第二十五話 政・教・武
第六編 北条義時
第五話
「あーすまん、折角来てくれたところ悪いんだが...もう少しだけ待っててくれるか?」
資料の整理が...どわっ! ...やっちまった。あーあーあー参ったなぁ、この紙の束をまとめ直すの骨が折れるな...」
すまんな、散乱してる資料はとりあえず積んでおくだけでいいんだ。付箋の色が同じもの同士で一緒にしておいてくれれば問題ない」
ん、この辺の写真とかは...机の上にライターと煙管が置いてある所の近くに茶色のファイルがあるだろ、そこに入れといてくれると助かる」
..............................
......よし、まぁこんなもんでいいだろ。すまないな、手伝わせちまって。さて、確か一ノ谷の戦いまでは話したな。とすると次はいわゆる畿内・東国平氏の乱か」
関東から東海道を治め、甲斐をも勢力圏に組み込んで畿内に至った希義軍。そこに数々の協力者が必要だったことは想像に難くないだろう。その中でも特に首都である平安京において工作を受け持っていたのが平家の一門でありながら独立心が強く、義仲排除のために彼らに協力したいわゆる京武者と呼ばれる戦力だった」
彼らをそのまま放置していては厄介なことになるというのが希義ら中枢部の総意に近いものであったことだろう。天下統一、天下草創を目指す彼らには独立兵力など邪魔以外の何者でもなかった」
だが、一ノ谷の戦い終了直後を狙ってくることは些か想定外であったようだ。鈴鹿山脈の占領による陸の補給路・連絡路の遮断、北陸地方の義仲に近い派閥の一斉蜂起、さらに京にほど近い近江国での挙兵...最強の武家である希義軍の本拠地である江戸や鎌倉、横須賀などに至る道を寸断されたことは宮中に大きな衝撃をもたらした」
このために折角福原から敗走させた平氏の追撃を一時中断せざるを得なくなり、中国地方の影響力を完全に削ぐことが出来なかった。『
もっとも、彼らの戦力としての規模はそこまで大きくはなかった。全てを合計してせいぜいが6000人程度、各地域ごとで見れば1000人を割るような所もあった。広範囲、ということが面倒なだけでな」
ただし政治的に見るならば、手こずっているようでは朝廷からの信を失いかねないという意味では喫緊の問題だと言えるな。物流だって滞れば民の不満を招く。弱体化したとはいえ未だ平氏の水軍は健在だった、だから瀬戸内淡路島方面を迂回して海路で物を運ぶのには大きな危険が伴った」
「そこで希義は軍を三方面に分けた。京を守り四国の平氏を牽制する範頼軍、北陸の討伐を行う義経軍、そして伊勢の妨害を排除して道の再連結を行う希義軍。近江までは希義が義経軍も管理をしていたが、そこから先は別れての進軍となった。義時は実兄宗時と共に鈴鹿山脈攻略に臨むこととなる。」
-元歴元年(1184年) 8月10日 下滝野-
この時期は農繁期で兵が集めにくいんだ、だからこそ国家としての傭兵...全国統一による武家の軍人化が必要なのだ。まぁ、今無いものを愚痴っても仕方が無いのだが...多少は銭で雇えている分数の減少を気にしなくていいのは救いか。勝利は確定しているから、傭兵の逃げ出す心配がないというのも安心だな。
鈴鹿山脈周辺というのは、昔から多くの人間が通る要所である。伊勢神宮があることも多分に影響しているはずだ。ここを切り崩されると途端に太平洋側の交通が麻痺しかねなくなる。それに山だから大軍の利を活かしずらい。政治的には一刻も早く再通させる必要があるのだが、力攻めだと割に合わないのは目に見えている。規模こそ小さいが、このような山岳戦というのは基本は相手よりも高い場所に陣取った者が勝つのだ。確実な攻略法としては、補給のために麓まで降りてくるのを待つしかない。山で蜂起されると面倒だと言うのはこれが理由だ。スピードが求められる政治とは極めて相性が悪いと言えた。
やるなら山での戦闘にも長けた特殊部隊を夜間に投入して敵の陣取る場所の標高を下げるとかそんな感じになるんだろうが...この時代だとまだ伊賀忍者もいないんだよな、こういう特殊な立地条件下での戦闘に強い集団の育成はまだ手をつけられていない。石橋山の戦いでは我々が上を取れたものの、今回は真逆だ。向こうからの火薬兵器の大量投入が無いだけマシか...まだ新月じゃないから明かりがなくても多少は動けるとはいえ、大軍を山間部で夜間に行進させるのは極めて危険だ。やはり力攻めにならざるを得ないな。鈴鹿山脈はガレ、すなわち投石に使えるような大粒の砂利や岩が多いことで有名なのだが、この山は比較的少なそうだ。その見立てが合っていることを信じて盾兵を前方に展開して進める。火筒はそれなりの数を持ってきているから、弓矢と同時に射掛けながら歩かせれば気休め程度にはなるかな...
そのようなことを伝えると、唸り声が多数上がった。正直な話、登山道を包囲して兵糧攻めというのが一番なんだ。だが、政治がそれを許してくれない。我々は既にただの私兵軍では無い、国家の守護者として振る舞うことを要求されるのである。かと言って無理にやり過ぎると損害が増えてそれはそれで守護者としての力量に疑問を抱かせることに繋がりかねないんだよな...
『...では、明日の日の出を目処に出発し、可能な限り距離を詰めて数で押し潰す。それでようございますな?』
苦虫を噛み潰したような顔がいくつも見える。多分私もその一人だろう。だが、全員が頷いた。結局これしかない、やれやれだ。前線指揮官の磨耗は覚悟した方がいいだろう。遺族への補償が馬鹿にならない...
-元歴元年(1184年) 8月11日 局ヶ岳山頂付近-
『押せ!』
『引くな!』
『放て!』
『防げ!』
うーん、微妙だなぁ...声の感じからすると若干優勢ではあるようだが敵は1000人規模だぞ? こちらはその6倍は率いているのだ、それでも押し切れないというのはやはり道が細いからなんだろうな... “オモイカネ”、勝負が着くまでどのくらいかかるか分かるか?
〔このままでは日が暮れるでしょうね。後詰めの一部を別の登山道に回して挟撃させた方が確実でしょう〕
そうだよな、このままでは後部の兵は遊兵になりかねん。別ルートは極めて険しい道のりになりそうだと物見から報告が来ていたから躊躇していたのだが、想像以上にこちらの道が細いようだ。やはり分遣させよう。3時間で進出出来れば御の字だな。
『申し上げます』
『申せ』
『道が細く兵の通り抜けに想定より時間がかかっていると思われまする。後列の者から特に山歩きに慣れた者を300人ほど引き抜き、別の道から向かわせた方が良いと愚考致しまする』
『ふむ、難所を多く越えることになっても挟撃を狙った方が早く終わると考えたか。分かった、すぐに準備にかかれ。持たせるのは刀だけで良い、なるべく動きやすい格好にさせよ...使番!』
使番が弾かれたように動き、編成が開始され始めた。あとは根比べになるな...別働隊が強襲に成功すれば包囲戦滅も不可能ではないだろう。損害が1人でも減ることを祈るだけだな...
別働隊の移動開始から6時間ほど経過したかと思われる頃、前線からどよめきが聞こえた。辿り着いたか? 旗が揺れている、色は赤...平氏だ、動揺しているのは敵だ! 強襲が開始されたか!
『ようやくにございますな』
『うむ、このまま押し込めば崩せそうだ。やはり山の上に陣取るというのは極めて厄介なものよ』
ようやく大庭の気持ちが半分は分かったわ、と
畿内・東国平氏の乱そのものは軍事的にはさほどの脅威というものでは無かったが、同時多発的に政治・通商上痛い所を突かれたというのが現在の評価だ。仮にも支配権を朝廷から委託されている地域で反乱が防げなかったというのは希義らによって到底許せるものでは無いからな」
そのため、掃討は極めて苛烈なものとなった。同じような真似をさせないよう、抑止としての役割もあっただろうがな。特に局ヶ岳の根切りと呼ばれた鈴鹿山脈周辺地域での戦闘においては降伏は一人たりとも許されず、協力や援助を行った者も片っ端から殺された」
これに反発したのは、何と一見無関係に見えるところだった。天台宗の過激派連中がそうだ。いくらなんでもやり過ぎだ、というように主張していたんだが、まぁ当然のように裏があってな... 宗教の政治への介入を危険視する希義らへの敵対心から密かに援助していたことが発覚した。報告を聞いた義時は即座に総本山たる比叡山を取り囲むべし、場合によっては焼き討ちをも行うべしと進言している」
「希義も焼き討ちこそ明確な判断をしなかったものの、政治への介入を行うようであれば罰を加えるべきだと判断した。そのため京へ帰還した後は比叡山へと軍を進め、山道を封鎖する。離別したと思っていた平氏の裏に宗教的権威の援助があったのだ、絶対に見逃せない。だから義時は政教分離を推し進めるという意味も兼ねて積極的に関与した。この宗教的権威の没落が歴史的に非常に早い段階で開始したということは我が国が他国と一線を画する部分である、と言えるかもしれないな。」
-元歴元年(1184年) 9月上旬 比叡山-
“史実”から外れたな。驚いた、天台宗が平家の支援をしていたとは思わなかった。いや、思いたくはなかったというのが正解か... どうやら坊主を政に介入させない方針が気に入らないらしい、元々親平氏が多数派だったこともあって兵站の補給や融資をしていたようだ。腐敗が激しいな、最澄が見たらなんと言う事やら...空海なら
根切りに対して宗主である全玄自ら非難を表明するとか...自白しているようなものではないか。妙だと思ったんだ、“史実”の記録から分かる戦闘状況よりも手際が良すぎる。武器はどこで手に入れた? 食糧は? 同時蜂起の裏にはメッセンジャーがいたのではないか? こういうことを少しずつ考えていくと、寺社が怪しいという所まで見えてくる。そこからは簡単だった、衛門に命じて捜索させると証拠が出るわ出るわ...使者を通じて突きつけても鼻で笑って開き直りやがったので、
『坊主共が民を唆して朝廷の決定に逆らうようなことが起きては不味い。沙汰は厳しくなるであろう故に到底受け入れないだろうが...それを咎めなければ武威の示しがつかぬ』
出立の前日の評定で義兄上はそう語った。同感だ、これを機に政教分離を進めた方がいい。院に連絡した方がいいだろう、この手の連中には昔からずっと頭を悩まされていたからな。
そして今、全街道を封鎖し坊主に圧力をかけている。要求は平氏に与したことへの謝罪と賠償、そして政へ今後一切介入を行わないとの誓約。謝罪と賠償だけならあるいは受け入れたかもしれないが、強訴を含めたあらゆる政治的活動を許さないとなれば話は別だろう。彼らはその旨みを知っているのだ。今更手放そうとはしないだろう。回答期限は通告後三日目の夜明け。そして間もなくその時が来る。向こう側からの音沙汰は無い、舐めているのだろう。そのツケは、これから払ってもらう。
『しかし今更だが...本当に焼くのか?』
ぽつりと、しかしはっきりと父上が呟いた。
『焼く焼かぬの問題ではございませぬ。仏の教えを説くと
『四郎の言う通りだ、例えば一つの宗派が政を自在に動かすことが出来るようになればその他の宗派は邪教として排斥されかねん。恐れ多いことではあるが、帝が廃されるという危険すらあるのだ』
義兄上のある種の異常性というのは、この点を理解しているということがあるだろう。古代、中世は総じて宗教的権威の力が強い。これを分離して政治への介入を防ぐことが出来れば合理的かつ科学的な技術・経済・文化の発展が見込める。しかし得体の知れないモノというのはどんな時代でも畏怖の念を抱かせるのだろう。現代に至ってもなお完全な政教分離が成し遂げられた国家があると断言出来ないことを踏まえれば、致し方無しと言えなくもないが。
だがな、宗教を使って人の心を操り、主導者の思うがままな政治を行わせるというのは極めてナンセンスだ。強訴だけじゃない、現代ではその自主性に疑問符がついていたとはいえ道鏡の例があるし、欧州に目を向ければ十字軍や数々の異端尋問に魔女裁判、世俗的権威の宗教的権威への敗北という点で見ればカノッサの屈辱なんかも数える内に入るだろう。その時々の権力者の気分次第で利益を不当に貪られたり都合の悪いことを隠されてたまるか! これを
『道理とは思われまするが...いくらなんでも本山を囲む、ましてや焼くというのは罰当たりな気が』
『兄上、だからと言ってかの者達の狼藉を許すわけにはいきますまい。朝廷に楯突くものはそれが如何なるものであっても排除するのが我らの務めでございましょう』
複雑な顔をして黙り込む諸将。彼らも理屈では分かっているし、やれと命じられたらやるつもりではいるのだろう。だが祟りが怖いのは拭えないんだろうな。出来れば自分は関わりたくないというのが本音なんだろう。声をかけてやるべきか。
『罰も祟りも提案をした私が全て引き受けまする。各々方は安心して兵を動かしなされ』
『四郎、その方だけが背負うことは無いぞ。総大将は私だ、何かあらば私が引き受ける。皆の衆はその力を発揮することだけに腐心せよ』
おう、と上がった声は少々弱々しかったが、それでも張りがあるだけマシだと思おう。ゆらゆらと揺れる光が少しずつ、周りを照らし始めた。この期に及んでもなお使者は来ない、我々が...私と義兄上が本気であるということを思い知ってもらうこととしようか。
比叡山は無言を貫き続けた結果、源氏のお家芸たる火車と火筒による総攻撃を受け、燃やされた。ほとんど根切りに近い様子で、女子供も容赦なく殺されたと伝えられているな」
元々武士というのは新興勢力である以上、神仏の祟りを畏れない傾向が強い。故に強訴への対抗措置として採用されたというのもあるのだが、この件はそれをもってしても些か...いや、かなり非常識と言えるほどに宗教の力に踏み込んだものであったと言える」
我が国の宗教の元締めの一つが「時の政権の命令に逆らった」という形で懲罰として攻撃を受けたという事実は、宗教界に極めて大きな動揺をもたらすことになる。当然多くの比叡山系寺社が抗議を行ったものの、朝廷の取次ぎとして担当した義時は一切相手にしなかったどころか、むしろ要求を行った」
彼が提示したのは政治への介入の禁止、以降の朝廷の定める法律への服属、高利貸しなどの金融業の禁止の主に三つ。それを対価として信教の自由とその保証を行うというものだった。宗教の力が政治に及ばないこと、そして民草への影響力が朝廷よりも大きくならないようにすることが目的だったと推測出来るな」
当然反発はあったが、従わねば根切りにすると脅されては無視は出来ない。その言葉は既にハッタリだと一笑に付すことが不可能な説得力があったからな。それらの交渉や調整を精力的にこなしていた義時は、当時の世間から見るといわゆるタカ派、源氏一派で最も恐れられた男だった」
しかしむしろ彼は武力による弾圧は最小限に抑えておきたがっていたことが分かっている。過激な連中を手元に置くことである程度その動きを抑制しようとしていたんだな。これは義時の死後割と早い段階で広まった認識で、そこから武家閥の参謀的存在と見なされたのだと思われる。これが拡大解釈、一種の神格化が成されたために黒幕説が唱えられるようになったというのが有力だな」
さて、統治地域の不穏分子を一掃するという予定外の出来事があったものの、平家の復権が近くなった訳では無い。物流維持のために船を紀伊半島以東で優先的に使用する必要があったから、瀬戸内海の制海権が確保出来ていなかったのは痛かったが、この騒動を鎮圧したことで後背の憂いは無くなった。平氏をその一大拠点である屋島から追い落とせば陥落は時間の問題になる、と判断した源氏の諸将は大規模な船団を組織して海上での撃滅を図ることを決定した」
「時は1185年3月末。暴風雨によって出港は遅れたもののあわよくばこれで決戦を、と狙う源氏軍は十文字旗を掲げて侵攻を開始した。屋島の戦いの始まりだ。」
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