第9話 不毛の衆
夢をまた見た。
それは傍若無人な上司の一言から始まった。
いつだって炎の災難は、その一言から始まるのだ。
始まりのあの日以外の全てが。
「邪魔だ。じゃーまだじゃーまーだ。蛇魔だから……切っちまおうぜ」
「……ほっとけ」
「やーだね。「蛇の道はヘビ」」
クチナワのお護りが呼び声に応えてその牙を剥く。
「……っ! 血飛沫丸!」
防御のための呼び声に応えて炎の血刀が盾の形を成す。
しかし、それは無駄だった。
「外から、ではないんだなあ……分かってる癖に」
そんなからかうようなクチナワの声を炎は気にかける余裕はなかった。
何故なら蛇がその鎌首をもたげて、炎の首筋に舌を這わせていたからだ。
「……ちっ」
実戦なら殺されていた。
とは言え、実戦ならそれはそもそも有り得ない事だったが。
「いやいや、実戦にもなりうるさ。私は残念ながら
その言葉の意味は、分かってはいたが、受け入れたくなかった。
自分が自由だとは思いたくなかった。
それでも、分からなければならない事はあった。
「……あんたに敵わないって事は分かってるんだ。もう逆らいやしねえからこの蛇を退かせ」
「そうだな、でも、せっかくだから、有言実行させてもらうよ、炎灯理」
「あ?」
「言っただろ? 切っちまおうって」
「何を……」
「その黒髪、こっちに寄越しな、蛇公」
炎には警戒する暇もなかったし、警戒したところで、もう遅かっただろう。
「………………………………」
頭が軽くなったような感覚に襲われ、後ろ髪に手をやれば、長く伸ばしていた髪は肩の上辺りでざんぎりにされていた。
「何勝手な事してやがる。あんたの能力は散髪にも使える事を主張でもしたかったのか?」
「そういうことにしとこう。前髪は残しといてやったよ。それが無いとさすがに落ち着かないらしいしね。これで君が少しは鮮花の呪縛から解放されれば良いのだが……君はもう子供のままではいられないよ、炎灯理」
「余計なお世話だ」
本当に余計な事だ。
呪縛なんて、一生付き合う覚悟が出来ている。
目覚めれば、見覚えのある屋敷に寝ていた。髪を掻き上げようとして、うなじに伸ばした指先が乱雑に切られた後ろ髪に当たった。そう、今髪は短くしてあった。この長さに切った日が、ずいぶんと昔のことのように思えた。そうして、炎灯理はいつぞやとはまるで違う、清々しい気分で目覚めた。
「炎兄ちゃん!!」
弾むような少年の声にそちらを見やれば、見覚えのある少年が、顔いっぱいに安堵の表情を浮かべて炎の顔を覗き込んでいた。
「……リュウ?」
「他に誰に見えるのさ。ミズキ!! 俺、村長たちに炎兄ちゃんが起きたって伝えてくる!!」
「うん!!」
元気な返事にそちらを見れば、あの馬小屋を貸してくれた家の少女が、にっこりとほほ笑んでいた。彼女の返答が聞こえたか聞こえないかの内に、リュウはすくりと立ち上がり、足音も高く去って行った。
ここは村長の屋敷だった。スイが寝かせられていた部屋だ。
炎灯理はどうやら今回も生き残ってしまったらしい。
「リュウは本当に騒がしいな……なあミズキ、スイ……洋装の女を知らないか?」
自分たちが雨に押し流されるようにして下山したのは覚えている。スイが隣で全速力で駆けていたのも覚えている。しかし肝心の彼女の姿が見つからない。嫌な予感に炎の心臓が痛む。
「それがさっきまでそこに寝てたんだけど……」
ミズキは自分の後ろにある布団を指さした。
「起きたと思ったらふらふらと外に出ちゃって……止めたんだけど……」
ミズキの困り顔に炎はふらりと立ち上がった。
「炎お兄さん急に立ち上がったら危ないよ」
「悪い。行かないと」
スイを探さないと。
探してやらないと。
それが炎灯理の責任だ。
外は大雨だった。渇いた村が嘘のような土砂降りだった。炎は一瞬で濡れ鼠になった。体が冷えて服が重く芯まで凍えた。
村長の屋敷から出てしばらく行くと川の土手の上にたどり着いた。
川は氾濫していた。川の流れるごうごうという音が雨音に負けないくらいに響いていた。
村人たちが総出で土嚢を積み上げているがあまり意味はなさそうに見えた。
それでも雨が降らないよりはマシなのだろうか。炎には分からなかった。自信がなかった。
スイ・ウォータープルーフはそこにいた。ぼんやりと村人たちの作業を見つめていた。
「スイ!」
「炎さん!」
驚いた顔はすぐにホッとした顔に変わった。
「よかった……目が覚めたんですね。私たち霊山の麓のあの石のとこで倒れていたらしいですよ」
のんびりとスイが遠くを指さす。
「よかったはこっちの台詞だよ。もう少し休め。俺たちに出来ることはもうないだろう」
「すいません。ただ、どうしても、雨に打たれたい気分だったんです」
そう呟くように言った彼女の頬を、たとえ炎のお護りでも乾かしきれない雫が伝うのを見て、炎は黙ることにした。
「……鯉神様、加減を知らないのですね」
スイは曇天を見上げてぽつりと呟いた。
そうしてからスイは川に背を向け歩き出した。
「私もう泣きません」
彼女は泣きながらそう言った。
「だってこれ以上に……お父さんとお母さんとお別れする以上に悲しいことなんてそうそう無いはずですから」
泣きながら崩れ落ちながら辛そうな顔でそれでも彼女は自分に言い聞かせるように確かな決意とともに誓った。
「戦場で泣くようなことはこれっきり、あなたに馬鹿にされるような情けない真似はこれで最後」
実を言えば炎は彼女の涙を馬鹿になんてしていなかった。彼女の弱さを否定なんてしていなかった。
泣くことは責められるようなことではない。
泣けない炎はそう思う。
彼女にはいくらでも弱いところ改めるべきところはあるのだろうけれど、その場所で泣くことを否定するほど炎は彼女に対して冷血になれなかった。
だけれど彼女は炎の心中にはお構いなしに自分の決意を自分の言葉で告げた。
「私頑張りますから」
これ以上、何を。
「強くなるから」
「お前はもう十分に……」
炎の声は小さかった。スイにどう声をかければよいのか彼はまだ悩んでいた。
「だから
スイの気持ちを炎は知らない。知る気もない。それでも彼女は大丈夫だと、それだけはちゃんと分かった。だから、短く一言だけ答えた。
「お前はよく頑張ったよ」
それを聞いて、スイは驚いた顔をして、それから笑った。
「また泣いちゃうところだったじゃ無いですか」
村長の屋敷に戻るとリュウが医者を連れてきたところだった。
医者とリュウが口々にこちらが外出したことへの非難の声を浴びせてくるのを聞き流しながら炎とスイは村長の屋敷の中に戻った。
それから三日後。スイ・ウォータープルーフの体力の回復と雨が止むのを待ち、炎灯理は、彼女を伴い、再び霊山に足を踏み入れた。
三日ぶりの霊山は、雨と川とに洗い流されて、すっかり様変わりしていた。
あまりの変わり様に、かつてたどった道の判別も危うかったが、なんとか炎とスイは、目的地であるスイの一家が暮らしていた家のあった場所にたどり着くことが出来た。
その場所がかつて訪れた場所である確証を炎は持てなかった。だが、今その場所は十数人の揃いの白衣を着た集団に埋め尽くされていた。
彼らは炎からの連絡を受けて、
「おーい、ハカセー」
「おお、炎か。元気そうで何より」
白衣の集団の中でもとりわけ汚れた白衣を着ている中年の男に、炎は声を掛けた。
「どうだい、調子は?」
「どうもこうもねえよ。俺たちはそりゃ求道者よ、学者よ、探究者よ? だが、なあ、炎よ、こう辛気臭くて湿っぽい場所じゃ、どうしようもない。そりゃ、学問の粋を極めるためならば、たとえ火の中水の中、蛇の道の中でも行きますけどね。しかし、体が湿って、冷えて、汚れたんじゃあ、まさにヘビだ。手も足も出ねえ。そう、俺たちには今何よりも必要なものがある。渇いた村にとっての恵みの雨に比肩するほどに必要なものがね。そして炎灯理、お前さんこそ、俺たちにその恵みを与えるものに相違ない訳だ」
「そんな回りくどい言い方をしなくとも、火ぐらい分けてやるよ」
「そうしてくれ、早いとこ」
「
炎の呼び声に応え、お護りが弾け飛んだ。
人を芯からあたためるような熱を放つ、火の玉がハカセのみならず白衣の人々、一人一人に寄り添うように、その場にあふれた。
「いやあ、さすがは炎。
「煽てても何にも出ねえぞ。それに俺なんか師匠に比べればまだまだペーペーだって」
「ハハ違いねえ。あの人、
炎の師匠にして拭手の親父さんこと鮮花拭手は炎灯理の実の父だった。鮮花村が滅んだあとにかつての名前を捨てた彼は
「しかしあれがショウビの忘れ形見ねえ……似てねえなあ」
ハカセは自分の家があった場所をボンヤリと眺めているスイに視線をやってしみじみと呟いた。
「知り合いだったのか」
「優秀な研究員だったよ。お護りは持たない研究員……まあ珍しいことじゃねえな」
ハカセもそうだということを炎は知っている。
「ショウビの研究成果はご覧の通り、全部流されちまった。……ショウビの研究資料があるなら、貴重な資料として押収したかったのだけどな。そうもいかなくなっちまった。とは言え無駄足って訳じゃねえ。今回のこの村と霊山の一件にまつわる顛末は、博物学的価値を持って
「そうかい」
炎はその辺のことには興味がなかった。
「あとは結局、雨降らしの龍が避ける何者かがなんだったのかって一点だな……なんかあったか?」
炎はそれをようやく思い出す。
自分たちで山に雨降らしの龍を降誕させるという荒技を使ったため覆考することなく投げ捨ててしまった疑問。
思い返してもそれの原因と言えそうなものに覚えはなかった。
「いや、それらしきものはなにもなかったな……」
「ああ、そんなの簡単ですよ」
気付けばスイ・ウォータープルーフがふたりのすぐそばに近付いていた。
「え?」
簡単?
「お、なんだい言ってごらん」
炎はぽかんと口を開け、ハカセは楽しそうな顔をした。
「結局のところこちらもお護りの応用です。神様にお護りのシステムが通用するのなら雨降らしの龍にも同じことが言えます。信じることが起こり得る。人の呼び声に応える。それがお護り。雨降らしの龍もまた人の心に応えていたのです」
すっかりお護りとお護り使いについて理解を深めたらしいスイの言わんとすることを炎も薄々感づき始めた。
「村の人々の「霊山には雨降らしの龍すら避ける何者かがある」という信心こそが雨の降らない村を作り出したのですよ」
「大災害が信心の結果だった……」
炎灯理は思わず頭を抱えた。
ハカセは素直に納得した。
「なるほど俺たちお護りに関わるものには納得しやすい仮説だな。今後の調査でなにも見つからなかった場合それを報告書に書くことになりそうだ」
「今回、私と炎さん、そしてハカセさんたち
「……スイ、お前両親からお護りのことはなにも聞かされてなかったんだよな?」
「はい。ただそれに連なる知識めいたものは母の著作に散見していました。私がこの結論を導き出せたのも母の仕込みだと思います」
「その母の著作って奴、思い出せる範囲でいいから書き起こしてくれるか? スイ・ウォータープルーフ」
ハカセは依頼した。
「一つの実験的思考としておそらく有意義な資料になりうる」
「了承しました……
スイ・ウォータープルーフは母の形見である洋装の上に、炎とお揃いの
こうして川が枯れて渇いた村と雨降らしの龍が避ける何者かが存在する霊山の調査はここに終結した。
雨を乞うたリュウの願いは天に鯉を龍として登らせることで結実した。
スイ・ウォータープルーフという新たな仲間を得たこの一連の出来事は「アマゴイリュウ事件」として
炎灯理の役目は終わった。しかし炎灯理の
次に待つのがどのような困難でどのような敵でどのような神でどのような味方だろうと炎灯理は歩んでいく。
それが母のくれた呪いだ。いつかそれを祝いと出来る日まで炎灯理は生きていく。
第1章「アマゴイリュウ」了
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