35話裏 扇奈/幸福な報せを、
余りにも同情し過ぎた。それが全てだと、扇奈はそう、自分を嗤う。
……同情したのだ。
妹と弟に、知らず重ねてしまった二人に。
弟と同じように、片割れの後を追おうとする青年に。
……悲しみが深すぎて、涙を流す事ができていなかった男に。
未だ、この期に及んで、扇奈はこれがどの感情なのか、自分で理解しきれない。
親愛かもしれない。弟に向けるような。
恋愛かもしれない。憐れな男に向けるような。
あるいは師弟のような?教師が教え子に向けるような?
あるいは戦友として?危なっかしい部下を危ぶむような?
どれ、とも、扇奈は自身で言い切れなかった。
どれでない、とも、扇奈は自身で言い切れない。
弟の代わりに泣いたのか、男の代わりに泣いたのか。
桜が生きていると、そう伝える口が重かったのは、そのどれであっても愛着である事に違いがないからだ。
嫉妬かもしれない。寂寥かもしれない。
……立ち去られるのが寂しいと思った。
だから、後回しにしてしまった。
情を移した相手との離別を避けたがったのだ。
けれど、その結果、もっと……それこそ致命的な離別を呼び込みかけてしまった。
戦場ですべき判断を怠った結果。判断すべき立場にいながらそれを放棄した結果。
単独行動を許してしまった。許すべきではないと、誰がどう考えても分かると言うのに。
錆を落とせ。
そう言われても、錆びているとは思わなかった。
嬉しそうじゃないと、その指摘の方が耳に痛く、だから
自身が錆びていると自覚したのは、
だから………。
*
医局の戸が開く。廊下で腕を組み、壁に背を預けていた扇奈の前に現れたのは、白衣のオニ――季蓮。
扇奈よりも年上のオニの女は、後ろ手でそっと病室の戸を閉め、それから扇奈に視線を向ける。
「……起きたわ」
「そうか、」
そう応え、扇奈は背を壁から離した。その時の扇奈の表情が、あるいはあまりに思いつめたようなものだったからか………どこかからかうような雰囲気で、季蓮は言った。
「もう少し、正直に生きたら?」
「……これから、そうしようと思ったとこさ」
「自分に正直に、よ?」
「………どっちにしろ、やることは変わんないね」
扇奈は軽く笑顔を浮かべて見せた。無理やりの、とりなす笑顔……深く自嘲が混じった表情。
季蓮はその顔を眺め……また、あえてだろう軽口を投げる。
「愚痴ぐらいなら聞くけど?」
「………生憎、まだからかわれたい気分じゃない」
言い放った扇奈を前に、季蓮は肩を竦め、歩み去って行った。
残された扇奈は、季蓮の姿が廊下の向こうに消えてから、病室の戸、鋼也がいるその場所の扉に視線を向けた。
諦観が混じったような、観念した、とでも言いたげな、そんな視線を。
*
その病室。陽光に包まれるそこにいたのは、くたびれきった男。諦観に沈みこんだ青年。怪我をした、兵士。
扇奈が病室に踏み込むなり、鋼也の視線が扇奈を捕えた。
隻眼、片目は赤黒く、光を失っている、包帯を巻いた男。
なんとなく、扇奈はこんな光景を、前にも見たような気がした。
まったく同じはずはないが、似たような状況があった。傷を負った鋼也。その目ざめを待っていた事が。
ベッドの横に椅子がある。そこに座りこんでいた、待ちくたびれて寄りかかって眠っていた少女が、身を起こした。……そんな気がした。
……もしかしたら、その子に少し威嚇されたかもしれない。そんな気までしてしまって、扇奈は、鋼也にも、その椅子にも、近づかない事にした。
扇奈は病室の壁に背を預け、腕を組み、鋼也に視線を向ける。
鋼也もまた、扇奈を見ている。
憐れな男。
弟のようにも思える青年。
用件は、決まっている。何を伝えるかはもう決まっている。
だと言うのに、扇奈は言葉を探していた。
元気そうだな、と声を投げるか。
気分はどうだい?と、わかりきった言葉でも投げてみようか?
色々と、言おうかを考え………けれど結局、扇奈はそう言うまどろっこしいのは全部止めにする事にした。遠回りはもう十分だろう。やたら前口上を厚くすると……扇奈はまた逃げる気がする。
だから、端的に、事務的に。
「鋼也。話がある」
扇奈がそう口を開いた途端、鋼也は目を逸らし、ふてくされた様に言った。
「………お前も、無茶はやめろって言うのか?俺は……」
その鋼也の様子に、あるいは扇奈は、ふと笑みを漏らしたかもしれない。
甘えられている、そんな風に思ったのだ。手の掛かるガキだ、とも、思ったのかもしれない。
けれど、甘えられようと、遠回りする気にはならず、扇奈は僅かとがめるような口調で、ぶうぶう文句を垂れるガキを嗜める。
「聞け、鋼也」
「…………」
鋼也は口を閉ざし、また、扇奈に視線を向けた。
若い若い……そんなことを思う。いつもいつも、鋼也は、こういう時は素直だ。半端な、それこそ途上にいる奴なんだろう。だから放っておけず、気付くと情を移しすぎていた。
そんな感慨を飲み込むように、扇奈はまた、務めて端的に、……伝えるべき事実を告げた。
「……桜が生きてる」
「…………」
鋼也は、何も言わなかった。
言われた言葉を理解できない、そんな感じだ。呆気にとられる、というか、予想外の言葉を聞いた、そんな風情でゆっくりと、扇奈の言葉を飲み込み………直後、鋼也の目に宿ったのは、恨みに近いような暗さだ。
ありえない、と思ったのだろう。
桜が生きているわけがない………と言うよりも、自身に幸福が訪れるわけがない、と、そう怯えきっている。
そんな鋼也を前に、扇奈は、僅か、なだめすかすような気分で、淡々と、ゆっくりと、事実を告げていく。
「あの夜、あんたが見た桜。いや、あんたが桜だと思った、桜の服を着てたあれ。回収して調べたんだと。それで、ほら、最初に検査とかしたろ?あんたらが来てすぐの時さ。その時に取った検査結果と、あれの検査結果が合わなかったらしい。別人だってさ」
淡々と、話すごとに、鋼也は目を伏せ、思考に沈んでいく。
扇奈の言葉を、疑っているようだ。疑いつつも、信じようと、信じられるように、情報を精査しているのだろう。
どう生きたらここまで、無邪気に生きられなくなるのか。あるいは、無邪気な側面を、扇奈が見ていないだけなのか………。
ベッド横の、空の椅子。知らずそこを見てしまった扇奈は、そんな自分を誤魔化すような気分で、椅子から視線をはがし、………幸福に怯え疑う青年へと視線を戻し、淡々と、言葉をついで行く。
「桜は今帝国にいる。そっちは、噂みたいなもんらしいけど、第6皇女が活動してるってさ。わかるだろ?爺は革命軍ここまで呼びつけたんだ。帝国の情報はこっちにも流れてきてる。かなり、精度高くな」
鋼也は、もう、完全に目を伏せていた。ヒトの方の眼に、感情が過ぎっている。
ただ、そこにあるのは怯えばかりだ。
失くす事が多すぎたのだろう。失う事に慣れすぎて、予防線を張り続けている。けれど、その上で、鋼也は扇奈の言葉を信じたい、と……信じようとしている。
扇奈は、鋼也が飲み込むまで待っていた。
あるいは、これ以上言葉を継ぎたくない、そんな気分も、扇奈の中に混じっていたのかもしれない。
やがて、鋼也は、……帰り道が自分でわかっていない青年は、覗うような視線を扇奈に向ける。
「……生きてる、のか?」
扇奈は頷く。それから、笑いかけて、突き放してやる事にした。
「ああ。……あんたは、ここにいて良いのかい?」
鋼也はまた思考に沈む。扇奈の心情まで計るような、そんな余裕は一切ないのだろう。
扇奈は、黙って鋼也を眺め……同時に、何の気はなしに今言った言葉に、思いのほか影が混じっているという事を思って……漸く、自身の本音を知った気がした。
親愛だ。恋愛だ。教え子への愛だ。そして、戦友への愛でもあるかもしれない。
全てだ。全て入り混じった情愛。そんな種別すらも、あるいはどうでも良いことだった。
楽しかったのだろう。
危ぶみ、案じ、からかいごまかし、道を示し臆し………全部扇奈にとっては案外、楽しかったのだ。
だから、……だから口が重かった。それで鋼也が楽になる、そんな幸福な報せだったとしても。
お姉ちゃんは、寂しいのだ。別れが。愛を裂いた相手に、手元から離れられるのが。………全部、それだけの話だった。
諦めたのか、呆れたのか………小さく、安堵と寂寥の混じった吐息を扇奈が漏らした事に、鋼也は気付かなかっただろう。
鋼也は、おそらく自分で気付いてはいない。
その目から、涙が流れ始めている事に。
鋼也の頭の中には、きっと疑いがあるのだろう。あるいは、怯えか。
本当に、そんな、あまりに
だが、同時に………素直な青年は確かに、信じようとしている。
「……あんたは、嬉しい時に泣くんだね」
その扇奈の言葉は、あるいは、とがめるような気分だったのかもしれない。自分でどれかわからなくなるほどに、情を移しすぎたのだから、それはもう仕方ない。嫉妬もするさ。
同時に、これでよかったと、扇奈は心の底から思った。
今扇奈が伝えたのは、このクソガキにとって、本当に幸福な報せだったのだろうと、そう思えた。なら、それで良いと、心の底から扇奈は思った。
指摘されて初めて、鋼也は自身の顔に触れ、……自分が泣いている事に気付いたらしい。
不器用な奴だ、と扇奈は笑う。
寄り添ってやるわけには行かない。その涙は扇奈にはくれてやることの出来なかったものだ。手を差し伸べたら、それは扇奈の
そんな事を考えながら、扇奈は声を投げる。
「詳しい事は、冷血爺に聞きな。あっちはあっちで聞きたいことあるだろうし」
聞いているのかいないのか、鋼也は片手で顔を覆ったまま、返事をしない。
その姿を、安堵と寂寥の混じった視線で眺めて、扇奈は壁から背を離し、病室を後にする。
役目を終えた、そんな気分で、錆が落ちたのかは知らないが、枷は外れたような気分で。
この、傷つきすぎた青年に言ってやるべき言葉を、姉として師として戦友として、あるいは横恋慕の囁きとして、扇奈は投げた。
「……鋼也。あんたはもう、戦わなくて良い」
それから、扇奈は病室の戸に触れ、鋼也の方へと振向かないままに、鋼也には聞こえない声で、静かに、呟いた。
「……じゃあな。クソガキ」
*
これは親愛なのか。
これは恋愛なのか。
どちらであっても、どんな言葉であっても、正しくない。
情を移した。ただそれだけ。
手元を離れられると寂しい。ただ、それだけ。
そして、手元から、身近から放してやる事が幸福に繋がるのなら、………見送ってやるのが、優しさだろう。
扇奈は、憂鬱で晴れやかな気分で、嗚咽の漏れ聞こえる病室に、背を向けた。
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