第十二話 躊躇い

 小さな蜘蛛の背後でどさどさと音がする。かつて黒蜘蛛がそうしてくれていたように、獲物が塔に落とされたのだ。続いて別の巨大な金の蜘蛛が姿を現し、獲物たちを引きずってやってきた。

 三匹の蜘蛛が対面する。よく見ると鋏角や触肢が小刻みに動いている。人間にはわからない意思のやりとりが行われているのだろうか。

 黒蜘蛛が少女の身体から離れた。温かな体温が離れたせいか急速に肌寒さを感じてしまう。

 黒蜘蛛は、やってきた蜘蛛から獲物を受け取り、少女の目の前に放り出した。傷つき動かないそれらが皆、金色に光っているのを見て、少女はあっと声を上げた。

 特別な獣たちは他にも存在していた。蜘蛛や蛇だけではなかったのだ。驚く少女の目の前で黒蜘蛛は火を点す。皮を剥がれ、ねずみが、蛙が、小鳥が炙られていく。

 否が応でも腹が音を立てた。そういえばしばらく何も口にしていないのだ。自然と唾液が湧き上がり、何度もごくりと呑み込む。

 差し出されるまま、手を伸ばす。小さな鳥の肉塊にかぶりついた。香ばしい香りが鼻腔を伝う。金色の見た目をしていても、味に変哲はない。美味しい、と感じた途端、ごほごほと咳き込んだ。

 水を、と思わず手を伸ばす。その腕がぐいと引かれる。六つ並んだ黒い瞳が眼前に迫っていた。ぎらりとした牙が見える。口元が近づく。

 二匹の蜘蛛の目の前で、少女の小さな口に唾液が垂らし入れられる。二匹は呆気にとられていた。何をしているのか、と問う。黒蜘蛛が少女の身体を離す。

 ――この子の身体は、長い栄養失調で内臓が傷んでいる。

 黒蜘蛛は振り返りもせずに答えた。

 だからこうして、食事のたびに癒してきたのだ。

 少女は座り込んだまま放心していた。そっと口元を押さえる。心臓が早鐘のように打ち鳴らされていた。

 夜、まどろみの中で何度も思い描いていた、食べられる瞬間の映像と重なったのだ。一瞬、期待に胸が膨らんだのに違いない。いつも通りの水分補給だと理解した途端、心のどこかで落胆していた。

 高鳴る胸をなんとか抑えながら、少女は再び肉にかじりつく。

 一通り食べ終えると、三匹の蜘蛛たちをじっくりと観察した。彼らはまだ互いに触肢を動かしている。何を話しているのだろう。この人間の獲物をどう取り分けるか相談しているのだろうか。

 胸の奥がちくりと痛んだ。黒蜘蛛に食べられるつもりでいたのに、他の蜘蛛に取り分けられるのは嫌だった。

 不安で顔を曇らせる少女に、小さな金の蜘蛛が向き直った。

 ――私の言葉がわかるか。

 少女の目がまん丸に見開かれる。紛れもない他者の意思が頭の中に伝わってくるのだ。そしてこの場合の他者とは間違いなく目の前の蜘蛛だった。

 少女はおそるおそるうなずいた。結構、と小さな蜘蛛は鋏角を鳴らす。

 ――金の生き物には、我々が持つものと同じ魔力が宿っている。それを摂取した貴女は、今後我々と意思の疎通が自由に図れるようになるだろう。

 言っている意味がわからない。少女は目を忙しく瞬いた。そうするより反応のしようがなかったのだ。

 ――我々は、貴女を食べたり、傷つけるつもりはない。

「え!?」

 喉から素っ頓狂な声が飛び出した。

 蜘蛛は戸惑った様子を見せたが、気を取り直して再び語りかけてきた。

 ――我々は、貴女に全てを知っていいただくために来た。

 小さな蜘蛛は細い糸を吐き出した。金色に輝く糸が這い、床についた少女の手の指先に絡みつく。

蜘蛛の意思が言葉の塊となって、次々に少女の脳内に押し寄せてくる――。


 人間に騙され『塔』に幽閉された魔女。彼女が森の虫や獣たちに与えた力。蜘蛛たちは魔女を神と崇めた。

 彼らは魔女に木の実や野の獣の肉を与えようとしたが、彼女の身体は受け付けなかった。栄養を摂取して自らの血肉に変えるには、衰弱が進みすぎていたのだ。

 魔女は死に際に蜘蛛と鴉を呼び寄せた。

「私は奴らに呪いをかけた。捕らえられる前に、私の魂の一部を込めた人形を放しておいたのだ。人形は領主の息子を誘惑して妻となり、やがて子を孕むだろう。その次も、その次も、私の血は奴らの中に永遠に生き続ける。そしていつの日か、私の生まれ変わりとも言える、完全なる魔女が生まれる。その時になったら、計画を実行するのだ」

 計画が実行に移されるまで、それぞれの一族には秘匿を命じられた。

 鴉には擬態の力を使って屋敷に潜入し、魔女が生まれるまで監視する役目が与えられた。この役目は鴉の長が代々担うものだった。

 いくつもの年月が過ぎた、とある春。その代の長である鴉はメアリという女が乳母として雇われたことを知った。メアリを殺して成り代わり、屋敷に潜入して子が生まれる瞬間を見届けた。

 生まれた子はこの世のものとは思えないほど美しい白亜の姿をしていた。祖母や母から代々教えられてきた通りの神の姿そのものである。鴉は言い伝えられていた計画の段階を進めた。

 魔女の見た目をしている子は必ず忌み嫌われる。しかし呪いを恐れ、直接手を下すことはしないはずだ。初代領主に倣って『塔』に閉じ込めるだろう。

 鴉は『塔』に通い、生まれた魔女の子が息絶えないよう、ある程度成長するまでは食事をやり、この世の知識を与え続けた。そうして少女と呼べるまで成長したとき、庇護から離すのだ。

 鴉の庇護下から離れれば様々な害虫や獣に狙われる恐れがあるが、万一襲われて食い殺されたとしたらその者はそれまでの器だったと見なす。

逆に、近づく獣たちを懐柔し生き残ることができた場合、本物の完全なる魔女と見なし、そこからは蜘蛛が役目を交代する。

 蜘蛛はその魔女に全てを話して理解させる。新しい魔女の肉体そのものは人間であるため、鉱石の力は及ばないはずである。魔女と蜘蛛と鴉が協力して立ち上がり、森から抜け出して屋敷の人間を滅ぼすのだ。

「私の代わりに、必ず屋敷を取り戻して欲しい」

 神の願いを叶えるために、各々は役割を担っていた。長い年月をかけてようやく生まれた、小さな白い魔女を育てるために――。


 少女の頭の中で、全ての言葉がぐるぐると明滅する。聞いたことも無いような壮大な計画。自分の存在が魔女、いや、蜘蛛たちの崇める神だったなんて。そんなことがあるだろうか。嫌われて、蔑まれて、こんな場所に閉じ込められた無力な人間が。 

 少女は顔を上げた。小さな蜘蛛が触肢を動かす。

 ――全て、理解していただけただろうか。

 流れ込んでくる蜘蛛の意思に、少女はゆっくりと首を横に振った。

「……まだ納得がいかないわ。屋敷を奪うだなんて……到底、できると思えない」

 口にしてから、少女は思わず自身の口を押さえた。

 驚くほどすらすらと言葉が紡がれる。これまでは声を出すのもやっとだったのに。戸惑う少女に蜘蛛が語りかける。

 ――貴女は、幼き頃に鴉の庇護下で十分な知識を得ている。私の言葉の塊を呑み込んだことで刺激されたのだろう。そして、貴女にはこの計画を実行するだけの力がある。貴女は紛れもなく神。その力で蜘蛛の糸を破ったのをこの目で見たのだから。

 たくさんの蜘蛛に囲まれ、糸で縛り上げられた光景が脳裏に甦る。痛みと恐怖と、黒蜘蛛が傷つけられていく瞬間の深い絶望。必死で抗おうとした時、信じられない力が湧き出て糸を破ってみせた。

「確かにあの時、あんなことができたけれど……。でも、屋敷を奪うということは……」

 今は遠くに刻まれた赤子の記憶。いつか振り向いてもらえると信じて、ただ彼女を、母親を求め続けた。しかし今では顔すら思い出せない。ただ金色の髪を持つ背中だけがおぼろげに浮かぶのみ。

 少女の顔は苦しげに歪んでいた。

 空気がしんと静まりかえった。元から声を発しているのは自分だけだが、妙な重苦しさが漂うのがありありと感じられる。

  ――何か、不満があるのか。

 小さな蜘蛛の問いに少女はうつむく。

「……不満、というか……」

 生まれながらに忌み嫌われて、閉じ込められて、飢え死にさせられそうになったというのに。自分でも不思議に思うのだが、自らを産んだ女性を憎むのは許される事ではない気がした。

 少女の意思を察したのか、小さな蜘蛛は押し黙ってしまった。

 静まりかえった塔内に、ぱさりと微かな羽音がして、素早い影が入り口から侵入した。

 それは『塔』の底に降り立つと、金色の羽根を震わせ、カァと鳴いた。

「あ、あなたは」

 鴉はもう一度鳴き声を上げて羽ばたいた。まばゆい光が放たれ、少女は思わず目を細める。光が収まったとき、そこには美しい女性が立っていた。

「お嬢様」

 色白の肌に黒い髪。目尻の少し垂れた優しい金色の眼。懐かしい乳母の姿がそこにあった。

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