苦しまない為に

 廊下を歩いている時、典子は丁度司令室から出てきた亮を見かける。少し小走りで駆け寄り、彼に声をかけた。

「……なんだか、らしくない顔をしているわね」

 表情を落としているようにも見えるし、どこか悲しげにも見えた。これは何かあったなと思い、典子は事情を聞いてみる事にした。

「また、あの子になにか相談されたの?」

 亮は一つ頷きを見せた。

「市井二佐、お一つ聞きたいのですが、あなたには家族以外に大切な人はいますか?」

「それを聞くって事は、莉子の事を聞いたのね?」

 また一つ、頷く亮。典子は息をつき、

「私ね、莉子の事、あまり好ましくは思っていなかったのよ」

「? 何故……」

「ああ、これは聞いていないのね。莉子が防衛大に来る前、あの子は自身の弟に暴力を振るっていたのよ」

「そんなことが……ですが、それと市井二佐の何の関係が?」

 典子は歩くように促し、亮もそれに続いて歩き出す。

「私ね、小学校に上がる前まで、親から虐待されて育ったの」

「え?」

「だから、暴力とかそういうのを好ましいとは思わなくて。家族も顔は覚えてないかな」

 懐かしそうに呟く言葉は一つ一つに重みがあり、亮は嘘とは思えなかった。

「たまにね、あなたを一人の男の子と重ね合わせる事があるの。それが大切な人だったかは思い出せないのだけれど、それでもどこか記憶に残っているの。

 でもその男の子ね、もう連絡が取れないの」

「……」

 亮は何も言わない代わりに、深刻そうな表情をした。それで言いたいことが伝わったのか、典子は首を振る。

「ううん、死んだとかじゃないのよ。ただ……遠くに行ってしまって、もう後ろ姿さえも見られない。私から会いに行けば、また顔が見られる。ただそれだけなの」

「どこにいるんですか?」

「海外。カナダよ。なんて言ったかしら、リザ……? もう名前も忘れてしまったわ。思い出すってことは、少なくとも大切にしたいと思った人なのでしょうね」

 クス、と笑い、典子は続ける。

「ここの乗組員は女が多いし、且つ旦那や彼氏がいる人が結構いるから……恋愛相談には困らないんじゃないかしら?」

「まぁ、そうでしょうね」

 どこか腑に落ちない様子の亮を見て、典子は「もしかして」と小声でつぶやく。

「あなた、彼女出来たことないの?」

「ないです」

「って事は、恋心もないと?」

「……ないです」

 典子は思わず吹き出してしまった。怒り半分で「からかわないでください! 知らないもんは知らないんですよ!」と叫ぶように声を荒らげた亮に、「ごめんって、ごめんってば!」と、未だ笑いながら典子は返した。

「いやぁ、そりゃあ分からんよね! 二十四年間彼女出来たことなかったら、そりゃあ恋心っつうんもピンとこんわ!」

「方言出てますよ、市井二佐。どこの方言ですかそれ……」

「え? あぁ私青森出身だから、たまに八戸弁というか、田舎口調がポロッと出ちゃうのよね。失礼失礼、本来は標準語で話すように努力してるんだけど訛りにゃ勝てないわね」

 方言、と言ったことに亮は思い出したように、

「それって、茉蒜がロシアの血を多く継いでいるのと同じようなものなのですか?」

「それはまた違うわよ。俗に言う「混血児」ってやつ。日本とロシア、それにあの子の親族や親戚は色々な国の人がいるものだから、他の国も混ざっている可能性もあるわね」

「例えば?」

「スペイン、イギリス、中国、台湾、フランス、イタリア、ルーマニア、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド……もう数え切れないほどいるわ。私はもちろん、茉蒜本人でも覚えていないもの」

 眼鏡を外し、眼鏡拭きを手に被せてレンズを拭き始める典子は、困ったように笑う。

「でも不思議なのは、父方の親族に海軍の人がいたっていうこと」

「海軍?」

「敵兵を救助した艦長……工藤俊作って言えば、もう話は早いでしょ?」

 工藤俊作。東北出身の田舎育ちで、幼い頃から海軍に憧れて入軍。中佐にまで登り詰めた時、雷の艦長を任され海の戦場を駆け巡り、撃沈された英国艦艇の乗組員四四二人を救助してカナダの病院船へ引き渡したという、後世にも伝えられている有名な海軍軍人だ。

 茉蒜はその工藤俊作の存在を知り、色々調べていくうちに親族の一人だということが判明し、憧れを抱いて日本の海上自衛官になろうと決意した……そう典子は話した。

「まぁ、あの子のお父さんも海軍軍人だし、少しばかりの影響を受けたのは他でもないみたいだけど、大きな理由は工藤俊作だったそうよ」

「そんな理由があったんですね」

 眼鏡拭きを仕舞い、典子は再び眼鏡をかける。

「逆に浅野三尉、あなたはどうしてパイロットになったの? 聞けばあなた、テストパイロットに選ばれたことにあまり喜びを感じていないらしいじゃない」

「情報網が恐ろしいですね。なんで分かるんですか」

「幕僚長と仲のいい人って、そういうものよ。幹部内はいつでも情報共有の空間なんだから。もちろん、これは茉蒜も知っているわ」

 緩く解いていた手を、ほんの少しだけ力を入れて拳に変える。典子はそれを見逃さなかった。

「話したくないなら強要はしない。ただ固い意思がある事だけは、あなたが操縦機を握るその拳で分かるわ。……何か、特別な思いがあるようね」

「ええ。誰にも話したことの無い理由ですから」

「それは茉蒜にも?」

 そう言われ、亮は声を零す代わりに頷きを見せた。

「怖いの?」

「いいえ」

「悲しいの?」

「いいえ」

「……苦しいの?」

 亮の身体がほんの少しだけ跳ね、目が開かれる。すぐに元の無愛想な顔に戻り「いいえ」と口にした。

「そう。素直な子ね、浅野三尉は」

「どこがですか」

「だってあなた、顔に出るんだもの。それと、あなたの顔、それと手を見たら、誰を護りたくてここにいるのかが分かるのよ」

 そう言われ、亮は自身の手を見る。何の変哲もない自分の右手。典子の手は綺麗な手だ。傷一つ無く、手入れがしっかりなされているものだと目で分かる。

「人は手は、その人がどれだけ苦労したかを知ることが出来る証拠。あなたの手は女性のような可愛い手だけど、ちゃんと強くなる努力をした事が目に見えてるわよ」

 そう言い、典子は亮の手を指さす。指を指したところには、亮が先日に負った傷跡が残っていた。その日は部屋に自室にずっといた日であり、手のひらに小さな切り傷を作ってしまったのだ。

「操縦機のシュミレーション、してたんでしょ。その時に負った傷だって言うのは茉蒜から聞いたわ」

「茉蒜にも言って無かったんですよ、これ。なのになんであいつ……」

「そりゃあ幼なじみだもの。分からないとおかしいわ」

 

「市井二佐、あなたはどうして自衛官になったんですか?」

 そう聞かれ、典子はキョトンとして亮を見る。やがて口角を上げ、

「護りたくて、救いたかった人がいたから」

「護りたい……人?」

「ええ。自衛隊というのは、苦労した手で人を救う仕事の事よ。努力の影は現実には見えないけれど、誰かを助けたいって気持ちで色々な物を持ったその手は、いつか誰かに気づいてもらえる。私や茉蒜のような、少し苦労をした人とかにね」

 茉蒜が今までどのような過去を背負って艦長の座にいるのかは、亮が想像するに難くない。だからこそ亮は、今まで茉蒜が背負ってきた過去や苦労を共に背負いたいと思っていた。だが茉蒜はそれを拒んだ。背負うのは一人でいいからと、そう言って。

「そう言えばあいつ、艦長室にあった兎のぬいぐるみを触った時、変なことを言っていたような……」

 それを聞いて、典子は驚いてこう返した。

「え? あれをあなたに? あのぬいぐるみを触らせてもらえるの、私と広瀬一佐しかいないのよ?」

「え?」

「珍しいことをしてもらったのね。何かしたの?」

「まぁ、あれ、俺が小さい頃にあげたものですし。あまり覚えてないですけど」

「あぁ、そういう繋がりね。道理であの子、亮の話をしている時兎のぬいぐるみを離さない訳よね」

 典子は微笑みながら話を続ける。

「でも、触らせて貰えるってことは、相当あなたに気を許してるってことよ」

 女の子って考えていることが分からん……!(雅美含まず)

 亮は悩むように頭を抱える。これだから女子は嫌いなんだ。表情が手に取るように分かっても、思っていることや考えていることなんざ指ですら触れられない。

 クス、と典子は笑い、また口を開いた。

「私の義母さんが読んだ中国のお話に「山月記」って物があってね。自尊心の強い主人公が、ある日突然虎になるお話。その虎になった主人公が言ったの。「人生は何事をも成さぬにはあまりに長いが、何事をも成すにはあまりにも短い」って」

「それ、どういう意味ですか?」

「人生に目標が無く、ただ日々を過ごすなら時間は有り余るほどあるけれど、目標ができて、それを叶えるにはあまりにも短すぎるっていう意味。

 半分負け惜しみみたいな言い方だけど、一〇〇年の間まで愛せるかどうかを聞かれているのが今の年代、一〇〇年の間にどれだけ愛せたかを聞かれるのが年老いた年代って、そう義母さんさんから聞いたことがあるわ。あなたには特別な思いがあるようだし、あの子の過去に寄り添ってみるのもいいんじゃない?」

 茉蒜の過去に。

 言ったところで、話してくれるかどうか。なんて、亮は半ば諦めモードだった。

「そんな気を落とさないの。あなたにならきっと話してくれるわよ」

「そうですかね」

 亮の頭に手を置き、「大丈夫大丈夫、茉蒜は頭堅いけど、男の子らしい事されたら一発で堕ちるから」と悪戯そうに典子は笑う。

「それにあなたの事だから、どうせ茉蒜に「まだ作業残ってるの思い出したから」って言われて追い出されたんでしょ?」

「なんで分かるんですか……」

「私はあの子の親友よ? 分からなきゃおかしいわ」

 自分よりも大きな手で撫でられる亮。その手は小さな頃に感じた茉蒜の手のように感じ、少し懐かしい気持ちに覆われた。

「副艦長、艦長がお呼びです……ってあれ? 亮、どしたのそんな副艦長に撫でられて。何か嫌なことでもあったの?」

 典子に声をかけた雅美が驚いた表情をして亮に問いかける。亮は無言で首を振り、ただ典子に撫でられるがままだ。

「ちょっとね。田口三尉は彼氏持ち?」

「はい、この艦内にはいないですが」

「田口幕僚長もさぞ喜んだでしょうね」

 典子の言葉に、「すごい喜んでましたね。パパ、よく艦長のお話しますよ。黛一佐と仲いいからよく一緒に食事行くんだーって自慢してくるんですよ?」と、少し困ったように言った。

「もしかして、艦長との関係の事ですか?」

 恐る恐る雅美が聞くと、典子が何も言わずに一つ頷く。

「あなた達の歳頃の時、私何考えてたかしら……四年前だから、産まれた娘を旦那と二人して可愛がってた時期かしらねぇ。恋心なんて無いって思ってたけれど、いざ彼氏が出来ると意識しちゃうのよね」

「意外です、娘さんいたんですか!」

「今四歳だけど、遥名はるなって女の子がいるわよ。ミリオタな旦那命名。きっと戦艦榛名せんかんはるなから取ったんでしょうね」

 二人の話を無言で聞いていた亮が「二人は……」と口を開く。

「?」「?」

「二人は、彼氏や旦那をどう思ってるんですか?」

 亮の意外な質問に、目をぱちくりさせながら彼を見る典子。

「護りたい人?」

「可愛い?」

 それぞれの回答に、亮はため息をつき、

「雅美のは全く参考にならない。つかなんだよ可愛いって」

「えぇーっ! そりゃあ、亮が艦長のこと可愛いって言ってるのと同じだよー!」

「どういう事だよ?」

「艦長見かける度いっつも私の隣で可愛いって呟いてるの聞こえてるんだからね?」

「んなっ、お前! いっつも聞かないふりしてたのか!」

 半分怒り口調で雅美に叫ぶ亮を、典子はにやにやしながらじーっと見つめ、「あなた、そんな事思ってたの……」といじわるそうに言った。

「か、からかわないでください! 人一人はこういう感情持ってるでしょう!?」

「ごめんなさい、あまりにも意外だったものだから……。でもその気持ち、大切にしておいた方がいいわよ」

「茉蒜の父親みたく言わないでくださいよ」

「言わなきゃいけない事なのよ。その気持ちが将来、大勢の人に感謝を告げることになるんだから」

 亮はあまりピンとは来なかった。自分の姿が想像できなかったからだ。まだ歳もいっていない故に考えも堅い。二十四年間働かせた頭は、もはやショート寸前だった。一方、雅美の方はうんうんと頷いて話を聞いており、「副艦長既婚者だから、お話結構役に立つんですよね」とニコニコとしていた。

「そんな役に立つ話じゃないわよ? 私は自分が経験したことをそのまま言っているだけなんだし」

 微笑み、典子は二人の頭に手を置く。見上げた二人を見てクスッと笑い、

「あなた達、ほんと子供みたいね」

 まるで自分の子供を諭すかのように呟いたのを、二人はしかと聞いていた。

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