第三十六話 風雲急を告げる
第七編 北条時頼
第七話
「弘安の役は文永の役の焼き直しと捉える人間も少なくはないが、俺は決してそうは思わない。決定的な違いとして、対馬や壱岐諸島など戦闘海域に含まれうる島々からの完全な撤退と本土における戦略資源の集積が行われた点が挙げられる」
これが意味することは、戦力の結集と水際作戦の徹底。後高麗に深く入り込ませた間諜から次の侵攻計画を具体的に察知した近衛軍は、補給線を引き伸ばしてから寸断するために戦略的縦深を利用する手法を採用することとしたわけだ。作戦の概要は大まかに、索敵手段に乏しい外洋よりも勝手知ったる沿岸部に艦隊を派遣し交戦、機動によって包囲した所を陸に展開した弓隊や火薬兵器部隊と共同して挟撃を行うというものになる。文永の役の際に鹵獲した船の性能が自軍のそれに劣ることが確認されていたことから考案された戦法だな。なお想定戦場が沿海であるが故に活用され、軍記物等で頻繁に登場し「海の早駆け」などと持て囃されていた哨戒用高速艇である狼煙舟は文字通りの機能しか有していなかったと見るべきだろう。当時の記録には小型武装艇の記述は無いし、海底調査から対艦武装を載せるには小さすぎることが分かっているからな。乗員が弓や銃を装備していたことが拡大解釈されたと見るのが妥当だろう」
また、方針が確定した際に沖縄の扱いが問題となった。当時既に定期便が運行される程度には周辺海域の特性を把握していた日本側は、寧波から江南軍が出撃するという情報を掴んだ際にここへの侵攻も懸念したと記録されている。とりわけ近衛軍ではなく政務議閣側から盛んに提起されていたことを踏まえれば、当時既に栽培が盛んであったサトウキビ、これがもたらす莫大な利益を失いたくないという朝廷貴族の意図が透けて見えるな」
近衛軍はそれを尊重するとした上で、海流や風の関係上到達される可能性は低く、例え辿り着いたとしてもそれは難破による結果であり戦力が発揮されるとは思い難い点、本土防衛こそが最重要事項であり、実際最初に到達するのは高麗半島を経由する東路軍である点を理由に数百名規模の増派が限界であると回答した。大蔵省…とりわけ兵部省から出向している人間がこれを支持したという、農務省の貴族が書き残した怨嗟とも取れる記述を参考にするならば、近衛軍上層部の根回しは手広く行われていたと見るべきだろう。文永の役の成功は、間違いなく朝廷内部における力関係の天秤の傾きを大きなものにしていた」
加えて、時頼は権益防護を主張した人々に対して書簡を送っている。元との戦争はここが正念場であり、これを乗り切れば当面は島々が脅かされる心配がない。そして将来行われる高麗への進軍は、異国故に兵糧のみならず嗜好品の類が必要となる。そのような旨のものだ。当然、ここで言う嗜好品とは砂糖及びそれを原材料とする菓子類のことであり、暗に大口で買い上げるということを仄めかした形になるわけだ」
そうだ。
これらの事象を勘案すれば、あくまでこれから臨む戦いで全てが決まるとは思っていなかったという点では、奇しくも元と日本とでは弘安の役に対する捉え方がほぼ同じであったと言えよう。近現代軍事学風に言うならば、敵の主力を決戦にて撃破の後に残余の戦力を以て機動戦を展開、前線を大きく押し上げる…と表現できるが、弘安の役はここで言う決戦に相当するな。なお先程の戦略的縦深に引き込むという手法と合わせて考えれば、我が国の対露戦のみならず、アメリカ海軍も似たようなことをしているが…まぁ、本筋には関係ないから今は割愛しよう」
惨敗を喫したものの火薬兵器に関しては自身も知見のある元は、銃という
裏を返せばこれは、日本側が長い時間をかけて蓄積した冶金技術が同時代において突出して優れていたことの証明と言えよう。事実同水準の性能の銃が他国で出現するのは、早くともこの一世紀は後だからな。大砲に関してはこの限りではないが、これは我が国のその後の歴史を紐解けば頷ける話だろう。詳しいことは
「ともかく、戦力差だけでいえば元側は明らかに有利であったし、前回のように一方的に嬲られまいと兵装の見直しや将兵間の情報共有もある程度成されていたようであるから、勝つための努力はきちんとしていたと見て良いだろう。問題は、それらが早期に筒抜けになっていたことと…彼らの涙ぐましい対策を無きに等しいものとする、この時代において抗う術など誰も持ちえない秘策を、日本側が
-弘安4年(1281年) 5月22日 世界村大明浦(現大明神浦)-
『嵌められたか』
一日かけた調査の結果、敵影見当たらずとの報告を知らせた伝令とは正反対の苦々しい顔でクドゥンはそう呟く。
かつて高を括って軍勢を分割した結果、残った部隊が散々に打ち破られた忌々しい地への無血上陸を果たしたにも関わらず、東路軍の幕僚達…前回の戦の生き残り達の顔は全く晴れやかではなかった。
『侍共ならばまだしも、村の跡は尽く焼き払われ、農民さえいないというのは…』
何が起きているのかは明白だった。自分たちが出撃するはるか前から情報が漏れていたのだ。さらに腹立たしいことに、その心当たりは皆無であった。
『お言葉ながら、この地までの補給に支障をきたすことが無いと分かったことは朗報だとは思いますが?』
訝しげに上奏する伝令に対し、洪茶丘はかぶりを振った。
『それはな、補給や連絡の道筋が伸びているにも関わらず連中の戦力が温存されていると読み替えるのだ。この調子で他の島々にも手を出し続けてみろ、連中の本拠地を目の前に後ろから襲われたら目も当てられないことになるぞ』
伝令はそれを聞いて顔を引き攣らせる。まぁ、実際に奴らの戦闘を見なければこの感覚は分からないだろう、とクドゥンは苦笑した。
『と言っても、江南軍と落ち合うために壱岐島までは行かねばなるまい。恐らく似たような事態が続くだろうが…我らも近づけば近づくほど敵の情報を得やすくなる。ややもすれば、兵法においてさらに何かしらの打つ手を見つけられることもあるだろう。ここにいても得られるものは無いならば、仮に危険でも進むべきだ』
近衛軍の力量と恐ろしさを骨の髄から思い知らされていた彼らからすれば、圧倒的な兵力差を揃えてぶん殴るのが唯一にして最適な方法であるとしか考えられなかった。だからこそ、その兵力の動かし方は非常に慎重なものとなる。確かに、先の戦役に比べれば臆病なほどの采配は決して間違いではない。だが、彼らは知らない。それさえも近衛軍にとっては望ましい行動の一つであることを。
-弘安4年(1281年) 5月23日 博多港-
『そうか、対馬が』
『はい、予定通りではございまするが』
物見からの報告が届いた。大規模艦隊に加えて多数の煙を目視で確認したのだ、間違えようが無かった。スパイ網による敵陣営の詳報に加え、このタイミング。“史実”との乖離はほぼ無いとみて良さそうだろう。
注目すべきは、総兵力に大きな差異が認められないことだ。この歴史では朝鮮半島…今はまだこの名称で呼ばれていないが…における反乱の鎮圧に手こずっているにも関わらず、それだけの兵を引き抜いてきている。さらに東路軍の一翼としておおよそ一万人程度を担うはずの高麗軍はいない、傀儡政権である後高麗から捻出するにしてもそれだけの数は賄えていないという情報がもたらされている。これらが“史実”よりも無理をしている証左であることは明らかだ。文字通り兵を全土からかき集め、橋頭堡の確保に全ツッパしたのだろう。ここで勝てれば元は戦力の即応展開が一時的に不可能になると見て間違いない。文永の役直後の悲観的な高麗早期奪還不可能説が覆ったのはこれが理由だった。
であるならば、こちらが目指すべきは兵力とフネを温存した状態での勝利である。無駄な損耗は許容出来ない、どんな手を使ってでも完封する必要があった。対馬、壱岐島、志賀島をはじめとする元軍が上陸する可能性がある島々の防衛は全て放棄し、戦略的縦深を形成。“史実”のように東路軍単体で大宰府侵攻を図るならば陸海で挟撃すれば良し、江南軍を待つならばさらに嫌がらせで遅滞防御をして台風の直撃を狙う。端から台風を活用するという選択肢を提示できたのは、気象についてある程度データが蓄積されていたからだ。観天望気の域から出るものでは無いにせよ、自然環境を味方にするという手段に理解が得られやすいのは大きい。意識的に作戦への組み込めるならば、その分兵力を思い切って使えるからだ。勿論、バックアップとして散発的な海上ゲリラ攻撃と機動による後方襲撃の合わせ技で強制的に戦力を削り取る作戦があってこその話ではあるが。
『…島々の民には苦労をかけるな』
副官の元経が、曖昧な笑みを浮かべながら返答する。
『残して蒙古共に殺されるよりは温情かと』
正論だった。あえて残して抵抗させ、戦力を少しでも削るという手も無くはなかったが、流石に外道の戦法である。それに村を見れば連中が略奪するのは間違いない。多少の損害…それも戦闘訓練を受けた訳でもない人間の与える微々たる損害と引き換えにわざわざ物資と奴隷を献上する理由はない。加えて政治的にも経済的にも住民を放置出来ない理由があった。前者は中央、すなわち朝廷の意向と政争が関係している。今の朝廷内部では軍の発言力が強すぎるために他の貴族たちとの摩擦が酷くなっているのだ。連中も馬鹿ばかりではないが、予算を重点的に近衛軍に割く体制が長々と続けば流石に不満もたまる。失点があれば難癖をつけられて嫌がらせを受ける可能性は否定出来ない。まぁ、国難でなければ権力の均衡を保つ意味でもある程度目を瞑るんだが…国が割れて負けることだけは避けなければいけなかった。勝つ目は十分あると言っても、余裕がある訳では無いのだ。
そして後者も政治に少々関係していた。官主体の経済成長に限界が見え始めたのである。いくら公共事業でテコ入れすると言っても、西日本限定で数十年近くに渡るものであればひずみは当然蓄積する。鉱山資源の発掘や都を中心とした地域への資本還元、物流の活性化奨励で誤魔化しはしたものの、軍需への投資に偏重していれば不況の影が見えない方がおかしかった。他の省から恨まれるわけである。それに東西の経済格差も馬鹿にならない、仮に東部出身の近衛軍幹部にその動揺が波及するようなことがあれば国家の屋台骨は大きく傾く。なればこそ、先端モデルとして彼ら島民には中部地方以東での土木作業に従事してもらう魂胆であった。元との戦争が終わったら、関東や東北の開発に邁進しなければならない。その参考データとなってもらうつもりだった。
『そうだな…ここを乗り切ればひとまずは安心出来そうなのが救いか』
『御意。近衛軍も光烈衆のお歴々も士気は十分でございまする、必ずや先の戦と比べても遜色ない武功を立ててくれましょう』
『うむ、敵の数も前より遥かに多い。故に油断はならぬが勝てぬ戦でもない。我らが目指すべきは圧勝だな』
口角を釣り上げ、不敵な笑みを返す彼らは非常に頼もしく見えた。
『…む、西の雲行きが怪しゅうございますな』
幕僚からボソリとそんな声が聞こえた。顔を向けるとなるほど、壱岐の方面が真っ黒な雲に覆われている。
〔“史実”通りならば、あの下に東路軍がいるはずですね〕
そういえばそうだった。対馬で暴れた後に壱岐へと向かった彼らは、暴風雨に遭遇して三桁の行方不明者を出しているのだ。
『
聞こえるはずもない雷鳴が、耳の奥で鳴り響いた気がした。
東路軍は対馬がもぬけの殻になっていることに戸惑った。すぐに壱岐へと移動すれば良かったものの、前回見た痛い目を警戒して調査に時間を食い過ぎた結果、不幸にも暴風雨に遭遇して150名弱の行方不明者を出したとされる。本格的な戦闘の前にこの消耗は、さぞ元の将の頭を痛めさせたことだろう」
壱岐島に移った後も東路軍の動きは低調だった。周辺の島々へ船を出して様子を伺うくらいのことはしていたようだが、積極的に打って出ようとする素振りは一切無かったとされる。日本側が挑発や威力偵察に加えて嫌がらせめいた散発的な攻撃さえしていたにも関わらず、愚直に当初の計画通り江南軍を待っていたわけだな」
ところが当の江南軍はというと、壱岐島を目指さずに平戸島へと向かっていた。これは出航前に平戸島の方が停泊に適し、日本の防備が薄いという情報を日本の難破船船員から得ていたからだ。防備の薄さだけならそもそも壱岐島は放棄されているのだから、ここで作戦を変更したのは結果的には悪手になったと言えよう。迅速な連絡手段を持たない時代にはよくあったことだが、戦術的有利を得ようと予定を変更すると思ったようにいかない。戦場の霧、という言葉は聞いたことがあるだろう? 次々ともたらされる情報を前にすると、指揮官は何が正解なのかを判断することが非常に難しくなる。現代戦でさえそうなのだから、この時代ではさらに酷いものであったというわけだ」
得られる情報が少ない中で最善を選択しようとした行為そのものについては責められるべきではないが、初めて赴く敵地において合流点を変えたことは問題があった、というのが評価になるかね。東路軍に対し情報伝達を行うよりも先に索敵される可能性を考慮しなかったのは失策だったと言えよう。結局この判断が仇となり、東路軍と江南軍の合流は当初の予定よりも1ヶ月以上遅延をきたす羽目になったのだからな」
「遅れの代償は大きかった。本来上陸して橋頭堡を築いた後に主力として活躍するはずであった東路軍の軍勢は度重なる夜襲や嫌がらせめいた威力偵察で損耗し続けていたんだな。まぁ、大規模な合戦をしなかったことから兵力を温存は出来ていたようだが…それさえも、問題の原因となり始めていた。」
-弘安4年(1281年) 6月中旬過ぎ 壱岐島-
東路軍の幕僚達は疲弊していた。誰も彼もが頭を抱えて現実から逃避したい気分であった。
『いつになったら援軍は来るというのだ!』
彼らの頭痛の原因のほぼ全てはこの叫びに集約されていた。期日は既に過ぎている、にも関わらず江南軍の姿はどこを見渡しても見えなかった。
毎晩のように訪れる日本の船も厄介極まりなかった。数は少ないとはいえ、火薬兵器を好き勝手に撃ちまくるのだ。ノイローゼ気味になる兵士が続出し、士気はだだ下がりになるのは必然であった。それどころか、撃ち込まれる矢やら槍やらに時たま汚物が付けられていたのには誰もが閉口した。刺されば感染症の危険性があることは言うに及ばず、食料をダメにされた時の絶望感といったらなかったのだ。輪をかけて酷かったのは、接近を許した際に人馬牛の死体、それも腐乱死体を投げ込まれたことであった。湿気と暑さであっという間に腐敗したそれらは、感染症を流行させて1000人単位で死者をもたらした。まともな戦闘をする前からこの体たらくである。一刻も早く味方と合流して最大戦力で敵本土に上陸しそこで略奪を行うことだけが、彼らの縋る唯一の希望だった。
本格的に戦火を交えることなく敗北を喫する…そんな思いがよぎらない者はもはや誰もいない。特に上の者であればあるほど、前回の二の舞という意識が強く募っていた。だがしかし…あるいはそうであるからこそ、幾度も開かれた進退の是非を問う軍議は紛糾していた。
『このまま座して死を待つつもりか!』
『江南軍さえいれば状況は好転する!』
『来る保証はないだろう!』
『海を渡るのだから遅れても不思議ではない!』
『その前に壊滅に陥らないとは限らんだろう!』
『この戦力で進出しても犬死にがせいぜいだ!』
『だから連中の数が増え続ける前に出るのだ!』
『この様では多少数で有利でも話にならんぞ!』
『連中から根こそぎ奪えばいいだろう!』
『奪える力があるのかと聞いている!』
会議は迷走の段階を超え、乱闘騒ぎにさえ発展しそうな勢いを醸し出していた。クドゥンはそっとため息をついたあと、大袈裟に手を叩いて注目を集めさせた。
『…諸君らの意見はよく分かった。私の意見を聞いてもらいたい。まず撤退は時期尚早だろう。せめて江南軍の動向が分かってから判断すべきだからな。次に我が軍のみでの大宰府攻略だが、全軍でのそれは悪手ではないだろうか』
ここで一旦口を切り、彼は洪茶丘の方を向いて尋ねる。
『食糧の余裕は、確かあと二月近くといったところであったはずだな』
『多少目減りしてはいますが、それでも一月半は余裕があります』
と、言うことだ…とクドゥンは再度諸将を見渡して結論を下した。
『もう少しだけ待ってみようではないか。江南軍と共に叩けば、さしもの倭国と言えどもただでは済むまい。ただ、情報だけは必ず集め続けろ。少数なら大宰府近くまで兵を出しても構わん。混乱と、それに乗じた敵襲だけは防ぐのだ。まだ諦めるには早い、苦しい今を乗り切って雪辱を果たそうぞ』
反論は無かった。勝利を確実に期そうと思えば、それ以外に道がないことは誰もが分かっていたからだ。議論は尽くされ、行動方針は決定した。士気の磨耗と散発的なゲリラ攻撃を防ぐため…そして兵卒には伝えられなかったが食料の保全のためとして、持ち回りで
幸いなことに、クドゥンの判断はある程度正しかった。粘った甲斐があり、江南軍との連絡を取ることに成功したのだ。だが、それがさらなる絶望に至る序章であることには…未来を知る者などいない彼らには、気が付きようがなかった。
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