を作った。目を瞠るほど、無駄の無い動きだった。
「なるほど、よく訓練されている」
こんな場合にも関わらず、俺は兵士たちの動きに感心した。
「そうだろう。おれが鍛えているからな」
樊噲が得意げに胸を反らした。
「だいぶ逃げてしまったが、ここに残ったのは漢軍の精鋭中の精鋭さ」
夏候嬰が優しい目で彼らを見渡している。
「どうだい、みんないい貌をしているじゃないか」
俺は夏候嬰の言葉に頷いていた。
「ああ、おれはこんな兵士達を指揮したかったんだが……残念だ」
樊噲と夏候嬰は小さく笑ったようだった。
広場の奥、兵士たちの正面には高い壇が築かれていた。
そこにはすでに劉邦が立っている。顔も体もやたらとひょろ長いその男は、薄ら笑いのような表情で俺が近付いてくるを待っていた。
俺は劉邦の横に立たされた。
護送してきた二人の将軍に代わって、簫何と張良が並ぶ。
「逃げるなよ、韓信」
張良が相変わらず冷たい声でささやきかける。
「我が兵士、我が兄弟たちよ」
劉邦は声を張りあげた。普段と同じダミ声が、なぜか今日は凜として聞こえた。
「関中へ戻りたいかぁ!」
おおーっっ!
大歓声が上がった。広場の地面が、兵士達の足を踏みならす音で揺れた。
「よかろう。では、この男を見よ!」
そう言って劉邦は俺を指差した。どうやらここで、景気づけのために血祭りに上げられるらしかった。なんだか首の周りが薄ら寒い。
「この韓信は、かの孫子の生まれ変わりと言ってもいい名将である。我が軍はこの韓信を大将軍とすることで、地上最強の軍となるのだ!」
ぐおおおお、と今度は歓声だか、疑問によるどよめきだか分らない声が響いた。
「あの、これはどういう事なんでしょうか」
俺の問いに、簫何は微かに笑みを浮かべた。
「韓信どの。大将軍への就任、おめでとうございます」
「まったく。普通にすればいいのに、無駄な演出を考えるものだ。あの馬鹿は」
張良が劉邦を見て苦笑した。
「よいではないか。こうして想い出に残る就任式も出来たことだし。のう、韓信。そうであろう」
劉邦は高笑いしている。
俺は笑う気分では無かった。どんな想い出作りだ。本当に殺されるかと思った。だが、おれは改めて広場に居並ぶ兵士達を見回した。
これを、俺が指揮できるのだ。
高揚感が俺を包んだ。今なら、何だってできる。
俺は大将軍として、最初の命令を発した。
「よいか、俺が太鼓をひとつ叩いたら右を向け、ふたつ叩いたら左を…」
言い終える間もなく、俺は張良によって壇から蹴落とされていた。
「阿呆か、おのれは」
目をつり上げて張良が怒っている。
「だって。これ、昔から一度やって見たかったんだ」
命令を与える相手が、後宮の女たちでないのは残念だが。
「真面目にやれ。次は本当に斬り捨てるぞ」
俺はしぶしぶ壇上に這い上がった。
「失礼した。ふと、前世の記憶が甦ってしまったのだ」
おお、さすが孫子の生まれ変わりだ、そんな声があちこちで聞こえる。
張良が横を向いて舌打ちした。
「我らが目指すのはどこであるか」
俺は北の方角を指差した。
「関中か? いや違う」
ざわめきが起こった。兵は互いに顔を見合わせている。
「関中はただの通過点である。われらはそこから東へ進み、項羽と決戦して中原の全てを手にするのだ!」
あれ。歓声があがらない。
見ると、兵士達の目が泳いでいる。
「なあ、大将軍よ」
劉邦が困った顔を俺に向けた。
「この漢軍で、項羽の名前は禁句だから」
「その名を呼ぶと、本当にあの方がやって来ると思っているんですよ。兵たちは」
どうやら伝説の魔法使いみたいな扱いになっているらしい。
「で、では。……とりあえず関中を目指すぞ!」
まばらに、しかも弱々しく、おー、と声が返ってきた。
こうして俺は、念願だった大将軍になった。ただ、率いるのは、たぶん地上最弱の漢軍だったけれど。
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