第226話 とあるダンジョンへ



「ここに来て? うーん、三週間も経っていないと思うな」


 倒木を跨ぎながら、ラモが顔だけを向けてローザに返事をした。


 ローザも外套の裾が草露に濡れぬよう持ち上げながら、その倒木を跨ぐ。

 白い素脚が、太ももの下までそっと覗かせた。


 二人は「危険地区開拓の護衛」という任務を受け、一般兵や雇われた労働者とともにアッサム地区の森にやってきている。


 そうは言っても魔物はおらず、二人は警戒以上のことをする必要がなかったのだが。


 なお、ローザがきてから今日で三日が過ぎている。

 王宮での暮らしを始めるにあたって、煩雑な手続きが山ほどあり、二人が行動をともにしたのは今日が初めてであった。


「え、まだ三週間?」


「うん。嘘じゃないよ」


 ふぅん、とローザが頷いた。


 たったそれだけの日数なのだ、と知る。

 なのに、王宮内ではすでにラモが王女と親密で、婿入りするものだとまことしやかに囁かれている。


 つまり、民がそうなることを望んでいるということなのだろう。


「それよりローザさん、随分腕が立つんじゃない?」


 山菜を見つけては屈んで摘んでいるラモが、また顔だけをローザに向けて言った。


「そうかしら」


「うん。立ち振る舞いでなんとなく」


「ありがとう」


 ローザは礼を言いながら、笑顔でまっすぐ見つめてくるラモを見つめ返すことができず、視線を近くの木に逃した。


(サクヤくん……)


 やはり、自分のことを忘れているというのが、ローザにとっては衝撃だった。

 自分なら、記憶を失おうとこの人のことだけは忘れないという自信があるからかもしれない。


「どうかした?」


 ラモがローザのしっとりした視線に気づいて訊ねた。


「ううん」


 ローザは首を横にふる。


「ところでこの森の魔物全部、ラモくんが倒したって聞いたけれど、本当?」


 考えていたことを見透かされるのが嫌で、ローザは答えのわかりきった質問を投げかけた。


「うん、希少だって知らなくて、ついやっちゃってさ」


 いやー、その節は、とラモは苦笑いしながら頭を掻いた。


「ラモくん、とっても強いのね」


「記憶がないからいまいち喜べないんだけどね」


 そんなラモを見ながら、ローザは小さくだが、やっと笑うことができた。


 自分を忘れていることなど、些細なことだ。

 彼が生きていてくれたことだけで十分なのだ。


 それに彼はすべてを忘れたわけではない。

 あの圧倒的な強さは失われていない。


 それは彼にとって、なによりもかけがえのないこと。


「それより、話戻すようだけどさ、ローザさんって戦いにも慣れていそうだし、今度ダンジョンに一緒に入ってくれないかな」


 そんなことを考えていると、ラモからお誘いを受けていた。


「え?」


「そこね、たぶん古代王国期に掘られた地下研究施設だと思うんだよね」


 ここから東に行ったヒルトンの森にひとつダンジョンを見つけてあるんだ、とラモは付け加えた。


 この国にそういった貴重な遺跡が手つかずで眠っているという話は、ローザもここに来る道中で何度も耳にしている。


 なお、この国の古代文明は歴史上最大、かつ最高とされる『シーヴァス古代文明』である。


「ほかのダンジョンは見つけ次第足を踏み入れたんだけど、そこは普通と違って入り口がちょっと特殊でさ」


「特殊?」


 ローザが長いまつ毛を揺らして瞬きをする。


「うん。男女の手を石板に載せないと入り口が開かないらしいんだ」


 ラモがローザに笑いかけながら、言う。


「………」


 そんな笑顔に、ローザは吸い込まれた。

 ダンジョンの話に気を取られて、つい、油断してしまっていたのだ。


 それは何も変わらない、ずっとずっと、心の中で描いていた笑顔だった。


「………!」


 次の瞬間、ローザは、うっ、と小さく唸り、右手を押さえた。

 つきん、と人差し指が痛んだのである。


 ローザは、はっとさせられる。


 そう、【嫉妬の指輪】に感知されているのである。


(うそ、たったこれだけで……?)


 ローザは身体ごと横を向くようにして、ラモから視線を逸らした。

 まさか笑みを見ただけで、自分の中に独占欲が生まれるとは思いもしなかった。


「……ローザさん?」


 違和感を感じ取ったのだろう。

 笑んでいたラモが、急に真剣な声を発していた。


「な、なんでもないの」


 トチャの言葉が脳裏に蘇る。



 ――自分は独占欲とは無縁、という顔をしておるな。じゃが恋とはそういうものじゃ――。



 認めざるを得なかった。

 ともに行動して初日だと言うのに、あの老婆が期待していた通りに事が進み始めていることに。


「本当に?」


「そ、それより短剣を早くなんとかしたいわ」


 ローザはラモから半歩離れて、小さな作り笑いを浮かべ、とりなす。

 心の中では、占拠していた感情を必死に凍りつかせながら。


「ありがとう。さっきやったし、後はたまに掴めるかやるくらいでいいよ。そんなに気にしなくていい。もし抜けなくても、案外3年とか生きちゃうかもしれないしさ」


 ラモは本当に気にしていないかのように、笑ってみせた。




 ◆◆◆




「お二人でダンジョン探索にいくそうです」


 侍女の一人が、ヘルデンとルイーダに告げる。


「他に連れは?」


「なしです。二人っきりで」


「ふむ……厄介だな。ダンジョン探索には『揺れ橋効果』がある」


 ヘルデンがいつものように顎を擦る。


『揺れ橋効果』とは古来からの言い伝えで、揺れる橋の上のような不安や恐怖を強く感じる場所に居合わせた異性に対し、恋愛感情を抱きやすくなるという現象を指している。


「姫様はご存知で?」


 そんなヘルデンに寄り添うように立っているルイーダが、声をかけた。


「もちろんだ。だが全く気にかけていないふりをされている」


 ラモは国の財政を健全化してくれるまたとない存在でありながら、フローレンスのセントイーリカ市国への側室行きを身を挺して止めると約束してくれた心強い存在でもある。


 側室行きが決まったのち、毎朝のようにフローレンスが目を腫らしていたことをヘルデンは知っているだけに、フローレンスが嫉妬を感じぬはずがないと考えていた。

 ましてやフローレンスは目が見えないという、他にはない不自由を抱えている。


 ローザのようにともに行動することなど、したくてもできないだけに、嫉妬も相当のはずであった。


「ラモ様なら危険はないでしょうが……せめてどなたかもうひとり、ご同行を」


「ヒョヒョ。構わぬ構わぬ。行かせてやるのじゃ」


 その時、杖をついたトチャが反対の手をひらひらさせながら、近寄ってきた。


「バアバ」


「お主は相変わらず脳みそが足りん」


 トチャが顔をクシャクシャにしながら、笑った。

 どこかで二人の話をすべて聞いていたようであった。


「黙ってみておれ。そなたたちはのちに知るじゃろうて。偉大な占星術師が悪魔を虫に変え、この国を救ったことを」


 ヒョヒョヒョ……! と、トチャはいつもと違う笑い方をした。




 ◆◆◆




 隆々とした根が張り巡らされた大樹の根元に、よく見ないと見落とすほどの、人一人がぎりぎり抜けられる大きさの穴があった。


 そこをくぐると、人が立てるほどの大きさの、大地を斜めにくり抜いたような急傾斜の通路に繋がる。


 その通路を何度も折れ曲がり、二人は進んでいく。

 足元は濡れた苔が繁茂し、じっとりとした緑の香りが充満している。


 さらに進んでいくと、周囲の壁が急に磨き抜かれた大理石に変わった。

 足元には階段。


 壁の高い位置には魔法の炎が灯され、通路が間接光で暖色に照らされている。


 カツン、カツン、と石段を降りる音がそんな通路に響く。

 二人がその階段を降りることしばし、やがて大きな広間に到達した。


 そこは飛竜ワイバーンを置いても届かぬほどに天井が高かった。

 正面の壁には、巨大な壁画が彫られている。


「見事な絵だよね」


「うん……」


 二人はしばし、その壁画に目を奪われた。

 壁画には男女が情熱的に抱き合った絵が描かれている。


「古代語かしら。上に何か書いてあるわ」


 ローザが壁画の上に書かれた文字の羅列を指さした。


 上位古代語ハイ・エンシェント下位古代語ロー・エンシェントとも違う言語。


『古代西方語』と呼ばれる、いわゆる訛りから変化していった地方言語であった。

 それゆえ、古代語にほとんど知識のない二人は読むことができない。


「ともかく、ここが入り口らしいんだ」


 銀色の観音開きの扉の前に、純度の高い黒水晶で作られた2つの台座があった。

 台座の上は手の形に掘られており、右の台座には右手が、左の台座には左手の形に合うように彫られている。


 だが一人で両手を置くには、台座同士は離れすぎている。


「たぶん、この壁画的に男女の手を置かなきゃいけないのかなと思って。……試していい?」


「うん」


 ラモが右側の台座に手を置く。

 同時にローザが左側の台座に手を置くと、すぐにキン、という澄んだ音が室内に響き渡った。


 ”長きに渡り、待ちわびたぞ、ふさわしき者たち。さあこの門をくぐり、我が神殿で試練を受けよ。さすればそなたらは、我らの授ける『至高の宝物』を手にすることができよう”


 男性とも女性ともとれない、重々しい声がそう告げた。


「ふさわしき者たち?」


「確かにそういったわ」


「条件を満たしたってことか。やっぱり男女じゃなきゃだめだったんだ」


「うん」


 二人は知らないが、実はこのダンジョンにはこの千年以上の間に4826もの男女が訪れている。

 通過の許可が降りたのは、これが初めてである。


「でも神殿なんだ……想像していたのとちょっと違うな」


 ラモが腕を組む。


「やめておいた方がいいかしら?」


「うーん」


 ラモが眉を寄せるようにして思案する。

 記憶を失おうと、何も変わっていないその様子に、ローザはつい、くすっと笑う。


「いや、『至高の宝物』なんて言われたら、取らずに帰れないよ」


「ラモくん、でも本当にこんなことしていていいの? 短剣の痛みは今も……」


 ローザが不安げに訊ねる。


 当然といえよう。

 ローザはそのために神の導きを受け、ここにやってきたのだから。


 短剣を掴むために努力すべきことがあるなら、ローザはダンジョン探索よりもそれを真っ先にしたかった。


「気にしないでいいよ。案外さ、こういうダンジョンで二人で頑張ってるうちに、抜ける手がかりが掴めるかもしれないよ?」


 そんなラモの言葉は、どこかしら真実を帯びているようにも聞こえた。

 たしかに普通に行動を共にするだけでは、わからないことはあるかもしれない。


「……そうね。わかったわ。少し忘れることにする」


「よし、じゃあ行こう」


 二人は開かれた扉をくぐり、奥へと進んだ。


 さて、二人が読めなかった壁画の中にある『古代西方語』の文章。

 それを現代の言葉に訳すとこうなる。


 ――『ようこそ、忘れられた恋人たちの神殿へ』と。




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