第二十四話 追憶

 黒い本は、やはり三階の書斎にあった。まるで初めからそこにあったかのように平然と引き出しに仕舞われているのだ。

 メアリや母が近づくと、いつの間にか消え失せる。同じ魔女である自分以外は見られないような魔法がかけられているのだろうか。 

 いや、と首を振る。黒蜘蛛が書斎に迎えに来た時は消えなかった。本を手にしたまま彼に抱きかかえられ、部屋に戻ることができたのだ。

 なぜ蜘蛛は良くて、母やメアリはだめなのだろう。

 疑問が心にわだかまっている。とにかく蜘蛛に会って、何もかもを話したいと思った。

 黒い本を胸に抱いて屋敷の中を彷徨い歩く。寝室、広間、バルコニー、各階の廊下。物陰に黒い蜘蛛の姿が見えないかとあちこちを探し回った。あまりに広いので、根を詰めて歩くと額に薄らと汗が浮かぶ。

 キッチンを覗こうとするとどこからかエプロン姿の使用人が飛び出してきた。

「リリー様! いけません、このようなところへ」

 そのあまりの剣幕に思わずたじろいでしまう。

「……い、いけないの?」

「いけませんよ。ここはリリー様のような方が来られる場所ではございません。ささ」

 ぐいぐい押されて追い出される。

「あのっ、もし、黒い蜘蛛がいたら、わたしのところへ来るように言ってほしいの」

「かしこまりましたよ、しかしこの場所は蜘蛛一匹ねずみ一匹出入りできませんとも」

 鼻先でばたん、と扉が閉められてしまう。仕方なく別の場所を探した。

 あと調べていないのはどこだろう。地図などないので、自分の足で確かめなければならない。

 一階の廊下をぐるりと巡る。そういえばまだ奥のほうへは足を踏み入れていなかったと思い当たる。物置ばかりと聞いていたので生活圏外としていたのだ。蜘蛛が屋敷を守るために拠点を作っているのなら、その辺りは都合のいい適所かもしれない。

 そんなことを考えながら奥へ奥へと歩くうちに、ふとめまいのような既視感に襲われた。

 クリーム色の壁も、重厚な茶色い飾り柱も、全てが他の場所と相違ないのに、記憶の片隅が何かを思い出しそうになって警鐘を鳴らしている。

 屋敷の各階の廊下には飾り台が置いてある。艶のある木製で、蔓薔薇の繊細な堀模様が施されており、その全てに花の活けられた花瓶や羽の生えた生き物の像などが置かれている。しかし今、リリーの目の前にある飾り台には、何もない。

 妙な既視感の正体を知りたくて、食い入るように凝視してしまう。見れば見るほど心臓が嫌な音を立てた。

 ふと鮮やかな紫色が一瞬だけ脳裏をよぎり、視界に透けて現れたように見えた。

 脚が震えだす。目がこれ以上ないほど見開かれ、口から乾いた息が苦し気に吐き出される。そのまま崩れるようにうずくまった。

 ――ああ、そうか。

 心の中で、ぽとりと雫のようにこぼす。

 ここには、かつて人形が飾ってあったのだ。

 地下の物置に閉じ込められていた幼い頃。乳母メアリが用事を託され目を離した隙に脱走した。取っ手に手が届かないため施錠はされていなかった。地下室に転がっていた屋根裏を開ける棒を持ち、先をひっかけてこじ開けた。

 母親の姿を求めて飛び出す。階段をよじ登り、開けた廊下に出て、ママ、と呼びながら歩き出した。そして、廊下の飾り台にちょんと乗っていた、一体の人形に目を奪われたのだ。

 当時、母は紫色のドレスを着ていた。その人形も母と同じ色のドレスを纏い、金色の髪をしていた。息を呑み、思わず吸い込まれるように手を伸ばす。

 突如、荒立てた叫び声と共に突き飛ばされ、視界から人形が消えた。景色が横倒れになり頭と肩に衝撃が走る。痛い、と感じて目を上げると、憤怒の形相で仁王立ちした母の姿があった。

 そう、幼い頃に母の顔を真正面から見ていたのだ。ただ、あまりの衝撃と悲しみから、脳が記憶を和らげていたのだろう。

 リリーはうずくまったまま、喉に手をやって吐き出しそうになるのを堪えた。とにかくここから離れたい。だが意に反して身体が動かない。まるで当時に逆行したように、激しい衝撃と悲しみが胸を貫き、頭の中が真っ白になっていく。

「ママ……ママ」

 うわごとのように繰り返す言葉が、がらんとした廊下に静かに響いていた。

 そうだ、あの時、慌ててメアリが飛んできて、必死になって庇ってくれた。こんな風に、目の前で立ちふさがってくれて――

 見上げるほど大きな影がリリーの目の前を塞いでいた。のろのろと顔を上げる。乳母ではなかった。真っ黒な蜘蛛の、濡れた六つの瞳がまっすぐにこちらを見下ろしている。

「――ああ」

 声を出した途端、涙が堰を切ったようにあふれ出した。

 あなたはどうしていつも、怖いときに、つらいときに、悲しいときに、一番初めに傍に居るのだろう。

「ごめんなさい、どうしよう、止まらないの、涙が」

 嗚咽混じりにしゃくり上げる。きっと酷い泣き顔をしているに違いない。

「ママが、人形を、きっと、触られたくなくて、だから――」

 幼少の心と混濁したまま、縋り付くように泣いた。無様でみっともないと冷静な部分が非難している。だから余計に泣いてしまう。

「ごめんなさい――」

 最後まで言い終わらぬうちに、ふわりと身体が持ち上げられる。体が揺られ、流れるように景色が進む。どこかへ運ばれている、と考えているうちに、気がつけば薄暗い階段を降りていた。

 ――ああ、ここは。

 薄闇の中に続く細い通路。その最奥に、古い木の扉が禍々しく立っている。

 嫌な記憶が一度に甦りそうになって、リリーは蜘蛛の胸部に顔を押しつけた。

 ――ここは、嫌。

 口から漏れそうになった言葉をかろうじて呑み込む。

 彼がどうにかして自分を落ち着かせようとしてくれているのはわかっていた。だから我が儘が口から出てこなかったのだ。

 それでも扉を直視できずに、顔を埋めたまま精一杯に縋りつく。

 扉が開かれる音がする。少し湿っぽいような、ほんのり黴くさいような匂いが鼻をついた。ゆらゆらと身体が運ばれていく。何かふわふわした柔らかいものに身体を横たえられた。

 リリーの記憶の中では、この部屋にはこんなに心地の良いクッションは置かれていなかった。メアリの苦心により、綿を詰められた手作りのマットや、粗末な毛布がかけられていただけだ。

 そっと手をやると、さらさらとした糸の塊に触れた。『塔』にいた頃、自分を寝かせてくれたあのベッドと同じ感触だった。

 おずおずと起き上がって、戸惑い気味に辺りを見回す。薄闇に目が慣れると、壁や床にびっしりと糸が張られているのが見えた。

「あなた……ここに棲んでいるの」

 目をぱちくりとさせて尋ねる。

「どうしてわざわざ、こんな場所に。お母さまに言うわ、そしたら、わたしの隣の空いたお部屋にきっと棲まわせてくださるから」

 お母さま、と口にした途端に、強烈な違和感を覚えた。

 蜘蛛も何かを察したのか、黙りこくったリリーの顔を覗き込む。

 酷く複雑な顔をしていた。様々な思慮を巡らしながら、やがて白い唇をわずかに開き、確かめるようにゆっくりと言葉を並べていった。

「ここは、わたしが閉じ込められていた所なの。『塔』に行く前、もっともっと幼い頃にここにいて、お話していいのは乳母のメアリだけだった」

 ぽつりぽつりと、伏し目がちに語り出す。

「お母さまに拒絶されているのは肌で感じていたわ。でも、会いたくて、隙を見つけてはよく脱走していたの。その度に、悲鳴を上げられたり、怒鳴られたりして……。さっきは、そういうことを思い出したの。なんとなく忘れていたのに、急に甦ってきて、動揺してしまったわ」

 蜘蛛に母親はいるだろうか。虫の生態を知らないので想像がつかないが、自分が愛して求めた存在から拒絶され、罵られる苦しみは、きっと誰にとっても同じくつらいはずだ。

「このお屋敷に帰ることができて、本当に嬉しいの。これは嘘じゃないわ。だけど、もうわからないわ。お母さまは、本当にあのママなのかしら……あんなに、わたしを嫌がって、怖ろしがっていたのに、こんな風に愛されていいのかしら……」

 蜘蛛は、この少女が思いのほか鋭く頭を巡らせていることに意表を突かれていた。清潔で温かい部屋や豪華なドレスに無邪気に喜んでいるとばかり思っていたが、日々を過ごすうちにそこまで感じ取っていたとは。一体何が、彼女にここまでの疑心を抱かせたのだろう。

 ぶつぶつ唱えるように呟くリリーを見下ろしながら、蜘蛛はどうにもしがたい罪悪感で押しつぶされそうになっていた。

 ――ああ、どうかそれ以上考えるのをやめてほしい。あなたは何も考えないで、ただ目の前の幸福に全てを預けていればいいんだ。

 声に出せるなら、魔力の糸で伝えられるなら、きっとその口を塞いでこう言い聞かせている。蜘蛛の体液の治癒が心にまで及ぶなら、全ての傷が塞がるまで永遠に飲ませ続けるのに。

 心底、歯痒くてたまらない。

 リリーは思い出したように顔を上げた。蜘蛛の六つの瞳に作り物のような白い顔が映り込む。

「あの……本、知らない? 黒い表紙の、結構古いものなのだけど……」

 蜘蛛は脚をごそごそと動かして、そっとリリーの前に差し出した。廊下でうずくまる彼女の足元に転がっていたので拾っておいたのだ。

「ああ、ありがとう」

 泣きはらした顔に笑みを浮かべる。

 その本は、夜中に書斎でリリーが読み耽っていたものだった。彼女の白い指先が目の前でページをぱらぱらとめくる。そのどれにもびっしりと赤い文字が書かれていた。

「これを書いたの、たぶん魔女だと思うの。みんなが、神と呼んでいる……。その人の体験したことが、たくさん書いてあるわ」

 蜘蛛の目には、残念ながらただの模様にしか見えない。

「わたし、まだ文字をきちんとお勉強していないから、他のものは読めないの。なぜかこれだけわかるのよ。それにね、メアリやお母さまが近づくと、あっという間にどこかへ消えてしまうのよ。膝に乗せていても、目の前に置いていても。それで、あの部屋に戻ったら、引き出しにあるのよ。何事もなかったように」

 妙だ。蜘蛛は首を傾げたくなった。

 魔女が生前に書いたものなら、何かしらの魔力が込められていても不思議はない。しかし、鴉などが近づいては消えて、自分の前ではそのままになっているのはどういうことなのだろうか。

「変よね。あなたの前だと消えないのに。そうだわ、書いてあったことを教えてあげる。聞いてもらいたいの。それで、よければ続きも一緒に読んでほしい……わたしが、声に出すから」

 蜘蛛はそろそろと移動し、リリーを抱き包むように背後に回った。

 彼女の白い唇から語られる、残酷で悲しい物語に、静かに聴毛をそばだてる。

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