王都追放の落ちこぼれに、無双なんてありえない!?〜孤児院で育ったレイスが、物質を異空間に保管するだけの最弱スキルで、最強の仲間と出会い、共に世界を革命へと導く、成り上がり英雄譚〜
❁花笠月ノ雨❁🐍
第01章──星十字騎士教団:入団編
第01話 黄金色の昼下がり 前編
<天合暦:660年>
人類は暗黒の地上を離れ、厚く覆われた雲海の遥か彼方。
天空にいくつもの浮遊する国家を築いていた。
* * * * *
薄暗い霧に覆われた郊外の先、そこには“マハルの森”が広がっている。
まるでおとぎ話に出てくるような、不思議で──不気味な雰囲気が漂う。その森の奥へと足を踏み入れると不安を煽るかの様に、気味の悪い静けさだけが満ちていた。
──ホホゥ、ホゥ。
森への侵入を警戒していたのか、近くに止まっていたフクロウが唐突に飛び去ってゆく。フクロウは深緑の大きな樹々の間を抜けて、更に霧の深い森の奥へと姿を消した。
すると、微かに森の奥から歯車のカタカタと回る音や、蒸気の噴き出すポンプの稼働音が聴こえてくる。
その奥には機械仕掛けの小さな孤児院が、ポツンと樹々に囲われて佇んでいた。隣には古びた教会の跡地が廃墟と化しており、孤児院事態もかなりの老朽化が進んだオンボロ屋敷である。
ここに住まう13人の子供達の多くが戦争孤児であり、美しい
何度も蒸気を噴き上げながら、動き続けている中庭の大きな機械に
その腕にはまだ年端も付かぬ銀髪の赤子を抱いて、薪割り機の横に積み上げられた新薪をそっと手に取る。
ジュリアはその綺麗な歌声にウトウトと首を何度も落とし、重そうな瞼を擦りながら大きなあくびを堪え切れずにするのだった。
霧に覆われた視界の片隅で玄関に明かりが灯るのを
一様に真っ黒いマントをその身にまとい、裏地にはそれぞれに違う色が染まる。
青に紫に緑と大きな羽根の様にふわりと風に靡かせて、揺らぐマントは子供達を優しく包み込んでいた。
「行ってきます!」
「遅くならない内に戻りなさい」
「はーい!」
先陣を切るレジナルドは、茶髪でツンツンとした髪形にその瞳は、マントの裏地と同じく青色に輝く。いかにも利口そうな顔立ちの好青年だ。誰よりも好奇心に溢れ、昔から人のために動く事の出来る正義感に溢れたみんなの頼れる兄貴。
「皆のお土産、何がいいかな?」
「エミリアとお揃いの髪飾りが欲しいなー」
レジナルドの後を追うメファリスは、紫色の瞳に長い黒髪。その儚げな瞳と同じ色のマントをバサッと大きく広げて、その綺麗な黒髪が風に揺らぎ艶めく。うわさ好きで陰謀論を愛好する彼女は、どことなく不思議な色気を漂わせていた。
「初めての王都なんだし、みんなの分も買うんだぞ」
「わかってるわよ。それよりも王女様のう・わ・さ」
「ミアは……まったく」
慣れた様子で颯爽と森の中を駆け抜けてゆく3人の視界は、霧に遮られているにも関わらず、お喋りをしながら実に楽しそうな様子で風に舞う。
子供とは思えぬ程のその脚力は、たくましくもゴツゴツとした道なき森の中を駆けているのだ。不思議なくらいに卓越した身体能力は、日々の修練を物語る。
そして、浮かない表情のレイスはと言うと──緑色のマントにいかにも面倒くさそうな足取りで、2人の背中を追っていた。
金色の長い髪を1つに束ねながら、2人の背中を見つめて項垂れている。左目の下のホクロがその白い肌を際立たせ、緑色の瞳に端正な顔立ちのレイスは、その表情をおもむろにキュッと歪ませて呟く。
「第2王女の生誕祭なんて何の意味もないだろ?」
「またリアはそんな事ばかり言って──」
「リアは、俺やミアとは違って合理主義だからな。オカルトとか宗教理念にも興味がないし、見えているはずの幽霊でさえ信じちゃいないんだから。存在しない姫の生誕祭なんて、もっての他だろうよ」
「お祭りなんだから、リアもロブも楽しまないと!」
2人は足取りの遅いレイスに目をくばり、メファリスが急かす様に手招きをする。
「ミアは楽観的というか……僕にはあまり理解できないな」
「何よそれ⁉ そもそも、国がお祭りにしてるんだから!」
「ハハハッ──それもそうだな。王政が決めた祭り事に異論を唱えても、それこそ意味がないと言うものだ。リアは観念して楽しむべきだぞ」
言い返す言葉を失ったレイスは「はぁ……」とため息をついて、唐突に2人を追い越した。孤児院の中でもダントツに足の速いレイスは、先頭に立つとマントを靡かせ、ニコリと振り返る。
「わかったよ。なら急ごうロブ。ミアはモタモタしていると置いてっちゃうぞ」
「ちょっと、待ってよ!」
3人には共通して互いを呼び合う、愛称なるモノが存在する。
それぞれ──レジナルドがロブ、メファリスがミア、そしてレイスがリアと3人の中でのみ定着していた。孤児院の中でもこの愛称で呼び合うのは、この3人だけである。
孤児院創設時よりともに過ごす、最年長の彼らは今年ようやく12歳を迎え、王都への入場が許可された。親のいない孤児にとって12歳は、身分証が発行される年でもあるために一般的には成人として扱われている。
そして、王都壁内への入場すら許可されていなかった彼らにとって、この日が生まれて初めてのお祭りでもあった。
そんなはやる思いが呼応するように、3人の駆ける足は次第に速くなってゆく。
森を抜けて薄暗い霧の中をチカチカと輝く、ネオンの街並みを視界に捉えた3人は、喧騒な街の中をまるで風に乗っているかのように駆けてゆくのだった。
街は孤児院と同様に機械仕掛けで、至る所から蒸気を噴き出し、霧の中はにぎやかな程に機械と街を行く人々の活気で溢れている。
そして、唐突に現れた巨大な城壁を目の前に、3人の足がピタリと止まった。
国中を覆う霧を突き抜けて、空に高く伸びた強固な城壁。その壁は戦乱の爪痕をいくつも残し、いつの時代も内側の都を守り続けてきた歴史ある要塞。
通行のために設けられた関所には鎧姿の衛兵が立っており、多くの人々が身分証を片手に並んでいる。
そして3人もまた、届いたばかりの真新しい身分証を片手にその行列へと並んだ。それぞれに名前と番号が刻まれている銀色のプレート。階級すらも分かるこの身分証は世界共通で発行され、世界政府によって管理されている。
謂わば、渡航証明書のようなモノであり、別名『
この身分証は、飛空艇に乗船する時や他国への入国審査などにも用いられている為、この身分証を持たない12歳以下は必然的に他国への亡命すら危ういのである。
3人は怯えた様子で衛兵に真新しい身分証を提示する。すると意外にもあっさりと関所の通行を許可され、その大きな門を潜ると3人の目の前には──霧の晴れた綺麗な街並みがグワッと広がった。
いつも森から眺めているだけのこの城壁を抜けて、3人は陽気に賑わう貴族街に心が躍る。
白い小鳥がバサッと飛び立ち、耳には陽気で賑やかな音楽と人々の楽し気な声が聞こえてきた。次にどこからともなく美味しそうな匂いが、3人の鼻をつつく。
更には出店がズラリと立ち並び、たくさんの子供達が群がっている。その手には見た事もないお菓子やおもちゃがキラキラと輝き、想像を遥かに超えた光景がそこには広がっていた。流石に貴族街だけあってか、その身なりも艶やかな色彩が異様に目立つ。
「おい! 2人共、あっちに出店がいっぱい出てるぞ!」
「わぁ~。美味しそうな匂い!」
「賑やかだね」
「俺、トカゲの尻尾アメが食べてみたいなぁ~」
「私は取り敢えず、うわさの確認ねっ!」
「僕は何でもいい。2人に任せるよ」
美味しそうな匂いに舞い上がるレジナルドとメファリスの2人につられて、レイスもいささか気分が舞い上がっていた。まるで空を舞う花びらのように、3人は街の中を駆けまわり、彩る綺麗な飾りと楽し気な音楽にその身を弾ませる。
ふわふわとしたアメ菓子に、トカゲの尻尾アメ、量り売りの粒々としたカラフルなモノから不気味な紫色の棒菓子まで、全てが見た事のない不思議なお菓子のめじろ押しであった。
食べ物の屋台も出店し、空魚のフライや肉巻き棒に、白鯨の目玉などが売られている。
そして、いろいろと買った3人は、その手にたくさんのお菓子とお土産を抱え、メファリスの念願であったアルブム城前の大広場へと赴く。
そこには黄金色の昼下がりにキラキラと輝き、豪華な装飾にいかにも高級そうな王家の椅子が台座の上にドンッと神々しく置かれていた。
アルブム城前の大広間にはその椅子を一目見ようと多くの民衆が集まり、誰も座っていないただの空席を一様に見つめ、中には手を合わせて祈りを捧げる者までいるのである。
この祭の主役でもある第2王女が本来なら座っているはずのその空席は、一度も使われた事のない空虚な椅子として噂されていた。
毎年開かれている生誕祭も、あらゆる式典にも、姿を現さない第2王女は──国民はおろか城の者でさえ、その姿を見た者はいないのだという。
故にいつしか第2王女は“幽閉の姫”と呼ばれるようになり、もう既に亡くなっているのだとか──城に囚われているのだとか──根も葉もない噂だけが独り歩きを始めていた。
「だから、言ったろ。誰も座ってない椅子になんて、何の意味もない」
レイスが呆れた様子でその場にしゃがみ込む。
「そんな事はないわよ。王女の椅子が見られたんだから、それだけでも私は十分よ」
「そうか? 僕にはただの椅子にしか見えないけどねぇ」
「──2人共! これを見ろよ!」
そう言って駆け寄るレジナルドが、血相を変えて新聞を広げた。
『
脱獄からちょうど2日後、
──と新聞の一面に堂々と大きく取り上げられていた第2王女失踪の記事に2人は、目をまんまると見開いて驚愕の色を見せる。
「王女の失踪⁉」
「すぐそこで号外が配られていたんだ」
「これが事実なら一大事よ……」
「そもそも、はなから存在していないのに……何で今更、失踪って」
「でも失踪事件になるって事は、本当に彼女は城に居たって事でしょ?」
「
「でも世界政府に追われている彼らが何でそんな事をする必要があったのかしら? 実力だって
「どうせ新聞社のデマだよ……」
「リアは夢がないなぁ」
「しょうがないよ。リアだもん」
3人が大広間で新聞を広げて話していると、突然辺り一帯が陰りだし、一様に空を見上げる人々。その頭上には、大きな飛空艇が轟音と共に蒸気を噴き出して、レイス達の真上を飛んでゆく。
国の主力戦艦が、王都へと帰還したのだ。
「飛空艇だ……」
「でけぇ……」
貴族街を覆う程の巨大な影は、城の裏手へと向かって飛んでゆく。
城を挟んで大広間とは真逆に位置する教団の船着場が、その方角であった。度々、王都上空には飛空艇が飛び交うが、ここまで巨大な飛空艇は滅多に見ない。況してや霧の中で生活を送る彼らにとって、初めて間近で見る飛空艇である。
まるでドラゴンの様な巨大さに、船体の至る所から噴き出す蒸気は、咆哮のように空気を揺らしていた。
「きっと、スゲェ
「王女様の事件と関係あるのかな?」
「第2王女の失踪ね……」
目を輝かせるレジナルドとメファリスに相反して、レイスはその表情を陰らせていた。
その日のうちにうわさはやがて国中へと広がり、世界政府の耳にも届いていた頃──更に大きな事件が世界を揺るがす事となる。
それは、白霧の国・現王位“第13代 白の王”が何者かによって暗殺されたという大事件であった。
第2王女の失踪に続き、国王までもが不在となってしまった【アルビオン王国】は、次第に不穏な空気に包まれてゆく中で、大いなる時代の変革に巻き込まれてゆく。
そして、国王の暗殺を企てた犯人も分からぬまま──2年という歳月が過ぎ去った。
* * * * *
2年後。
孤児院では、14歳となった年長組に加え、大きくなった子供達がいつもと変わらぬ日常を送っていた。
日も暮れ、些か空がどんよりとした雨模様に包まれている夕方の事。
パラパラと降り出した雨に反して孤児院の中では、とても賑やかに夕食の準備が進められている。
料理は海老とオマール貝のパエリア。それに魚のムニエルや骨付き肉のカルパッチョ。シーザーサラダなどなど。
各国との貿易でいろいろな食材が手に入る王都近郊では、多国籍料理が食卓に並ぶ事もさほど珍しくはないのだ。色とりどりでどれも美味しそうな料理に、鼻をくすぐるいい匂いが部屋中を漂い──子供達のおなかを“グゥー”と鳴らした。
「
慌てて席に着いた子供達は、アマンダの声に両手を重ね、突き立てた親指を眉間に当てる。
そして、まぶたを静かに閉じて祈りを捧げ始めた。
この世界において“星教”の教えは広く根強いモノであり、世界人口の約8割が
「いただきます!」
唐突に眼孔を見開き、物凄い剣幕で皿の上に彩られた豪勢な料理を奪い合う子供達。食事の際に行う“星教”の祈りなど、古い習わしであるかの様にそそくさと済ませて暴れる。
そして、テーブルに身を乗り出し、我先にと奪い合うのだ。実に意地汚いと言うべきか……。
「取ったぞぉ!」
「コレは私のよっ!」
「離せぇー! 俺の肉ぅ!」
「コラッ! ザック、ナルバ、テーブルに乗らないのっ!」
エミリアがお調子者の2人に叫ぶも、その背後ではアレクとユアが肉の取り合いを始めている。
まるで群雄割拠の戦場へと赴く、ならず者たちだ。あっちでもこっちでも、海老に魚に肉に皿が宙を舞う。年も背丈もバラバラな子供達が血気盛んに食い散らかす様は一驚の情景と言えよう。
「アレク放しなさいよっ!」
「ユア! あんまり調子に乗んなよっ!」
「何よ! 早い者勝ちでしょ⁉︎」
アレクが咄嗟に右手を前に突き出し、
世界を廻る
この世には『
「全員、いい加減にしろ!」
フロドが叫ぶのと同時、唐突に出現した氷塊はテーブルの上に咲き、アレクの右手も一緒に氷漬けにしてしまう。花の結晶とでも言わんばかりの綺麗な氷塊はまるで、水面に浮かぶ睡蓮のように美しく咲き誇る。
全身から冷気を発してフロドが怒っていると、シーンと静まり返った空気を裂くように、ユアが全身に風をまとって叫んだ。
「フロド! 料理が冷めるじゃない!」
一瞬、静まり返ったかに思えた食卓は、ユアの放つ暴風によって再び始まってしまった。
テーブルに咲いた氷花を暴風の巻き上げる風が粉々に砕き、アレクの右手が再び燃え上がると、砕けた氷塊を一気に溶かす。そして、暖められた熱気に高揚する様に子供達は勢いを増して、再び元気に暴れ出した。
これが、ここ『MOTHER LODGE』という孤児院の日常である。
──ジジジイジジジッ。
にぎわう子供達をよそに突然、玄関のベルが鳴った。
こんな時間にそれも雨の中、森の奥にあるこんな小さな孤児院だ。誰がどんな用事なのだろうか? そんな事を考えていた小さなオルティスとニフロの2人が、席を立ったアマンダの後をひっそりと追う。
玄関の扉を開けたアマンダから少し距離をとって、背後から眺める2人は土砂降りになった雨の中で、ひっそりとたたずむ男に目を向けた。黒い傘を深く差した男は、傘で顔が分からないけれど、黒い制服に身を包み、役人らしきたたずまいから教団の人間である事が推察できる。
世界政府『
エミリアが
街にいる鎧の衛兵達がその胸に刻まれるのは1つ星だと聞いていた事からも、彼が教団の中で指折りの
そんな男がおもむろにカバンから取り出したのは小さな小包。古めかしいボロボロの包装紙で包まれた小包はアマンダに手渡され、何やらヒソヒソと話をしてから深々と頭を下げる男。
そして、雨の降り頻る霧の中へとその男は消えてゆく。
「何をもらったのかな?」
「お菓子かな?」
アマンダは小包を持ったまま自室へと向かい、戻ってきた時にはその手に小包は持ってはいなかった。自室に置いてきた小包が気になったオルティスとニフロの2人はアマンダに駆け寄り、色々と質問を繰り返すようにアマンダを見上げる。
「何を貰ったの?」
「良いもの?」
「誰だったの?」
「どんな人だった?」
「お菓子なら後で食べてもいい?」
「あの人は教団の人?」
しかし、アマンダはニッコリとほほ笑むだけで、2人の頭を優しくポンポンと撫でて質問には一切答えなかった。
* * * * *
≪ レイス…… ≫
その夜、子供達が寝静まった頃。
何かの物音に目を冷ましたレイスが、ベッドから起き上がる。
そして慣れた様にフワッと翳した右手に
体内からあふれ出る
誰かの声が聞こえた様な気もしたが、部屋には誰も居ない。
──ギーッ……ギーッ……。
「うぅーん」
まだ眠気の残るレイスはそのまぶたを擦りながら、物音が廊下からする事に気が付き、聞き耳を立てて様子をうかがう事にした。
廊下をギーッ……ギーッ……とこちらに向かって何かが近づいて来る音がする。
レイスはそっと部屋の扉に耳を当てて息を潜めながら、その音が近づいて来るのをジッと待った。
──ギーッ……ギーッ……。
すると音はレイスの部屋の前でピタリッと止まり、耳を扉に当てていたレイスの心臓が徐々に早くなっていくのに対して焦りと不安が込み上げる。硬直したままのレイスの表情は次第に強張り、額から尋常ではない程の汗が噴き出ていた。
──コンコン。
ノックの音で咄嗟に背後に仰け反ったレイスは少し距離をとり、扉をジーッと見つめたまま生唾をゴクリと飲み込む。
ベッドの脇に置かれた時計にふと目をやると、針はちょうど深夜2時を指している。
幽霊の類をまったく信じてはいないレイスにとって見えている幽霊は、存在していないモノとして認識していた。
「大丈夫……。大丈夫……。ただの錯覚だ……」
──コンコン……トントン……ドンドンッ……ドンドンドンドンッ!
鳴り止まないノックは次第に大きくなり、レイスは額から流れる汗を拭ってさらに扉から距離をとる。
完全に怯え切った様子で全身が凍えた様に震えていた。
そしてノックの音がピタッと止むと、今度はドアノブがキーッとゆっくり回り始める。
右へ……左へ……キーッと金属が軋む不快な音が何度も回る度に部屋の中に響く。
「──ア、アレク……? ダン? カフラスなのか? ふざけるのも大概にしろよ。今、何時だと思ってるんだ」
今にも飛び出しそうな心臓を左手でおさえながら、扉に向かって話しかける。
しかし、返事はない。
淡い光をともした右手を扉に向けるがその薄明かりは、ゆらゆらと体の震えに比例してレイスの不安を物語っていた。
少しして何も物音がしなくなると、レイスは恐る恐る近づいてその扉を開く。
目の前には暗闇が広がり何も見えない──右手を翳しているのにも関わず、暗闇は暗闇のままレイスの目の前を黒く染めていた。
そして頭上から微かに聞こえる息づかいに何かが目の前にいると気が付いたレイスは、ポタポタと目の前に垂れ落ちる何かに反応して、咄嗟に右手を頭上に翳す。
すると、大きくて真っ黒な体表の何かが、紅蓮のまんまるい瞳を不気味に見開いて、瞬きもせずにこちらをジーッと見下ろしている。
ソレは鋭い牙を赤く染め、涎なのか赤いドロッとした液体を垂れ流しながら、口角をキュッと不気味に吊り上げて、ただニンマリと笑みを浮かべて立っていた。
「…………」
咄嗟に視線を下すと不意に、ソレが持っているモノに気が付く。
ソレの長い腕がだらんと垂れ下がり、大きくて鋭い爪と細長い指に掴まれた無垢な存在──惨たらしく内臓を抉り喰われたのか、ポッカリと空いた空虚なおなかに、生気のない蒼白な表情のエミリアが、足を掴まれたまま死んでいる。
引き摺られて来たのか、廊下には暗闇の奥からずっと続く血痕がチラリと見えた。
「キャァァァッアアアアアアアアアアアアアアア──」
ソレがこの世のモノとは思えない奇声を発すると、驚いたレイスは腰が砕けるようにして後ろへと倒れ込んだ。
閉じてしまったまぶたを慌ててすぐに開くとソレは、レイスの鼻先が触れるかどうかという程の距離に、その顔を近づけさせて──ささやくように呟いた。
「──ネェ、アソボウヨ……」
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