第二十八話 死屍累々を刃に変えて
第六編 北条義時
第八話
「はっはー、すまないな呼び出しちまって」
まぁこの前の詫び代わりと言ってはなんだが...ここの喫茶店は俺の行きつけでな、金は気にするな」
...うん、やはり珈琲はマンデリンだな。布哇のも悪くないんだが、贅沢をしたい時は大概ケーキも一緒に頼むからそれに一番合うやつとなると俺はマンデリンを推したくなる」
さて、前回は壇ノ浦、そして帝国陸軍にまでその系譜を連ねる朝廷近衛軍の設立まで話したんだったな。北条義時という人間が稀代の軍略家、政治家であったことは十分に理解してもらえたと思う。そしてその彼が最後まで扱いに困っていたのが、奥州藤原氏であった」
奥州藤原氏。正確にはその頭たる藤原秀衡というべきかな。彼らが根拠地としていた平泉は金が取れ、独自の文化を育んでいた。兵力も申し分ない上に、彼は義経の恩人でもある。それでいて朝廷に対しては一定の距離を置いて自立を図っていた何とも御し難い勢力であった。出来ることなら源氏軍改め近衛軍としても全力でぶつかりたくはない存在であった」
しかし、強硬派貴族を中心に奥州を征伐すべしという論が文治2年、1186年ごろから出始める。理由としては前年に発生した文治地震による財源の減少、そして中央集権化の加速の要求だ。朝廷専属の軍という形で源治一門を中心に発足した近衛軍にとっても奥州攻略による組織の存在意義の強化と潜在脅威の排除、さらに職場の増加を考えれば、決して蹴るような話ではなかった」
義経の故郷とも言うべき地へ攻め込むということに中枢部は心理的に躊躇するが、純政治的思考に基づけばその攻略は決定事項と言えた。複数回、会議が行われた結果の折衷案として、事態の先送りという案が採択されることとなる。すなわち、「義経が恩ある秀衡が死ぬまでは手出しをしない、彼が死んだ後はその限りではない」ということだ。なんとも言えない玉虫色のものに見えるが、一応一定の理由はある。秀衡の為政者としての高い力量から存命時に攻めるのは後々禍根を残すことになる可能性が高く、逆に彼の死亡後は後継者争いから内紛による軍事力の弱体化が見込めるという判断があったようだ。隠密の根が全国各地に張り巡らされている証左がここにもあったと言っていいだろう」
「それらの理由を差し引いても、義経は大分葛藤したと伝えられるが...この辺りは義経記に詳しいな...最終的には同意した。かくして、方針が決定されたものの...事態は想定外の速度で動き始めることとなる。奥州合戦と呼ばれるこの戦いは、吾妻鏡においては彼ら近衛軍首脳部の心理や倫理を重視した書かれ方をされているが、そこから推測できるようなことだけでも義時の戦略というのが戦争、それも現代戦争に通ずるものがあると分かるのは、やはり彼が尋常ではないことの再証明を果たしていると言えるだろうな。」
-文治5年(1189年) 8月下旬 平泉-
多分寝てる時に卒中か心臓発作でも起こしたのだろう、朝起きた時には布団の中で冷たくなっていたらしい。去年の末の寒い時期のことだったが、流石に予想外過ぎて頭を抱えたくなった。我々の首脳部が一人欠けたのは大きな損失だ。何より、本来なら死ぬ運命だった石橋山の戦いを生き残れたというのに10年も経たずに死んでしまうとは... 歴史の神がいるのなら、そいつは余程皮肉と偶然が好きらしいというのが本当のように感じられる。
嫡子がいなかったことも問題だ。確かに子が出来ないことに焦って養子を取るほどの歳でも無かったが...私個人は宗家の跡継ぎなんて微塵も考えてなかったからほとほと困った。父上は私と継室、牧の方の腹にいる子...後の北条政範だろう...のどっちを後釜に据えるかで迷っているみたいだ。別に私は辞退してもいいんだが、貴族とのコネクションを重視するという意味で分家の江間氏のままにしておくのは躊躇ってるらしい。宗家の家格をもっと上の方...出来れば名家に限りなく近い半家あたりに持っていきたいという意向があるとも聞いている。この遠征が終わったら一度腹を割って話せればいいんだが。
秀衡が死んだことで、現在軍事バランスが誰から見ても崩れた状態になっている。義経は本当によくこの遠征を承諾してくれたと思う。“史実”以上に大人になった...というより戦略や政治が見えているのだろう。感情の折り合いはまだつけれていないようだが、表立ってそれを露にすることはしていない。ほったらかしにする気もないので、月に一回ほど義兄上を交えて親睦会のようなことをしているが、多少はガス抜きになってると信じたい。妙なところから調略がかかることは無いとは思うが、話をすることは大事だ。戦術を立てる上で彼に勝る人間はいない、だからこそ
秀衡の死が通達された直後から衛門らが暗躍してくれたおかげで既に泰衡を含めた秀衡の後継者達は疑心暗鬼に陥りお家騒動勃発ギリギリの水準まで険悪になっている。ま、“史実”でも兄弟で家の方針の不一致と権力争いがあったからな。風説を流布して内部崩壊を狙うのは難しいことではなかった。秀衡が生きていた時こそ基本はノータッチだったが、泰衡が実権を握って以降は兄弟で内容に差のある手紙で足並みを乱している。統率が緩んだことで間諜を入れたり、内部の人を寝返らせることがしやすくなったのも大きい。軍門に降ること、土地の支配権は剥奪すること、それを承諾すれば
改良によって馬で引くことを可能にし、速度と機動性を上げた鉄甲車を前面に押し出して魚鱗の陣形を構成。衛門をリーダーとして諜報組織の偵察部隊を頻繁に出して敵の位置を可能な限り把握して奇襲を無力化しつつ野戦で敵を主力を撃破。ほぼほぼ
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奥州藤原氏を下し、朝廷はついに軍事力による天下の統一を成し遂げた。泰衡は夷狄島、今の北海道への逃亡も企てていたようだが、現在の秋田県大館市付近で郎党の河田次郎に裏切られて殺された」
時これ文治5年、1189年。長い長い33年戦争は、活劇としては些か尻すぼみではあるが...ようやく終わりを告げた。今の我が国の領土はもちろんこの時点より大きく広がっているが、しかしその核をきちんと統一したのは多大な功績であると断言出来るな」
そこから拡張こそあれ、分裂がないって相当なものだぜ。レコンキスタだって完遂は15世紀末だし、その状態で王朝が全く替わっていないとなるともはや我が国以外には存在しない。これは十分に世界に誇れることであるだろう」
さて、戦争は終わったがまだまだ朝廷にはやることがあった。武家の力を利用して暴力によって権力闘争を制しようとする輩が二度と出ないように、その政の体制そのものを変化させる必要があった。過去の大化の改新に匹敵、あるいは上回る大改革だ。何とかこれを海千山千の貴族相手に脅し、宥め、賺して呑ませていかないといけなかったからな」
可能性は低いが意図的に近衛軍の分裂を狙ったり、あるいはクーデターによってその頭をすげ替える危険性も否定は出来なかったからな。細心の注意を払って改革は進められていったわけだ。そしてこの完遂をもって新政時代の始まりが幕を開ける」
「維新時代において他の多くの国より比較的すんなりと議会民主制、立憲君主制へと移行したのは、義時が立案したこの制度がそれらに近しい性質を付与される余地を残し、少しずつ時代に則した形に更新していくことで大きな抵抗無く受け入れられるだけの下地となっていたからだろう。後白河院政期最後の数年の彼の功績は、国家体制の構築にその全てが凝縮されていると言っても過言ではない。」
-建久元年(1190年) 7月中旬 平安京-
ようやく戦後処理やらなんやらが終わり、一息つけるようになった。仕事の量は一向に減らないが、まぁ統一の代償みたいなものなのだろう。流れた血は決して少なくは無かったが、無駄では無かったと思いたい。
先のことは分からない。進み続けなければならないと言ってもその道が正しいのかは分からない。時折考えるのは良い結果を目指した果てに地獄まで導いてしまうのではないか、あるいは違う道を進んでいると思っているだけで、行き着く先は大して変わらないのではないかということだ。今はとりあえず戦国時代に至るまでの道筋は潰した。だがその反動が来ないとは限らない。兄上の骸を見た時に覚えた最初の感情は無常、次に困惑であった。やっていることが、やってきたことが意味をなさなくなるのではないかという無常。あるいは...自身の行動の無意味さへの失望。何故こんなにも唐突に、という困惑。あるいは...自身の行動の無意味さへの絶望。結局のところ、自分のやっていることは差し引きで無へと帰るのではないか、それが何よりも恐ろしいことなのだ。だが、だからこそそれを否定し、逃げるように未来へと突き進んでいく。守ろうとした人を取りこぼしながら、真っ暗な闇の果てにいつか見た景色よりも美しいものが広がっていると信じて。
闇の中で唯一の手がかりだった手鏡は、もっと先を知ろうとして壊れて既に久しい。地図はあるが、道は刻刻とうねり、混じり合い、新たな場所へといざなう。信頼はあまり出来ないし、一つ間違えれば煉獄へと堕ちる。守ろうとした人達と共に。もう二度と、失敗は許されない。
『佐殿、入りますよ』
カラリと戸を開ける音に気がつくと、隣に壮年の男が来ていた。少し丸い顔に笑みを浮かべ、仕草が雅なところがある。
『ああ、中務少輔殿』
大江中務少輔広元。挙兵初期から我々に協力し、院との連絡パイプとなっていた中原親能の実弟にして、“史実”の頼朝政権における事実上のナンバーツー。“史実”の私も貴族社会に詳しく頭の切れる彼をブレーンとして重宝していたらしい。
『少し考え込んでいらっしゃったように見えましたが?』
『何、とりとめのないことにございまする。改めて気を引き締めねばと思った次第で』
この歴史でも彼は優秀だ。私が特例的に正五位下になっただけで、彼は“史実”と同じ従五位上。中務少輔というのは決して低い地位ではない。義兄上への政務の手ほどきは広元の功績が大きい。
『引き締めるのは結構でございますが、それで張りすぎても毒になります。どうかお気をつけて』
『ご忠告、有難く』
身をもって知らされてるよ、という言葉を胸にしまい用件を聞く。元々中務省というのは朝廷内の職務全般を担当する機関だったのだが、政務議閣の制定によって、皇室に関する下部組織は全て宮内省へと移行させ、他の省庁での不正監視と行政の執行に重きを置いたものになっている。旧内務省のような感じだな、故に権限がデカい。寺社への政教分離指導も行っている。
ちなみに他にも省の再編が行われて、仕事がガラッと変わったところがある。大蔵省がいい例だ、国有財産の管理だけでなく各省庁への予算割り当てと税の取り立てを職務としたおかげで権力とその権限が急激に増大した。が、現代でその弊害を見ていた私は長期的には経済の停滞を招くことを指摘し、各省の予算案をまとめる際には必ずその省の人間と省担当部署で働いた経験のある大蔵官僚と相談の上で行うよう義務付けることとした。おそらく、この先20年から半世紀ほどは比較的太平の世になるだろう。だからこそ、最低限の安全保障の対価を減らされるようなことがあってはならない。輸送機の更新がしたいのにそれを嫌がらせのように難癖で止められて退役機との数が釣り合わなくなったり、戦闘機の予備機を削られたせいで酷使せざるを得なくなって機体寿命がガシガシ削られたり、まして仮想敵国の脅威を財源に応じて見積もるなど本末転倒なことがあってはならん。
元々ミリオタと呼ばれる人種だった私でなくとも、そんなことで国を守れるとは到底思えないだろう。財務を司る者は金庫番ではなく金の蛇口の調節係であるべきなのだ。適切なものには適切な予算を与えなければいずれ経済は停滞し、金の巡りが悪くなって死ぬ。まさに生物なのだ。
そのためにはやはり、経済を回す以外にないだろう。幸い国内の金銀の鉱脈がある地は既に直轄領として確保している。平氏を追っ払った場所で片っ端から衛門に指示を出して適当な箇所と混ぜながらダメ元で掘ってみよう、とやったのだ。成功率八割。加減しなきゃ百発百中なのでインサイダー取引も真っ青のインチキである。
しょうがないと言えばしょうがない、この時代だと菱刈はおろか佐渡金山や石見銀山すら未発見だったんだよな...
全国を統一して安定した採掘が出来るようになったし、近いうちに国庫は粗銅を含めた各種鉱石から取り出して鋳造した金塊と銀塊で埋まるだろう。ざくざくだ。潤沢な財源を元に経済の活性化を図り、人の心に余裕を持たせる。心の余裕は現体制への不満を減らし、結果として大規模な反乱が起きる可能性を減らす。宗教は体制への反乱のための団結要因から哲学的な問答を行い、精々が大半の人々の人生にスパイスを与えるだけの存在へとシフトする、いや、せざるを得なくさせる。宗教を国家の、法の隷属対象とさせるのだ。
尊厳がなくとも飯が食えれば人は生きられる、飯がなくとも尊厳があれば人は耐えられる。だが両方なくなるともはやどうでもよくなる。何にでも頼る...とは誰の言だったか。ならばどちらも満たしてやればいい。いずれは国民を満足させることが国家の役割となる。そのための国家資金であることを無意識下でもいいから刷り込むのだ。
それに国庫を潤わせることによるメリットはもう一つある。貨幣価値への信頼の上昇だ。清盛が日宋貿易によって宋銭を大量に導入しているが、これはいわば外貨。国外の影響をモロに受けるからその相場は乱高下しやすい。正直、あまり乱用したくないのは確かだ。だから院も価値の否定をしたがっていたのだろう。まぁ残念ながら、それ以上に朝廷の財政基盤となっていた絹の使い勝手が悪過ぎたのだが。この頃は皆絹を使いたがらないので価値の暴落が著しく、朝廷の財政に直結した危機になっている。“史実”でも鎌倉時代から宋銭での代替徴収となっていたはずだ。
裏を返すと、新通貨を流通させるタイミングとしては悪くない。金銀の量に驕った重商主義へのカウンターにもなる。皇朝十二銭は廃れてしまったが、その理由は政府発行の通貨への信頼の低下と新貨幣更新の度に行われた1000%のデノミ、さらに貴族が全くと言っていいほど経済への知識がなかったことが原因だ。本当は
経済のことを話すと広元は頷き、「大蔵省との連携を密にする必要がございますな」と言った。やはり切れる、流石は毛利の先祖だな。官庁の縦割りに縛られることなく柔軟な対応を行うというのは重要だ。内政の効率化だけじゃない、対外戦争を行う際にもメリットとして生きてくる。きっちりと法に則った上でという但し書きを徹底させないといけないが...国家体制の転換期に入った場合に混乱は少なくなるだろう。海外や国内の不穏分子への隙を最小限に抑えられる。とりあえず、今はまだ時間がある。焦る必要は無い、結んだ糸が切れないようにすればいいのだ。問題はまだまだ山積みだが...オスマン、スペイン、ポルトガル、サファビー朝などの未来世代の錚々たるメンツに対して負けないような国造りの下地は達成出来た。あとは...まだ影も形も見えてはいないが、
義時の行動を発端とした大改革は、1192年初頭には京で概ね定着したと考えられている」
後白河院はそれを見届け、同年3月、72年の激動の人生に幕を閉じた。33年戦争のきっかけを作った方ではあったが、その終結に尽力したのは間違いないだろう」
そして時代は後鳥羽天皇の治世へと移っていく。経済の発展により多くの都市が活気づき、いわゆる建久文化が花開いたんだ。平安時代的な貴族の華やかなものだけでなく、新たに官僚となった武士の価値観を吸収してわび・さびの原点が構成された。さらにそれらの価値観は各国で設置された学寮、つまり農民の子息向けの教育機関で教える下流貴族らによって広く普及し、今日で言う武士道精神の下地になった」
武士というのは新政時代以降は基本的に近衛軍の軍人を意味していたのだが、近衛軍という組織への所属資格が時代が下るにつれ曖昧になっていったことでその価値観、我が国特有の哲学的思考たる武士道というものが発生したと考えられる。他国とは少し違う発展の仕方だとは思うが、これが今の軍人に対する大衆感情の向上に寄与する下地にはなっているのは間違いないな。皮肉なことではあるが、多分その感情の根付き方が最も近いのはアメリカだろう。あの国は革命、実力によって国として独立し、国民性を獲得したのだからな。元寇という外圧を跳ね除け、実力で信頼を獲得した近衛軍と似通っている所は少なからずあると思う」
「まぁ、その後の過程はまた違うものではあるが...その辺はおいおい話すさ。それじゃあ先程触れた元寇、その前日譚を語って今日は終いにするとしよう」
******以下あとがき******
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
ぶっちゃけますと、宗時の死はかなりご都合主義なところがあります(核爆)
なにせ本来なら10年前に死んでたはずの長男が成人後も生き残っているとマジで歴史の動きが作者の手に負えなくなるので…この後も【検閲済み】やら【ネタバレ】が出てきたり【ピーーー】が生えてきたりするのにやってられっか!とぶん投げました。なるべくこのようなことがないように努めていきますので、優しい心で見逃してください(土下座)
次回は年末年始に連続投稿する予定です。ご意見、ご感想お待ちしております。
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