第二十六話 手記 四
男は自慢の高級なコートを羽織り、ぴかぴかの靴を履いてはいるが、酷くくたびれた様子だった。森の中を通る際にさぞいろいろなものに脅かされたであろう気配が窺える。
しかし、人間が決して近寄らない魔の森を一人で通過してまでこちらへ来られたことは賞賛に値する。魔女はそう思っていた。
男は屋敷の前に立ち、曇った表情で押し黙っていた。だが決意したように手を伸ばして呼び鈴に触れる。
その途端、突風が吹いたようにばたんと勢いよく扉が開かれ、何やら黒い塊に男の衣服が強く引っ張られた。
「な、なんだ!」
悲鳴に近い声をあげているうちに、コートが脱がされ、帽子も取られてしまう。鴉たちはそのまま屋敷の向こうへと姿を消してしまった。
「ま、待ってくれ! なんなんだ、一体」
「外からいらっしゃったお客様の上着をお預かりするのは、おもてなしとして当然のことではありませんか」
真綿で包むように宥めるような声がする。玄関ホールの向こうから真っ白な女がしずしずと歩いて来た。決して大きな声ではないのに、その声はなぜかとても響き渡って聞こえた。
髪も、目も、唇も、全てから色が抜け落ちている。その姿を改めて目の当たりにし、男の顔が少しばかり引きつった。
「君は……」
「魔女。と、呼ばれていますけれど」
女は妖艶に微笑み、そっと奥へ手招いた。
「こちらへどうぞ」
男は呆然とした顔のまま魔女について歩いた。廊下に置かれた調度品やクリーム色の壁などを物珍しそうに見回している。魔女の館と聞いていかにも禍々しい様相を想像していたのに、驚くほど清潔で明るく、自分の住まう館より大きく立派であることに戸惑っているのだ。
細やかな彫り物の施された豪奢な扉の前で魔女は立ち止まり、鈍い金色の取っ手に手をかけた。扉が開かれ、広々とした部屋の中に革張りの長椅子と重厚な木のテーブルが置かれているのが見えた。
「どうぞお掛けになって」
魔女が勧めるままに男はゆっくりと腰を下ろす。その間、決して魔女から目を離さなかった。
扉の隙間から灰色の毛玉が転がるように入ってきた。目を凝らせば二羽の兎である。彼らが仲良く盆を持ち、よたよたとこちらへやってくるのを見て驚きのあまり目を丸くした。
「いい子ね。そう、そのお客様からお出しして」
魔女が愛おしげな目つきで声をかけてやる。
二羽は盆をそろそろとテーブルへ置き、男の方へカップを差し出す。熱いコーヒーを淹れ、兎たちはちんまりと頭を下げると、盆を抱えて猛スピードで部屋を出て行った。魔女がおかしそうに笑う。
「騒々しくてごめんなさいね。それで、ご用件は何かしら」
おっかなびっくり、男は膝の上で手指を曲げては伸ばしを繰り返した。やがて、意を決したように顔を上げる。
「私の領土は、大変な危機に瀕している」
その声は抑揚がなく切迫した空気が滲み出ていた。魔女は片眉を少しつり上げる。
「東西の力は拮抗しているように見えますけれど」
「ああ、かつてはそうだった。しかし、時代の移り変わりと共に事情が変わったのだ。東は我々に隠れて、強力な兵器を開発していた。今回の戦いも、仕掛けてきたのは東の方だ」
「ふうん」
一応相槌は打つがさして興味もなさそうな様子に、男の手が膝の上で強く握られる。
「ともかく、このままでは、水資源を完全に奪われてしまう。それどころか、人民に多大な被害が出るだろう……力を、貸してくれないか」
「力を貸すとして、何をお望みなのかしら。あなた方が魔女と恐れる私に一体どうしてほしいというの」
凍てつくような声色だった。男は冷や水を浴びせられたような顔をした。
「……うちがこれ以上なにも奪われないよう、奴らを制裁してもらいたい」
額に薄らと汗が滲んでいる。魔女は首を傾け、底意地の悪い目を向けた。
「制裁、ね。あくまで戦いを回避するのではなく、本気で東を潰しにかかるということかしら」
「……そうだ」
低く絞り出すような声に、魔女は少しだけ目を見開いた。
てっきり、理不尽な東への腹いせに魔女へ泣きついたとばかり思っていた。しかし相手への怒りは相当なもののようである。
「そう。それで、自分たち人間が恐れ忌み嫌う、魔女という存在に頼るのね。何か良からぬ儀式を行い、恐ろしい呪いにかけるとでも思ってくれたのかしら?」
男は答えない。両手を握りしめ、頑なに目を伏せている。魔女は深くため息を漏らした。
「まあいいわ。実際恐れられているのだし、そこを言及しても時間の無駄ね。それじゃあ、あなたの覚悟を問いましょうか」
言うなり、客間の扉へ視線を向ける。
扉が微かに隙間を開け、手のひらほどの大きさの蜘蛛がわらわらと這い出てきた。男はぎょっとしたように目を見開き身をよじる。異様な光景を目にしても声を上げずかろうじて冷静さを保っていられるのは、さすがは支配者の地位にあるというべきか。
足元に夥しく群れる蜘蛛たちから目を離さぬまま、男は口元を戦慄かせる。
「なんだ、こいつらは」
「言ったでしょう。覚悟を見せていただかないと。私はね、本来誰かを傷つけたり痛めつけるようなことはしない主義なの。それを、あなたの頼みで覆さなければならないのよ。胸が痛むわ」
「君に、痛むような心が、あるとはね」
男の言葉に魔女の白い瞳が震える。刹那、彼の指先に鋭い痛みが走った。
「ぐっ……」
一匹の蜘蛛が音もなく這い上がり、右手の中指の爪先に深々と噛みついている。赤黒い血がぷくりと滲んでしたたり落ちた。
「よしなさい。この程度の言葉に怒りを表すなんて、はしたないわ」
魔女の言葉に蜘蛛はすごすごと引き下がり、群れの中に戻っていく。
蒼白な顔で指先を押さえる男にさらりと言った。
「ごめんなさいね。彼らは気が短いの。棘のある言葉は避けた方が賢明よ」
言いながら、いけないいけない、と自身の心で戒める。今の蜘蛛の行動は直接願ったわけではない。ただ彼女の心の動揺を察して飛び出し、自ら男の指に牙を突き立てたのだ。彼はかつて一緒に町へ出た臆病な蜘蛛だった。それが今では、女王を守る騎士さながらに立ち塞がってくれたのである。
ゆっくり息を吸い、そして吐く。できるだけ心を揺り動かされないように、人間的な感情を全て奥に封じ込めた。
男は指を押さえながらこちらを睨み据えている。
「さて、力を貸すには条件があるわ。まずは、腰につけたその銀時計を置いていきなさい」
「……は」
疑問の言葉も上がらぬうちに、大量の蜘蛛たちが一斉に床から這い上がり、男の腰に群がった。さっと血の気の引き、追い払おうと慌てて手を振り回す。
「なんだ、どういうことなんだ!」
悲鳴の滲んだ声。蜘蛛たちは振り払われても構わず突撃し、ベルトから銀の鎖を引きちぎりにかかる。
「やめろっ、こら! 何をするっ……おい!」
「話を最後まで聞きなさい。それは当然の対価よ」
魔女は腕を組み呆れたように言った。
「私の力を借りて、誰かの命を犠牲にして、自らの欲を満たすのでしょう。ならばそれなりの対価をいただかなくては、こちらが損する一方じゃない」
「……強欲な魔女め」
男は吐き捨てるように言った。引きちぎられた鎖を担いだ蜘蛛たちが床へ散り散りに降りていく。
一体どちらが強欲なのよ、と放ちかけた言葉を呑み込む。自分が怒りを顕わにすれば、蜘蛛たちは次こそ本気で男を殺しかねない。
「何とでも言えばいいわ。それからもう一つ。戦いが終われば、私の屋敷にもう一度来ること」
「まだあるのか」
絶望したような声が飛び出す。魔女は当然のようにうなずいた。努めて冷静さを保ちながらも、意地の悪さがこぼれるような笑みを浮かべて。
「ええ。戦いが無事に終わり、あなたがたが勝利したなら、あなたの妻と子供を連れて、この屋敷においでなさい」
「なんだと!」
男が勢いよく立ち上がる。長椅子が弾みで後ろへずれた。
「妻と子を……一体、どうするつもりなんだ」
「簡単なことよ。連れてきたら、そこで永遠にお別れ。私と屋敷に住んでもらうわ」
「ばっ、馬鹿な話があるか! 断る」
「そう。それなら、このお話はなかったということで。鴉に上着を持ってこさせるわ」
魔女が立ち上がりかける。男は慌てて手を伸ばした。
「待て」
「二人を捧げてくれる気になった?」
男はわかりやすい表情を浮かべて、ぐ、と言いよどむ。魔女は皮肉めいた嗤いを薄く顔に貼り付けた。
「私はいいのよ。あなたたちがどうなろうとも。元々嫌われているのだからね……」
「わかった」
唐突に男が声を漏らした。魔女は意表を突かれたように黙り込む。
「わかった。条件を呑もう」
「……そう」
「それじゃあ、あとは頼んだぞ」
男は立ち上がり長い足を大きく開いて足早に歩き出す。蜘蛛たちを踏みつけそうな勢いで部屋を出て行った。
男が玄関ホールへ足を踏み入れると、どこからともなく鴉の群れが飛んできて肩にコートを被せ、仕上げに頭に帽子を載せた。
「おまえたちも、魔法とやらにかかっているのか?」
男は皮肉っぽく嗤い、玄関を閉めた。
客間の窓際で魔女は一人、ぼうっと佇んでいた。白いカーテンが風にそよぎ、それより白い彼女の肌をふわりと撫でる。
去っていく男の背を、じっと目で追っていた。その瞳には何の感情も表れていない。だが頭の中では、先ほどまでの会話がめまぐるしく反芻されている。
つんつんと、小枝の先でつつくような感触をふくらはぎに感じて我に返る。足元に蜘蛛がよじ登り、懸命に彼女を気づかせようとしていた。
その後ろで、数匹の蜘蛛たちが銀時計を担いでいる。
「ああ――ありがとう」
しゃがみこみ時計を受け取った。よく磨かれた表面をそっと撫でる。蓋の端のわずかなへこみや蝶番のくたびれ具合から年季が見て取れる。表面に刻まれた複雑な紋章は、西を治める者に代々受け継がれてきた印だろうか。
預かる物など何でも良かった。目についたのがたまたまこの時計であっただけだ。これがどれほどの価値のものか興味は無かったが、図らずとも、男には一時的に損害を与えてしまったようだ。
そう、完全に奪うつもりはなかった。男が約束通り妻と息子を連れてきたら時計と共に家に帰すつもりでいるのだ。
「脅かしたかったのよ」
手のひらに蜘蛛を載せて、長椅子に深々と座り込んだ。
「本当よ。ちょっと困らせようと思って。だってあまりにも勝手なんですもの。私を同じ血の通った生き物だとはつゆほども思わない物言いだったじゃない」
ふと窓の外に目をやる。あれほど心を痛めつけられた冬の出来事が嘘であるかのように、朗らかな陽が照っている。外の景色を眺めるうちに、男と初めて出会った時の光景がぼんやりと頭をかすめていった。
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