番外編
番外編 「鬼」の異名の意味
「ちょっと
私の声が二〇五号室に声が響いた。居住区前の廊下は学生が歩いていて話し声も聞こえるのに、何故かそれが遠くで聞こえるくらい私は焦っていた。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「ねえ早織、五班長がなんであんなこと言ったか分かる?」
「え? でも機嫌よかったじゃん。だから言ったんじゃ───」
「その逆だよ!」
遮ってまでも発言する私に困惑したのか、同じ部屋の
「あれは───」
部屋から頭だけ覗かせる。事務室へと戻っていく五班長の背中を見ながら、私は同期がとんでもないことをしたことへの怒りと呆れが混ざっていた。
「───五班長、怒ってるよ」
サァッと、一瞬で早織の顔が青ざめていくのを同期が見たのか、「早織、大丈夫?」と声をかける声が耳に聞こえた。
***
私の自己紹介をするよ。名前は
ちなみに私の期は第三十二期。私の時は世界の情勢が少し混乱していて、日米安全保障条約が破棄されるかも、なんて世界が物騒なお話をしている時に入隊してしまった。だからなのか、アメリカや北朝鮮、中国が勢力を拡大していて、修業して術科学校に行ったあとは警戒巡視や哨戒任務に駆り出されることが多く、年に三回あるはずの年次休暇が一回しか取れないとか、出港後の長期休暇中に非常呼集がかかってもう一度出港したりとか、申請を出して友達とギリシャに行っている時に連絡が来てやむを得ず私だけ帰国したりとか……二十歳になるまでは怒涛の二年間だったような気がするよ。
更に全国で二回目とも言われてる就職氷河期の時に入隊したから、高校時代同じクラスだった子がリストラされたりとか、内定貰えないまま卒業したりとか苦労が多かったみたい。そんな中で安泰な職を選べた私や同期は本当に幸運だと思う。
話を戻そう。私が入隊したのは舞鶴教育隊だったのだが、修業後に他の教育隊の子達に聞いてみれば、甲板掃除が休日はない、総員起こしの文言が違う、休日はTシャツ短パンで事務室入室許可、ロッカーの鍵が空いていても「空いてるよ」と声をかけられるだけ……等々、私からは想像できない教育隊生活を送っていたそう。
舞鶴教育隊はこれらが全て逆で、今はそうでもないみたいだけれど、私たちの代はとても厳しかったように感じる。
特に厳しかったのが、私の班である五班の班長。お名前は
そんな厳しさからついた別名が「鬼の五班長」。教官歴が四年目という経験が深い人だったからなのかは分からないけれど、掃除の時以外は学生との距離がとても近い。学生がなにか話題をふれば興味津々で聞いてくれるのが可愛くて仕方がなくて、何故か学生達に可愛がられる存在になっていた。本人も本人で満更でもなさそうだったみたい……?
ガーッと怒ったことは一度もない。鬼とついている割に、五班長は意外と冷徹に怒る人だった。普通の班長であれば「なんで○○したの?」「しちゃいけないの分かっててやってたの?」と頭ごなしに怒ることが多いけれど、五班長は怒る時、学生の言い訳も反論も黙って聞く人だった。一通り聞いた後に「それは違うよ」と間違っていることを指摘し、学生と一緒に解決策を考えてくれる。それでいて「こんな意見があったって上に通しとくわ。でももう二度とすんな。君たちはしてはいけないことをしたってことを自覚しろ。次したら怒鳴る」と堂々と宣言して終わらせるのだ。傍から見ればただの面倒くさがりだと思われがちだけど、その面倒くさがりな印象が逆に学生の恐怖心を煽り、「五班長がガチギレすると絶対怖いから、一度注意やらかしたことはみんなで声をかけあって二度としないように心がけよう」という学生内の暗黙のルールが作られるほどだった。
さて、長くなったけど本題に入ろうか。あれは私が入隊して二ヶ月がたった頃の六月末。ちょうど
私の同期に、
その日は当直班長が五班長だった。その時に当直学生をしていたのが早織だったのだ。昼食に行く時間を伝えたあとは、ほとんどやることは無い。皆制服にアイロンをかけていたり、ベッドでスヤスヤ眠る人もいたり、娯楽場所で通話しながらお菓子を食べる人もいたり、テレビを見る人もいたり、休日はそれぞれがそれぞれのことをする。もちろん、
事務室に入る時はそれ相応の服装をして入るのだけれど、早織は他の教育隊の学生から「Tシャツ短パンで事務室入ってるよ?」と言われたのをきっかけに、早織がその事について五班長に意見を言いに行ったのだ。五班長は黙って聞いていた。私も飲み物を買いに行くついでにちらっと室内を見たけど、五班長はいつになく真顔だった。表情ひとつ顔に出さず、ただ黙って早織の意見を聞いているのだ。何を考えているのかが分からないその表情に、私は逆にゾッとした。
「鈴、何しとんの?」
同じく飲み物を買いに来たのか、同じ部屋の
「ここの所ずっとだよ。私達としては意見をまとめてくれるから助かるけど」
「班長に負担がかからんか心配やわ、色々……」
苦笑いで朋花は言う。そのタイミングで話し終えたのか、「後で部屋行くから、戻ってて」と五班長の声が聞こえた。元気よく返事をした早織は事務室を出たあと、私と朋花を見て「あれ、何してんの?」といつものへらっとした表情で言ってくる。
「飲み物買いにきただけだよ?」
「あーなるほどね。ここの所暑いよね……あ、ここ靴墨ついてる!」
「うわほんまや……空いとる時間に掃除せなね」
そんなことを話している時に五班長が出てきて「あれ、何してんの?」と早織と同じことを問いかけてきた。
「お疲れ様です。飲み物買いに来とっただけです」
「栗原も同じくです」
「んー、そっか。そう言えば君たち二〇五号室だったよね? 少し話があるから、少しだけ時間貰ってもいい?」
さっきのことだろう。私も朋花も特に外出する用事も無かったし、アイロンは既に終わらせていたため承諾すると、部屋で待ってると言い残し廊下を歩いていってしまった。
わあ、なんだろう!? とても嫌な予感がするなあ!
この時点で私はかなり嫌な予感がしていた。五班長はこういう時、とても冷たい顔をする。なのに今は怖いくらいのニッコニコ笑顔で話しかけてきたから、早織がそれほどの意見を言ったのかとハラハラしていた。
***
やがて二〇五号室に着いて扉を開けると、同じ部屋の
「……私のこと言ってるみたい」
「なんて?」
「「あまりにも意見を言ってくるから、望月がまとめて意見を言ってくれてるのかなって思って」「ああ、そうですね。主に望月二士が……」」
「よくそこまで聞こえるね。さすが水測」
まるで猫のような聴覚の良さである。ちなみに花粉症のため嗅覚はあまり良くないらしい。
ええい入っちゃえと思い、私は扉のノブに手をかけて部屋に入る。
「お、ちょうどよかった」
五班長が私たちに気づいて声をあげる。お疲れ様です、と挙手の敬礼と共に早織と朋花も入る。
「さっきの意見のことで少し聞きたいんだけど、意見をまとめてるのは望月?」
「はい、主には」
「じゃあ意見を言っているのは?」
一瞬何が言いたいのかが分からず、私は首を傾げた。意見を言っている人を特定して何をしようと言うのだろうか。それとも、言った内容に何か不備か言ってはいけないことを言っていたのだろうか。
「望月が集めた分隊の意見を聞いてると、少し考えることがあるんだよね」
「どういうことですか?」
「んー? 君たち自覚がない? お金のこと、
君たちが今言ってくれていた意見、全部上には通らないよ。それを分かってて言っているのかと思ってね」
「へ?」
ますます分からなくなってきた。尤も、私は早織がどんな意見を集めているのかさえ知らないのだから、この話自体ついて行くことが出来なかった。
「まずお金のこと。官品も消耗品も高いだの云々言ってるけど、それは国で決められた値段だってのは分かってるか?
「へ、へぇ……」
「なんでもかんでも意見を言えばいいってもんじゃない。中には上からの指示で変えられないこともある。それを
「で、でも班長───」
「まだ意見があるの? それならいいよ、望月。君が心ゆくまで話そうじゃない。すぐに事務室まで」
ニコニコしながら部屋を出ていった五班長に、私は血の気が引いた。
あんな不気味な笑顔見たことない。
「あれ、まだ聞いてくれるんだ。ちょうど良かった、まだ意見が残ってて言いたかったんだよね」
どうしてあんな笑顔を残した? 見た目は怒っているようには見えなかったし───。
「……あ」
気づいてしまったと同時に、私は彼女の肩を両手で掴んだ。
「ちょっと早織、それはやばいって!」
「どうしたの、そんなに慌てて。だってまだ意見を聞いてくれるんだよ?」
「違う、そういうことじゃなくて! 私たちの暗黙のルール忘れたの!?
そう、最初の方にも話した通り、私たちには五班長に対して暗黙のルールがあった。
五班長がガチギレすると絶対怖いから、一度注意やらかしたことはみんなで声をかけあって二度としないように心がけよう。
この暗黙のルールを作ったのは早織本人なのだ。
「あれは……五班長、怒ってるよ」
早織の余計な一言で、五班長は「笑顔」というガチギレをかましてきたのである。
あのあと早織本人に聞いたが、ガチギレした五班長はいつになく怖くて、普段班長に指導されてもケロッとしている早織が泣いて帰ってくるほどだった。もう二度としない、と早織も反省したようだ。
それにしても……意見を言うだけであんなに怒るかな。
という疑問はすぐに解決した。なぜなら、あの意見の中に五班長のことも入れていたから。
五班長は恐らく、誰よりもプライドが高い。高いんだけど、それは普段表には出さないし、悪い所はきっちり反省する、と五班長本人も言っているほどだから、よほど気に触ることを言ったのだろう。爆発寸前の爆弾に触れたような感覚がして怖かったと早織は話してくれた。
……なんてことがあって以来、早織はめっきり意見をまとめなくなった。二度としないって言っていたくらいだから、相当懲りたんだろう。
修業式が終わり、分隊解散式をしたあと、五班長は早織に近づいてこう言った。
「またなにか意見があったら言いなよ? 私も私なりに頑張るからさ」
「無理です絶対言いません」
「そんな事言うなよ〜」
笑顔で早織の頭を撫でる五班長は、おそらくきっとどの班長よりも鬼の形相だった……と、私は感じた。
あれから二年が経って、私は戦闘用空母に改造された「かが」の応急工作員として乗艦している。早織は横須賀に赴任し、潜水艦乗りとして活躍しているようだ。ただ、水測だからあまりやることは無いらしいけれど……。
「あれ、栗原? あんたもこの艦艇勤務だったの?」
「えっ、五班ちょ……元へ、朧海曹!?」
私はと言うと、同じ「かが」の艦内で乗組員だった五班長と再会したのである。ここ二年のうちにどれだけ貢献したのかは分からないが、階級が上がって曹長になっていた。
「機関長……ですか」
「先任伍長って言うべきかなぁ。機関長は
「あ、なるほど」
私の知らない間に優秀になっているでなどと思いながらも、私と朧曹長は教育隊の頃の懐かしい話を艦内でした。
海をさまよう、この「かが」の艦内で。
いつ帰れるかも分からないのに、どうしてかこの時は不安よりも楽しい気持ちの方が勝っていた。
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