第七話 かかやきの御刀
第二編 菅原道真
第三話
「早かったね、私も丁度今来たところだよ」
あぁ、学生寮で生活してるなら納得だ。電車じゃなくて自転車で来たのかい?京都は地味に広いからね、いくら道なりに行けばいいと言ってもちょっと大変だったろう?」
まぁここからは割と近いから安心してくれ。徒歩10分もかからない」
それじゃ、復習がてら道真の功績を見直していこうか」
「ただ歩くだけじゃつまらないだろう? 豆知識だって君の研究テーマには役立つはずさ。まずは...そうだね、彼が広めたとされる農具やその背景にある学問について解説していこうか。」
-寛平10年(898年) 4月中旬 大峯山麓集落(現天川村)-
『進捗はどうかね?』
『はい、右大将様。月に三から四程は作れるようになっております』
半年もすれば五ないし六は出来るようになるでしょう、と集落の長は微笑んだ。上出来だ、この紀伊山脈の森の中にあるほぼ全ての集落でそれだけ作れるようになれば、十数年もすれば全国に普及するだろう。朝廷印の焼印を押せば真贋の区別もつきやすく勝手に模倣することも難しい。帝からの許可を得ているからブランド力もある。
何を作らせているのかと言うと、木造水車である。日本では距離の短く、流れの急な川が非常に多い。だから氾濫も起こりやすいのだが、稲作をしている以上水場から離れた高台を開墾するのは無理があった。そこでこいつの出番である。川から水を引いてきて、その運動エネルギーを位置エネルギーに変換、川よりも高い場所に水田を作るのだ。水を適度に川から汲んでくるので多少なりとも洪水の危険を減らせるし、従来では不適格とされた場所が新たな食糧供給の地となるのはこの時代では福音以外の何物でもない。お陰で京にほど近い場所に限られるものの、新たに開かれた農地が増えて大きく石高が上がることとなった。
将来的にはこいつで工業の原動力も一部が賄える。途絶えてはしまったが中国では宋の時代に紡績工場として使われてもいたはずだ。つまり食糧以外にも使い道は多岐に渡っている。もっとも“史実”では江戸時代には普及が進んでいたらしいから、それを少し早めたに過ぎないのではあるが。
食だけではなく、他の物も安定した生産が出来るならばやがては近代化に繋がっていく。物が増え、量産化の必要性から機械化が進めば働き手を欲して都市に人が集まり、文化や文明は益々発展していくだろう。
しかし…伸び代はこの国にはあった。私も憑依して初めて知った時は心底驚いたのだが、この時代の和算はほかの文明圏に比べて勝るとも劣らない、分野によっては大きく隔絶するほど発達していたのだ。例えば、パスカルの三角形もどきの存在。例えば、木の棒を組み合わせた算木という器具を使うことで可能な膨大な桁の計算処理。これが物理学や化学と結びつけば、大いに役立つことは間違いない。実際、水車の精度を高めるために必須である円周率の計算も算学を修めた貴族主導の元であればそつなくやってのけていた。あとはその図面を村に投げるだけで作れてしまうのだ。和算というものが非常に先進的なものだということが窺える。もっとも、アラビア数字を使った筆算の方が簡素かつ算木の準備の手間が掛からないのでこちらの普及にも努めている。後世、どこから伝わったのかで歴史家が頭を抱えそうだな。
工業化を進めるならば、次世代を担い、またそれらの機械を扱うことになる子供たちには扱えるだけの教育を施していかなくてはならない。まぁ、読み書きと多少の計算が出来るだけでもこの時代なら十分だ。教育機関を新設するか、あるいはどこかに委託するのか。金がかかって仕方が無いな...陛下が譲位されてから時平の動きが怪しくなっているが、その辺も考えて計画を立てていくべきだろう。
さぁ着いた。割と早かっただろう?」
今の天川村周辺を中心として水車の製造が広まったとされている。現にあそこの水車大工は無形文化遺産に指定されているわけだからね…靴はそこに置いておいてくれ」
発掘調査及び当時の資料の分析によって定期的に道真が訪れたことも分かっている。下々の村に出入りするとは何事だ! と言われたこともあったようだけれども、実際に目で見ねば分からないこともある、それを怠る方がよほど帝の信頼を受けて就いたその職に不実だとは思わないのか? とやり込めたなんて話もあるね」
そうやって外回りをしていた道真は、集落の人間に水車を作るためのノウハウだけでなく、教養講座も行っていたらしい」
あぁ、この講義を受け持っていたのは当然、道真本人では無い。彼の部下…と言えばそうなのかもしれないけど、農民出身の人間が何人か交代で来ていたんだ。これが何を意味するか分かるかい?」
そう。彼が橘家と共同で開発したと伝わる千歯こき、唐箕などの農具は農業従事者の負担を減らすと共に、元々それらの農具の役割を果たしていた人々の仕事を奪うことになった。その補填として、農民向けの実践的な勉学を教える専門の教育施設を作らせ、そこで弟子筋の貴族に教鞭をとらせたんだ。彼が菅家廊下を受け持ってから5年後だったかな?そして、そこで学問に勤しんだ農民は地元に帰り、知識を広めていくことになる。そのうちの幾人かが天川村などへ派遣されたということだ」
農業の改革が進むことで手が空く人間が増え、知識や教養が一般化していく。少しずつではあるけれど、産業革命に必要な下地は既にこの時から整いつつあったという訳だね」
さぁ、こいつが光晴だ。うちではこうやってガラスケースに鞘ごと納めて飾ってある。あぁ、持つ時はこの手袋をはめて」
うん? 価値ねぇ…上古刀だし、製作者の名も彫られてるから三桁万円は下らないんじゃないかな?家宝だよ、家宝」
どうだい、よく切れそうだろう? 平安時代にここまで反りのある、一般的によく知られた形状の日本刀として完成されたものは道真が作ったもの以外には現存してないね、極めて洗練されたものだと思うよ」
最高傑作と名高い兼思光晴は皇室財産として厳重に保管されているんだが、この刀一つとっても彼の影響力の強さの一端を知ることが出来るんだ。そもそも兼思は天皇に対して献上されたものだからね」
それに今でこそ彼はその功績を讃えて学問の神様として親しまれているけれども、本来はこの兼思を鍛え上げた軍神としての性格が強かったことが分かっている。積極的に祀られはじめたのが大体死後200年経過した頃だと言うのが有力な説なんだけど、その時はやはり皇室への忠誠、そして武神として錦の御旗代わりにされたんだね」
そうそう。保元の乱に始まり奥州征討にようやく終わりを告げる、この国最大にして最後の内戦と名高い33年戦争...その中〜終盤である治承・寿永の乱において活躍したかの
「っと、話が逸れた。彼が御刀を奉じた際の話は詳しくは伝わっていないのだけれど、それでも醍醐帝はかなり喜んでいたのか、終生大事にして手入れを欠かさなかったと伝承に残っているね。帝の崩御後もずっと保管されてきたことからも、刀が大事にされていた...ひいては道真が重臣だと信頼されていたことが察せられるだろう。」
-昌泰3年(900年) 8月下旬 平安京-
『こちらが私の打った刀、兼思にございまする』
『よく切れそうだ。して、銘たる“かなおもい”とはどういう意味か?』
『…思いを兼ねる、即ち主の意志を反映するかの如く切れるという願いを込めて名づけさせていただきました』
〔本音は?〕
〔厨二病を1世紀以上拗らせた成果ですね〕
うるさし。そりゃあ自分で刀作れるとかなったらそういうことの一つや二つやってみたくなるのが男ってもんだわ。
製鉄は今後国力を増強するためには最優先で育てなくてはならない技術だ。冶金、鋳造...軍事が全てとは言わないが、安全保障には絶対に欠かせない分野である。だから暇を見つけては工場へと足を運び、職人に改善点や新技術の指導を行っている。朝廷の権力の象徴として国の直轄…各国では国府の直轄…にしたため介入がしやすく、つまり技術革新の速度を早めやすくなった。このままうまくすれば下手をしたら約300年後から産業革命が出来るかもしれないな。現在は野だたら製鉄による生産がされているが、燃料用の木材を輸送するための高品質な馬の繁殖が完了次第、永代たたらに移る。永代たたらは17世紀に完成する製鉄法だが、そうだな、実に500年近くの短縮が出来るかもしれない。欲を言えばコークスを利用した近代製鉄にも早く移っていきたいが、そもそも炉を作る技術の育成から始めて行かなくてはならないからこれに関してはまだまだ時間がかかることだろう。
『ほう! なるほど。鎬や刃紋の形も美しく仕上がっておるし、まさに朕の思いを兼ねてくれそうなものだな』
齢十五の帝はそう言って破顔した。やっぱり若い男の子にはこういうのだよね。これでちょっとでいいから株上がってるといいんだけど…最近いよいよ時平の動きが露骨になってきているのだ。なにせ未だ若く上流階級の貴公子たるヤツともうジジィで下流出身の私では馬が合う訳が無い。“史実”では上皇陛下にのみ提案や提言を行っていたことで隙ができ、讒言を帝の耳に入れさせてしまった。だからこの世界では御二方の元に足繁く通い、仲を取り持つと共に時平を牽制してきた。ヤツの焦りと妬みは相当なものだろう。“史実”ですら心中穏やかでは無かったと言われているのだ。どこかで爆発しない保証などない。もっとも、そうなってしまえばウン十年単位で整備してきたこちらの罠に自分から突っ込んできてくれる訳なので好都合ではあるのだが…
彼の父の基経やその養父である良房、良房の父の冬嗣殿は分かり合えない所もあったが、少なくとも国のために身を粉にして働いていることは多かった。ところがヤツは自分とその取り巻きの利益しか考えていない。実に残念だ。弟の忠平君とは大違いだな...“史実”であればあと4ヶ月ほどで昌泰の変が発生する。自制ができるか否か、お手並み拝見といこうか。
藤原時平は宇多上皇の親政に不満をもつ醍醐天皇を煽ることで自身の影響力を拡大し、脅威となる道真の排斥を図ったとされている。しかし、どうやらそれは見透かされていたようだ」
菅公伝には時平のことも多少は書かれているのだが…ある中流貴族の目から見たものとして、明らかに道真の良くない噂を流布しようとしていたという。だがその都度どこかからそれを否定するような証言が出てくる上に、逆にその噂を流したのは時平だとの風説が流れる始末。七光りでとりあえず左大臣にまで登りつめたはいいものの、人望はあまり無かったようだというのはつい最近までの定説だったよね」
その手並みの鮮やかさから、以前から彼が隠密組織をつくっていた、あるいは橘逸勢のそれを引き継いだとは言われていたけれども、この証拠を見る限りその可能性は高そうだね」
え? その組織こそが今のiJIAに繋がる可能性があるかって? …確かに昔から議論はされてるよね。またの名を発明家宰相とも言う、我が国の現在の礎とも言えるかの首相によって立ち上げられて以降、時の人の影に常に蠢いている情報組織…明確に足取りが歴史の表舞台に出てくるのは前身組織が資料に記される12世紀末から13世紀初頭にかけてだけれども、その前の時代でもいささか不自然すぎるほど突然に時代の寵児の政敵が権力の座から落ちている場合が少なくなかったのは間違いない。制度が整えられてからはそういったことは無かったようだけれども…」
まぁかの組織の黎明期の詳しい話は檀上さんに聞いてくれ。あの人が平安時代末期から新政時代にかけての専門家だから…」
とにかく、道真は時平の謀略を徹底的に妨害していた。このままでは自身の地位が危うく、さらに自らの系譜すらも道真の派閥に飲み込まれかねないと焦った時平は、ついに道真が多忙を極めた新春の僅かな隙に大博打を打った」
『右大臣菅原朝臣はその権力と狡智をもって帝を迫害し、自らの娘婿にその座を渡そうとしている』」
「昌泰4年…旧暦901年1月24日のことだ。現代に昌泰の乱と呼ばれる政変のきっかけとなった時平の醍醐帝へのこの讒訴は、翌25日に道真を緊急招集させることとなったんだ。」
******以下あとがき******
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
投稿の当日中に新たに登場人物紹介も追加する予定です。随時更新となっていますので注視して頂けると幸いです。
次の本編投稿日は9月1日を予定しております。ご意見、ご感想お待ちしております。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます