夢に向かって歩むもの
同人誌即売会の翌日。昼休み早々に赤松千尋から呼び出された僕は屋上に向かった。
すでに千尋の姿があったが、昨日見た彼女とはまるで異なっていた。牛乳瓶の底眼鏡にちょっとぼさっとした髪。ステージの上で歌い踊り、笑顔を振りまく彼女とはほど遠かった。
「どうだった?昨日のステージ」
しかし、発せられる彼女の声は、まさしくステージで輝いていたチッヒーだった。脳裏の片隅に昨日のミニライブの光景が浮んできそうだった。
「実はちょっと野暮用があって遅れてしまったが、ちゃんとお前のステージは見られた。よかったぞ。あれなら『メイドと執事のあれやこれ』二期は安泰だ。絶対売れる」
僕は最大限の賛辞を送った。勿論、お世辞などではない。古今東西あらゆるアニソンを聞いてきた僕が言うのだ。間違いない。
リンドと戦っていたせいで、イベント自体の開始時刻には遅れてしまったが、千尋の出番にはなんとか間に合った。ちょうど千尋がステージに上ってくるところで、客席から驚きと歓喜の声が巻き起こっていた。
あの人気アイドルユニット『ふゅーちゃーしすてーず』のチッヒーがソロデビュー。しかも、歌うのが『メイドと執事のあれやこれ』の二期オープニング。何も知らないオタク供が驚愕と歓喜を露にするのは無理からぬことであった。
「そうなんだ、残念ね。私のライブの前は、声優さんのトークイベントだったのよ。なぎさ役の野矢さんも出てたわよ」
「マジでか?くそっ!」
何だって?それは知らなかった……。く、くそぉ、生の野矢ちゃんが見られたのか……。リンドの奴、今度あったら手ひどい辱めを受けさせてやる。
「そんなに悔しがらないでよ。いいじゃない。人気アイドルの生ライブを見られたんだから」
「お前はいつも見られるだろう」
アイドルとして忙しいかもしれないが、学校に来た時には見ようと思えば見られる。しかし、野矢ちゃんはそうはいかない。野矢ちゃんは、高嶺の花。異次元に住む天使だ。
「そのことなんだけどね……」
千尋が何事か言いよどんでいたが、意を決したように口を開いた。
「私、転校するんです」
え?と僕は思わず声を出してしまった。転校?またどうして……。
「もっと本格的にアイドル活動するために、都会の学校へ転校するんです。今までダンスレッスンにも片道二時間近く通っていて、正直しんどかったの。だから、都会の芸能人が多く通っている高校に転校することに決めたんです」
「そうか……」
僕としては複雑な心境だった。出会った当初はあまりいい思い出がなかったが、ここ最近では『メイドと執事のあれやこれ』トークができるぐらいにほどよく仲良くなっていたのである。その刹那の別れというのは、やはり寂しいものであった。
しかし、自分の夢に向かって歩き出したものは快く送り出せねばなるまい。
「まぁ、しっかりやれよ。僕としても知り合いのアイドルがより有名になるというのは鼻が高い」
「よく言うわ。存在する知らなかったくせに」
くくくと笑う千尋。そ、それを言うなよ。
「安心してください。オタクな先輩でもちゃんと知ってもらえるようなアイドルになりますから。絶対に」
「そうなったら、容易に話ができるなくなるな」
「……。だったら……」
ふわっとした歩みで千尋が近づいてきた。まるでスローモーションを見ているかのようで、彼女の動きが明確に追うことができた。
千尋は、僕の真横に立つと、顔を近づけてきた。シャンプーだろうか香水だろうか、とにかくいい香りがした。そして。
柔らかい唇が僕の頬に触れた。
ほんの僅か、おそらく触れるか触れないかぐらいの感覚だっただろう。しかし、確実に接触した感触が僕の頬に残っていた。
じゃあね、先輩。
千尋が耳元で囁いた。
突然の出来事に身動きできなかった僕は、ただ立ち去る彼女の足音を耳にするだけであった。
なんて大胆なことをしたんだ!
屋上からの階段を駆け下りながら、千尋は恥ずかしさと必死に戦っていた。
新田先輩の頬にキス。
ほんの僅か。触れるか触れないかギリギリぐらいだっただろうが、間違いなく触れた感触はあった。そっと唇に指を触れてみると、その感触が蘇ってきて、また恥ずかしさが込み上げてきた。
本当は単に別れの挨拶だけをするつもりだったのだ。
でも、千尋のことを喜んで送り出してくれる新田先輩を見ていると、何だか愛おしくなってきたのだ。同時にちっとも寂しがらないので、腹も立ってきた。そんな裏腹の感情が交じり合い、ああいう突発的な行動に出てしまったのだ。
鈍そうな新田先輩でも、流石に千尋の気持ちに気づいただろうか?
いや、それは今考えても仕方のないことかもしれない。
もう千尋の行く道先には新田先輩はいない。ただアイドルという大きな夢が、遠く輝いているだけなのだ。
そして、その大きな夢に辿り着いた時、また新田先輩に会おう。
その時は、ちゃんと自分の気持ちを伝えるのだ。自分の言葉で。
きっと、できるわよね。
千尋は、もう恥ずかしくなくなっていた。
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