第16話 祈りの塔 後編

 壁から床からゆっくりと姿を現したものが、ようやく動きを止めた。私は自分の足元から生えてきたものにしがみついていたが、それは丁度椅子の部分であったようだ。その椅子によじ登り、改めて壁から現れたものを見た私は、











 ――感動に打ち震えていた。




 それは、神々の像の装飾が付いた、白く輝く数多のパイプを持ち、




 3段の手鍵盤と足元の足鍵盤を備え、




 手鍵盤同士の間にあるコンビネーションボタンと、鍵盤の両側にずらりと並ぶストップレバーがある。




 まぎれもなく、それは地球でもっとも大きな楽器であり、




 私の大好きな楽器の一つ。




 天井高く伸びる、パイプオルガンだった。










 ああ、なんて美しいパイプオルガン! ああ、2週間ぶりの楽器! 音楽を聞いたり演奏できるのなんて、もっとずっとずっと、ずーっと先だと落ち込んでた私は、歓喜のあまり踊りだしてしまいそうだった。



 当然、私の後ろで何事かを言っている両親やグレゴリウスたちの声なんて聞こえない。



 悪いけど無視だ、無視。目の前に楽器があるのに、クラオタである私の邪魔をするなんて許さない。



 私は、邪魔が入る前に、横長の長方形の椅子に座りなおす。そして気づいた。



「……あれ? 足鍵盤に足が届かない……手鍵盤の一番上にも届かない……?」



 ああ、そうだった! 今私5歳児じゃないか! パイプオルガンとか手も足も届かなくて弾けないわ! そんな……目の前に楽器があるのに、こんなの生殺しじゃないかあああ!



 くそう、でも諦めきれない。仕方ないから下2段の手鍵盤だけで何か弾いてみるか……? と考えていたところで、また壁、じゃなくてパイプオルガンから声が聞こえてきた。



「なあ、爺さん。こいつちっせーから、手足全然届いてねーぞ? これじゃ、仕事できないんじゃねーか?」



「そうよそうよ、私たち1本1本に役割があるんだから、手近のだけで済まされちゃ困るわ。何とかならないかしら?」



「ぷりんしぱるー、ひくところ、ちっちゃくできるでしょー?」



「そうじゃなあ、ほれ、これでどうじゃ? 小娘にちと合わせてやろう」



 最後にお爺さんのような声が聞こえ、手足の鍵盤とストップレバーが私の身体に合わせてぐぐっと近づいてきた。なんか仕事とかなんとか意味わからんこと言ってるけど、そんなこと、今はどうでもいい。ふふふ、これなら届く。弾けるぞー、楽器が弾けるんだ! ひゃっほー!



「でもよー、こいつ俺たちを鳴らせんのか? 見たとこただのガキじゃん」



「はあ、あんた、使い方教えた方がいいかい?」



「つかいかたわかってもー、それだけじゃひけないよー?」



 あちらこちらのパイプから、好き勝手言ってる声が聞こえる。……ふふふ。



 ふははは、楽器を愛するクラオタを舐めんなよ。



 当然、弾けるに決まってるわ! 大学の講堂にあったパイプオルガンを弾きたいあまり、自分で習いに行った甲斐があったわ。こんな立派なのを弾けるチャンスが巡ってくるなんて……ふふふ。



 パイプオルガンは、演奏する際に鍵盤を弾くという部分においてはピアノとほぼ同じだ。足鍵盤は両足で弾くピアノだと思えばいい。そこは大したことない。でも難しいのはその後だ。



 私は、一番手前の手鍵盤の中音のG(ソ)を左手で押してみる。当然音はならない。そう、パイプオルガンはそのままでは音が鳴らないのだ。電気の代わりに、魔力でパイプに風を送っていると仮定しても、音色と音域をこちらが指定しなければ音は出ない。



 左手で鍵盤を押したまま、右手で右側のストップレバーから順番に一本ずつ引いていく。ストップレバーは、それぞれ一本につき1種類の音色と音域をしてすることができるものだ。本来なら、ストップリストと言って、レバーのところにどのレバーが何の音色と音域かが書いてあるのだが……残念ながら、このパイプオルガンのストップリストを私は読むことができない。読めないなら、1本ずつ鳴らして音色と音域を確かめるしかない。



 1本、また1本とストップレバーを引いていく。すべて同じG(ソ)の音だが、様々な音色と音域の音が次々と重なっていく。音量もそうだけど、身体にぶつかってくる音圧がすごい。音色と音域の幅広さからして、多分、パイプが3000本から4000本くらいはあるんじゃないだろうか。あれ? パイプから聞こえる声って……まさかこれ1本1本に意思があるってこと? ……いや、なんかすっごく面倒なことになりそうだから、今これについて考えるのはやめよう。

 このパイプオルガンが出せる音色の種類としては、恐らくプリンシパル(パイプオルガンの基本の音色)、トランペット系(金管楽器)、フルート系、ストリングス系(弦楽器)といったところか。



 ふふふ、ああ、もう楽しくてたまらない!



 私はもう喜びのあまり、ソフィーとしての演技を忘れて高笑いしそうになるのを堪えながら、今度はコンビネーションボタンを操作する。

 パイプオルガンは、一台で様々な音色と音域を表現できる。しかし、そのために演奏中にいちいちストップレバーを何度も操作するのは大変だ。だから、事前にコンビネーションボタンを使って、自分が欲しい音色と音域の組み合わせをあらかじめパイプオルガンに記憶させておくことができる。

 私は、これから弾く曲を思い浮かべながら、いくつかのコンビネーションを手早く記憶させていく。



「おお? こいつ、このボタンの使い方も知ってんのか。こりゃおもしれーな! なあ、お前、なんか弾けよ!」



「落ち着け。これをいじるということは、その組み合わせで弾きたい曲があるということじゃ。静かに待とうじゃないか」



「おねーちゃんのおしごとはひくことー。いっぱいひくのー」



ふははは、任せろ。言われなくてももうすぐ準備は終わりだ。



 私は、ストップレバーとコンビネーションボタンを操作していた手を戻し、今から弾く曲に合わせて鍵盤の上に両手両足を構える。






 ここは、祈りの塔。そして、もしかしたら女神ハルモニアが聞いてくれるかもしれない。せっかくだから、私が知ってる曲の中で神様に捧げるのに相応しいと思われる曲を選んだ。

 もともとは違う神様のために作られた曲だけど、ここは異世界。気にしないことにする。だって、これ以上、神様に捧げる曲としてぴったりで、パイプオルガンが似合う曲が私には思いつかないんだもん。キリスト教徒の人も、バッハ様もどうか怒らないで見逃してください。



 J. S. バッハ作曲 カンタータ第147番「心と口と行いと生きざまは」より、10.『主よ、人の望みの喜びよ』



 ……私はゆったりと、美しい音色を噛みしめるようにその曲を弾き始めた。








 魔力をお腹いっぱい食べたと言っていたパイプオルガンのパイプたちは、演奏を始めるや否や、嬉々として歌うようにその音色を響かせた。その音色は、祈りの塔の高い天井までまっすぐに昇り、跳ね返り、まるで空から音が降り注いでくるようだ。

 淡く光る祈りの塔の中で、キラキラと星が輝くように美しく響き渡るその音色に、私の魂は、心は、洗われていくような気がした。










 ああ、なんて幸せなんだろう……











 このパイプオルガンに出会わせてくれた神様に感謝しなければ! 



 どの神様かわからないけれど、本当にありがとうございます! お礼になんでもします!





 私はパイプオルガンを弾きながら、ついつい舞い上がって、頭の中でそんなことを口走っていた。






「……ほう、言ったな、人間。我が名を利用した愚か者よ」



 だってまさか、頭の中で叫んでることまで聞いてるがいるなんて思わないでしょう?



 だから、なんでもするって言った瞬間、待ってましたとばかりに返事があったのには背筋が凍った。と同時に、塔の真ん中から一本の光がまっすぐ勢いよく降りてきて、通路を通り、パイプオルガンを弾く私のそばまでやって来た。



 その光に包まれていたのは、ウェーブがかったロングヘアーの女性。右手にはあの指揮杖がある。間違いない。



「……ハルモニア様……?」



 やばい、久しぶりの楽器で舞い上がって、調子に乗ってしまった。これはものすごくまずい状況なんじゃないだろうか? 嫌な汗が私の背中を伝う。



 光に包まれた女性が、私の左側に立った。「弾き続けろ」と言うので、まだ弾いてはいるが、女神の冷たい眼差しが恐ろしくて、私は謝るタイミングを完全に逃していた。

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