第286話「眠るために」

 天逆海の手が霧の端を掴むと、途端にそれが獣の牙に変わり噛みついた。天狗のような鼻を鳴らしてそのままあごを握り締める。

「なめてんじゃねえぞ」

「グルル……!」

 ギリギリと牙が肉に突き刺さり、血が噴き出してきた。互いを睨み合う死屍子と天逆海はその場で静止する。結界越しの夕陽が赤く中を照らした。

「どんだけ亡者どもの憎しみを喰らっても、テメーの身体は所詮人間の肉だ。霧になろうが本体が弱りゃあこうして捕まえられる」

「ぐ……ッ」

「死にかけてんだろうがよ、その肉はもう。そうまでして運命とやらを変えてえ理由は何だよ?」

 霧が小さな人の形に収まり、ハルが姿を見せた。喉元を握る手を押しのけて血を吐くと強引に口元を拭う。そこに浮かべたのは柔らかな笑顔だった。

「儀式を始めたからには、ひかりはアマテラスになるんだ。今までと変わらない結末なら千年後にまたこの世に来て、自分を取り戻し発狂する」

「らしいな。だから?」

「私はこいつらを抱えて根の国に行く。そうして二度と現世へ戻らないように、人柱になって死屍子の理性になるつもりだ」

「ははッ、マヌケかテメーは! あたしらを作ってんのは人間の思想だっつってんだろうが」

 笑い飛ばした天逆海の視界にあかりの姿が映る。彼女の隣に腰を下ろすレンズがこちらをジッと見つめ返していた。ハルが姿勢を低くし、少しずつ霧を集めていく。

「千年前と違って、人間は進歩してきた。もう絵巻物なんていう曖昧な史実は必要ない。思想を動かすのはアンタが思ってるよりもずっと簡単なことだ」

「てんめ、ふざけ……!」

「あのカメラには母さん達が術をかけてあるから、アンタの姿はアマテラスとして映る。死屍子はアマテラスによって弱っていき、最後に天明の子と契りを交わす」

 ハルの背後に一際巨大な獅子が現れる。がなる咆哮が空気を震わせ、結界ごと世界を大きく揺らした。ニッと笑って見せたハルの口端から赤く糸が流れていった。

「死屍子はアマテラスのもとに帰順し、根の国で永遠の眠りにつく。アマテラスの妖怪狩りはこれで最後になることを、この国の全ての生きる者達に伝えるんだ」

 ひゅうと苦しげに喉を鳴らし、ハルは威嚇の唸り声をあげる。天逆海も構えを取り二人は向かい合った。

『終わりにしよう』

「先にテメーの肉体をぶっ殺してやるッ!」

 死屍子が矢のように駆け出し、天逆海も足を踏み出した。互いの波動が触れる直前まで迫っている。

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