いちにちめ
002 待遇
薄暗い牢屋のなか、メアリーはそこに幽閉されていた。が、鉄格子の間は広く体の小さなメアリーなら安易に抜け出せる。
しかしそうしないのは、牢屋の前で巨大な猛獣がイビキを立てて眠っているからだ。
今は深く眠っているようだが、猛獣は小さな音でも過敏な反応を示す。メアリーはそれが恐ろしく、逃げ出せずにいた。
(さむい。お腹減ったなあ……)
長いこと牢屋に閉じ込められているため、時間の感覚も狂っている。
お腹も減り、眠気も限界に迫っていた。
石壁には外へ繋がる穴がある。そこから光が漏れているため、今が昼間なのはわかった。
(なんで、こんなことになっちゃったのかな……)
自身が招いた軽薄な行動を悔やんでいる中、あることを思い出す。
それは何気ないもので、今思い出したのも不思議なくらいだった。
それは辺境伯領に移り住む前、メアリーが侍従と一緒にお忍びで町を散策していた時のこと。
たまたま通りすがった大通りで、歌人が歌っているところに遭遇した。
流暢な言葉と心に響くリズム。メアリーも群衆に紛れて聴き入った。
遠い土地で、長きにわたってその地を支配する魔王が倒された。それは勇者でもない、ひとりの男。
次に大聖堂で、大司教の両目が盗まれた。両目を盗んだ犯人は、魔王を倒した男。
大司教の目を盗む祭に男は言った。
──両目を預かっている間、魔王から奪った地への侵略は許さない。いかなる理由があろうとその約束を破った場合、司教の目は犬の餌になる。
と。
要約すると歌人はそんな内容の歌を歌っていた。
その時のメアリーは馬鹿らしいと思ったが、今になってこの考えこそ馬鹿だったと悟る。
ますます自身の行動が浅はかだったと後悔した。
涙が枯れるまで泣き腫らした両目は、元来の可愛らしい顔とはかけ離れている。
こんな顔では人前に出れない……、呑気なことを考えていると扉が開く音が牢屋に響いた。
イビキを立てて眠っていた猛獣も飛び起き、背筋を伸ばして尻をつく。
「ご苦労」
姿を現した男はそう声をかけて猛獣を撫でた。猛獣も気持ちよさそうにしている。
男は猛獣を撫で終わると、牢屋の前に立った。
短髪の赤みを帯びた髪、左のもみあげが長い。暗い瞳の色に、あまり堀の深くない顔立ちだ。
「名前は」
「な、なまえ?」
前触れもなく振られた質問に呆然とする。
メアリーへ開口一番に発せられた言葉は、あまりに素っ気ないものだった。
「名前を教えろ」
「メアリー……グレイセス、ボールドウィン……」
「そうか。メアリー、ここはどこかわかるか?」
「魔王の、お城ですか……?」
城に劣らない強固な壁、牢屋の前にいる猛獣。そしてここへ入れられる前に出くわした、人とは思えない巨大な
その情報を頼りに、メアリーは自力でその答えにたどり着く。男は答えなかったが、あながち間違いではないはずだ。
「なら、なんでここに連れて来られたかわかるか?」
「……それは、わかりません」
男は次の質問を出したが、メアリーは首を横にふる。実際は
例えどんな目に遭うかわかっていても、認めることが癪に触る。ゆえにメアリーは固く口を噤んだ。
男は戸を開けると、牢の中へ入る。
そしてメアリーの元まで歩み寄ると、細く小さな腕を掴んだ。
「立て。いくぞ」
「ど、どこにですか……」
「いいからついて来い」
説明もなく、強引気味に牢屋から連れ出される。
メアリーは言われるがまま、男の後をついて行くことにした。
目は泣き腫らしてしまったため、まともに開くことができない。おぼつかない視界のなか、メアリーは頑張って歩を進めた。
「その腫れぼったい目はなんだ。一晩中泣き腫らしたのか? 顔がやばいことになってるぞ」
「え、まぁ……」
「帰りたいか?」
「……帰りたい、です。おうちに」
別室へ移動している間、男にまた声をかけられる。
か細い声で質問に答えるが、男はメアリーの返事に「そうか」と答えたまま黙り込んでしまった。
「着いたぞ。後はお前らに任せる」
部屋に着いた途端、男はメアリーを近くにいた従事者に託す。そしてそそくさと退散していった。
複数の手がメアリーをとらえ、瞬く間に着ていた服を剥ぎ取られていく。
「え!? ちょ、なにしてっ……」
驚いて混乱している間に下着姿にされ、恐怖は絶頂にまで達しかけた。
が。それ以上のことは起きず、今度は上から服を着させられる。
新しい服の質感が肌を包み、新鮮な生地の香りが鼻腔をついた。
「お目が腫れてらっしゃる」
「冷やした濡れタオルをお持ちに」
四方から女たちの囁くような会話が聞こえる。
手を引かれさらに歩かされたが、その手は細く骨ばり冷たかった。
メアリーの見える範囲でも、女の従事者たちは背が高く顔が見えない。
「しばしの間、お休みに」
ある部屋へ通されると、メアリーはベッドに寝かしつけられた。
腫れた目の上には冷たい濡れタオルを敷かれ、思わぬ待遇に度肝を抜く。
「あ、ありがとう」
お礼を口にした頃には、従事者たちは部屋を後にしていた。素っ気ないのか次の仕事があるのか、部屋を出て行くのがかなり早い。
目許にタオルを敷かれる直前、従事者の顔をやっと確認することができた。
やけに身長が高い、メイド服の姿をした従事者。彼女たちの顔には顔がなかった。
あまりに衝撃的な光景に、メアリーの脳裏に焼き付いてしまっている。
顔はぽっこり穴が開いているように真っ黒で、そこからおしとやかな女性の声が聞こえていた。
見るからに人ではないことがわかる。
(なんだったんだろ。寝ていいのかな……)
すっかり疲れ果てたメアリーは、今にも意識を手放しそうになっていた。眠るまいと頑張って意識を保つも、ものの数秒で眠りについてしまう。
メアリーが眠りから覚めるのは、次の日の朝だ。
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