第229話「欲の片鱗」
絶え間なく溢れ出す黒い霧は部屋中に満ちる。お札が反応してしきりに反発し合い、対流はかき乱され視界を塞いだ。
「抵抗は無駄です。あかりさんと父上が練った力で張られた結界ですからね、例え死屍子の力に目覚めようと」
「……ふ」
真っ赤な両眼の奥に何かが蠢いている。無数の毛虫のようなものがいるのだ。身構えた遼と帽子屋の周囲へ霧が広がるほどに、無数の目に睨まれているのを感じた。
「死にたくないお腹空いた痛いのやだ寒い無視されたくない仲間になりたい眠りたい暑い殺さないで」
「なッ……!?」
目の奥にあるのは虫ではない、人の手が伸びてきているのである。それらは虹彩にひたひたと触れ、今にも突き破ろうと拳を叩きつけていた。遼が呪文を唱えながら近づいていき、お札をひたいへ貼りつける。無数の手はやや奥へと引っ込んだ。
「ふぅーん、誰かいるみたいだな?」
「死屍子とは人の欲求、暗い感情から生み出されたと言い伝えがあります。彼らがそれなのでしょう。あられ」
「ほいさ。うーん、うちでどうこうできるもんやないと思うんやけど。ご主人様を呼んできた方がええんちゃう?」
「もうとっくに気づいてるはずだ、とにかく今は僕達で食い止める。器を壊されるわけにはいかない」
遼の頬に大粒の汗が流れた。詠唱をする間にも口から真っ黒な手が伸びて、外へ出ようともがいている。ハルの関節がおかしな方向へ曲がり始めた。
「ねじ切るつもりですか……僕を、甘く見過ぎだッ!」
手で印を切った途端に風が吹き抜ける。その風に触れた手がぼろりと崩れ出した。慌てて彼らは腕を引っ込め、ハルの喉奥で唸っている。壁のお札が激しく風になびいた。
「悪しき欲、恵まれなかった情よ。現世にはほど遠き器の底にて安らかに眠れ」
「へえ、面白い人達だなぁ」
「悲しい方々です。生きている間に幸福を得られず、妬み欲しながら亡くなった人間達……。死屍子の存在がある限り、彼らの想いは消えずハルの中に留まり続けます」
「出してやらねえの?」
「神の記憶を持つあの方でさえ、叶わぬことです」
駆け込んできた晴明に続いてあかりがゆったりと姿を現した。その手には朱色の墨でしたためられたお札がある。
「ハル。あなたはどうしたいのかしら」
『ひかりに会いたい』
まだ幾多の手が燻っている状態で、ハル本人が口を開いた。指先をひくりと動かした瞬間、辺りに残っていた黒霧がうねり出す。
『例えこの世界の結末が悲劇になっても、私はあいつに会いに行く』
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