モスクワ

 仮眠が終わり、茉蒜が艦橋に戻ると、何やら艦橋の様子がおかしいことに気づいた。

 皆が左を見つめたまま動かないのだ。茉蒜が今いるのは左舷側、ちょうど皆が茉蒜側を向いているということになる。少し早足ではしごを上がり、艦橋のドアを開けた。

「おはよ、どうしたの?」

「茉蒜おはよう、左舷側のあれ、見える?」

 典子が慌てた様子で艦首の向こうを指す。

「んー?」

 救命胴衣を着ながらその方向を向くと、そこには一隻の艦艇がいた。三脚檣さんきゃくしょうの頂部に巨大なアンテナを直接取り付け、三次元レーダーを装備している艦艇だ。

「『モスクワ』……? どうしてここに?」

「モスクワ!? どうしてそんな古い艦艇がここにいるんだ!?」

「詳しくは分からない。もしかしたらあちらの艦艇も戦う気は無いのかもしれないけど……総員には戦闘用意はさせているし、一応気を緩めないでおきましょう」

 就役一九六七年、第二次世界大戦後に作られた艦艇「モスクワ」。その名の通り、ロシアの首都モスクワから命名された艦艇で、速力三十ノット、連装型対空ミサイルA─N─3発射機が二基、その他にもロケットランチャーや魚雷発射機等も搭載している、キエフと同じく危険な対潜巡洋艦だ。

 国際信号で挙げられている旗は、赤と白の柄をしており「あなたは危険に向かっている」という意味を示していた。

「危険? どういう───」

 そこまで言ったところで、茉蒜は何かに気がついたかのように顔色を変えた。

「もしかして、あいつら……」

『艦橋、艦橋! こちらCIC! モスクワが魚雷を三基発射確認!』

 内線から唐突に聞こえてきた乗組員の声に、「やっぱやるか……」と不機嫌そうに茉蒜は呟く。

『魚雷発射管、外扉開口音探知!』

『左舷側、向かってきます!』

「絶対撃ち落とす! 左甲板魚雷防御装置一番から三番、発射用意!」

 その指示に、魚雷員が忙しなく動き、配置についていた。

『自動追尾装置の目標データ、入力完了!』

「てぇーっ!!」

 左舷側から魚雷防御装置が発射される。水中では、モスクワの放った魚雷と、かがの放った魚雷防御装置が、互いへ互いに向かい合っている。

『魚雷防御装置三基発射確認! 目標迎撃コースへ、目標との距離三十!』

「接触まで三十秒って所ね……」

 あとはじっと待つしかない。

 茉蒜は艦長席に座り、艦橋から左舷側にいるモスクワを見つめる。

 ───あれはさっきのキエフとは違って、最初から威嚇体制に入っていた。それにあの国際信号、ただの「危険」では無いような……?

『艦橋、艦橋、こちら航空管制室。広瀬だ。聞こえるか?』

「こちら艦橋、どうしたの?」

『俺達は無事に日本に帰れると思うか?』

 その質問に、茉蒜は少し考える。

「帰れると信じるのが自衛隊よ」

『接触まで十秒!』『八……』『五……』と、カウントダウンをする乗組員の声を背に、茉蒜はモスクワを見つめながら言った。

「それにね───」

 三十キロ先で巨大な水柱が上がる。それも三つ分。

「日本は私の母国では無いけれど、父が愛していたこの国を、私も守りたいの」

 照れくさそうに言った茉蒜の声は、艦橋によく響いていた。

『全弾命中! レーダー消失確認!』

「何とかなりましたね……」

 力なくその場にしゃがみこむはなだを見た音羅が「こら、課業中にお行儀が悪いったら」と子供を叱るように言う。

「茉蒜、CICには行かなくていいの?」

 典子が茉蒜の隣で問いかける。

「行かないよ、なんで?」

「いいえ、気になっただけよ」

「それ、私も気になってた〜。なんで行かないの? 普通はCICにいるはずなのに」

 典子に続き、操舵をしながら姶良が声を上げる。

「……だって、暗いし、目を悪くしそうだわ」

「でも艦長の技量なら、CICでも行けそうだけどねぇ〜」

「そんな事ないよ。私だってまだペーペーな艦長なんだから」

「自分で言うの……」

 典子が控えめに言ったところで、航空管制から内線が入った。

『艦橋、艦橋、こちら航空管制室、黛艦長応答願う。どうぞオーバー

「へぇい艦長だよ」

『念の為だが、戦闘機を偵察に出させて見てはどうだろうか? 相手も戦闘機を積んでいる、発艦する可能性は極めて高いぞ』

「それもそうねぇ……分かった。浅野三尉を発艦させて。連絡は広瀬に任せる」

『了解』

 茉蒜は双眼鏡を自身の右横のテーブルに置き、左舷側へ移動して遠くにいるモスクワを見据える。

「艦長、双眼鏡無くて見えるのか?」

 努が不安げに質問した。

「私の目は五キロ先にいる鳥が何かを当てることが出来るのよ?」

 言いながら、茉蒜はモスクワの甲板に目をやる。こちらの様子を伺っているのか否か、一向に動こうとしないモスクワの甲板上には、モスクワと同じく一九六七年製の「スホーイSu─15」が二機、一九七〇年製の「ツポレフTu─26」が三機、対潜用ヘリコプタが六機、確認できるだけでも十一機は搭載されている。

 ───でも一体、なんのために?

 茉蒜は考えに考えた。ヘリは偵察用? 撃墜された時に、予備として使うのだろうか。あのヘリは対潜用、対空用に改造でもされていなければ、使うことはまず無い。

 これでは自身の父の言っていたことと、今起こっていることが矛盾しているではないか。

 茉蒜の父、成実は「日本を、止めろ」と、確かに手紙に残していた。しかし今起きているのは確実なる迎撃であり、これを上層部に報告してしまえば、日本は炎上してしまう。おそらく、デモも起こることであろう。

「自衛隊って、難しいのね」

 ボソッと呟いた茉蒜に、「茉蒜、内線よ」と、典子がマイクついたヘッドホンを手に取りながら茉蒜に言う。礼を言い、再び艦長席に座りヘッドホンに耳を当てた。

『茉蒜、聞こえるか? 俺だ』

 声の主は亮であった。

「えぇ、聞こえるけれど、課業中は艦長でお願いするわ」

『そりゃあ失礼。今回の任務は?』

「敵艦の偵察、及び迎撃」

 その一言に、艦橋内が一気にざわつく。

「茉蒜、あなた迎撃なんてしたら日本がどうなるかくらい分かるでしょう?」

 典子が茉蒜の肩を掴む。

「確かめたい事があって」

 短く返し、亮に向けて言葉を続ける。

「あくまでも私の予想だけど、あのスホーイ……もうすぐ発艦すると思う。さっき見た時に、ほんの少しだけど陽炎が見えたの。恐らく私達と真っ向から戦うつもりよ。だから、もしあちらが迎撃をしてきたら、発砲及び反撃を許可するわ」

『いいのか? 俺に戦闘を任せると大変な事になるぞ』

 少しばかり驚いたような声のトーンで返す亮に、

「大変な事になった方が面白いわ」

 頬に一つ冷や汗をかきながら、茉蒜は口角を上げた。

 艦橋の者達には、茉蒜がまるでこの戦闘を楽しんでいるかのように思えた。

 思うしかなかった。茉蒜が艦橋で、このような表情をした事がなかったのだから。一見普通にニヤリとしているかのように見えるが、艦橋で茉蒜と共にしてきたメンバーには違いがすぐに分かるのだ。

 そんな茉蒜を心配するかのように、典子だけは目を細めて見据えていた。と言うものの、その姿は「ちょうかい」艦長である若竹樅わかたけもみ二等海佐の面影にそっくりだからだ。若竹は茉蒜達と同期であり、普段は面倒くさがりだが、いざ戦闘となると「行くぜ罪人共! 今宵は鉄祭りじゃあ!」とやけにテンションが高くなる人物である。

 どうか若竹の様になりませんように……と、典子は心の中で密やかに願っているのである。


 ***

 

「一番機、発艦スタンバイ!」

 航空整備員が叫ぶと同時、亮の乗るYF─23J一番機の機内無線から声が聞こえてきた。

『ユービー1、ユービー1、こちら航空管制室』

「こちらユービー1」

『二度目の偵察だな。緊張は解れたか?』

「いいえ、最新戦闘機の機内は慣れませんね。いつも訓練で使っている練習機とはまた違った心地です」

 不服そうに答えた亮に、『そうか。まぁ無理はするなよ』と広瀬はフォローに回る。

『お前の彼女さん、意外と素直な子なのな』

「なっえっ……? ちょ、はっ!? 誰が流したんですかその噂!」

 珍しく動揺した口調で広瀬に尋ねる亮。それを航空管制室で聞いていた雅美が、

『私でーす!』

 内線越しに元気よく声を上げた。その声が、亮には煽りにしか聞こえなかったらしく、

「いやいや私でーすじゃねぇよ! まだ決まったわけじゃねえから、変な噂流すなよ、それで艦内中に知れ渡ったら───」

「ごめん、もう手遅れ☆」

「やりやがったな雅美! それに昨日のはあいつに誘われてだな、俺は否定したんだぞ、本当だからな!」

 珍しく声を荒らげた亮の声を聞いて、『浅野三尉、こんな声出せるのか……』と感心したように広瀬が呟く。

「広瀬司令もからかわないでください! 男なら分かるでしょうこの気持ち! 煽られてるんですよ俺、根も葉もない噂流されてるんですよ!」

『艦長の事になるとすぐにオドオドするんだから、面白いよねぇ亮って!』

「雅美、お前もうるさい! あーもう、調子が狂う……!」

 うんざりした顔でヘルメット越しに手を当てる亮。雅美は広瀬の後ろでクスクスと笑っており、ますます亮の顔色は悪くなる。

『まぁその、何だ。その彼女の為にも、お前が頑張らねばならん。最善を尽くすよう善処しろ、いいな?』

 一つため息をついた亮は「分かってますよ」と、かなり投げやりになっていた。

『彼女さんからの発艦許可が出たぜ。健闘を祈る!』

「……了解、ユービー1、発艦する!」

 速度を上げ、蒼穹へと飛び立つYF─23J。航空管制室でそれを見ていた二人は内線を切り、顔を見合わせた。

「ね? 亮ってば、艦長のお話になるとすぐああなるんですよ」

「本当だった……」

「でしょう? 発艦前に亮と話してて正解ですわ〜。パパにも言っておかなきゃ」

 左へ旋回した戦闘機を見据え、雅美は呑気に呟く。

「そういえば、お前の父親は幕僚長なのだったな」

「統合幕僚長なので、各地方じゃなくて、それをまとめている幕僚長なんですけどねぇ。艦長ともお知り合いみたいですし、いつか二人のことを話す機会があるのかもしれませんね。今は連絡取れないのであれですけど」

 不安げに呟いた雅美の頭に手を置き、広瀬は手に持つコーヒーの入ったコップを揺らす。

「大丈夫だ。あの艦長なら、絶対に横須賀港へ帰ることが出来る」

「根拠が無いですよ」

 コーヒーを一口で飲み終えた広瀬は、「根拠ならあるさ」と親指で自身の後ろを指す。

「?」

「こいつらは全員、黛に助けられた者達だ」

「え?」

 航空管制のメンバーを見て、雅美は驚いたように声を上げる。

「俺、実は自衛官候補生から来てまして。艦長には勉強でお世話になったんですよ」

「私は恋愛相談で」

「俺は抜錨で事故りかけた時にすぐ対処してくれたのが黛艦長だったなぁ」

「あたしは海に落下して怪我をした時に!」

 次々に口にするメンバーに、雅美は呆気に取られてしまった。

「もちろん俺も、ひゅうがの時に助けられたさ。九死に一生を得るってやつだな」

「凄い……胸に付けてる徽章の数だけありますね」

 感心したように言う雅美に、「いいや、あれはあいつだけの成果じゃない」と、広瀬は付け足す。

「成果は人を変える。しかしあいつは、数々の人々によって賞賛された、あいつだけでは背負いきれない成果の証を持っているんだ。充分に讃えてもいいだろうに、一向に認めようとしないんだぞ? 「私の他に頑張っている人もいるだろうから」って言ってな。だからこの戦が終わったら言いたいんだ、よく頑張ったって」

 テーブルに置いたコップの底に、僅かに残るコーヒーの雫を見る。反射して外の景色を映すその雫には、広瀬の目も映っていた。

「まぁでも、あいつのことだ。きっと一人で頑張ってきたんだろうな」

「でも広瀬飛行長、艦長には幼なじみのような存在がいたと聞いたのですが、それは一体誰なんでしょう?」

 首を傾げ、雅美は不思議そうに質問する。

「ん? あぁ、汐奏二佐のことか?」

 広瀬は思い当たる名を呼んでみた。雅美は更に首を傾げ「汐奏……二佐?」と復唱する。

「そう。黛と同じ北海道の育ちで、今は舞鶴基地の方にいるみたいだぞ。ちなみにお前らよりも一つ年下」

「ひとっ……」

「で、去年二佐になった子」

「かんっ……!? 待ってください、それでは准尉からなのでは!?」

 さらりと教えられた事実に、雅美はパニックになりながら声をあげる。

「黛と同じ防衛大卒だよ。まぁ黛と汐奏ちゃんは五つ離れているみたいだし、黛が卒業した二年後に入ってきたとは聞いたな。度々横須賀でも会っていたようだから、かなり仲はいいと思うぞ」

「あ、防衛大卒……私達よりも優秀じゃないですか」

「ぶっちゃけ言えばそうだな。重ねた年数や経験はお前らの方が上だがな。黛に言ったら話してくれるぞ」

「へ、へぇ……」

 艦長の事は航空基地にいた頃から知っていたけれど、そんな子が幼なじみだったのね。

 腕を組み、雅美は納得したようにうんうんと頷く。

 実際、艦長である茉蒜がどのような過去を辿ってここまで来たのかなどは、詳しくは分からない。それでも雅美にとって、茉蒜という存在は小さくて大きな存在だった。父である田口雄一たぐちゆういちからしばしば話は聞いていたものの、何せ航空と海上。勤務地も違えば、する仕事さえも違う。故に今ここで忙しなく動く茉蒜を見聞きして、初めて艦長という仕事がどれだけ大変なのかが分かる気がした。

「海上の女性幹部は、意外と馬鹿にされがちだ。それでいて嫌われやすい。その中で逞しく生きる彼女には、しばしの休息だって必要だろう。だから、疲れている顔をしていたら、遠慮なく休むように言ってやってくれ」

「初めからそのつもりですよ」

 眉を寄せて微笑む雅美。

 広瀬は少し安心したのか、あまり見せることの無い微笑みを、珍しく見せたのだった。

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