第266話 新しい日々



「おい、リディア!? その姿はどうしたっ!?」

「え……いや、べ、別になんでもないぞ?」


 明らかに追及されて動揺しているリディア。そう、彼女は自宅に戻ってくるとちょうどアビーとばったりと出くわしてしまったのだ。


 レイとリディアは汗でドロドロであり、それに少しだけ土で汚れている。特にレイには無茶な捕球をさせていたので彼の方はかなり汚れている。


 まだ心の傷が治っていないというのに、この扱いには流石にアビーも怒ってしまうのだった。


「明らかにおかしいだろうっ! まさか、レイに何かしたのかっ!!?」

「いや……その、一緒に遊んだだけだぞ?」

「遊んだだけだと!? 本当なのかっ!?」


 ギュッとレイを抱きしめると、アビーはリディアをきつく睨みつける。元々レイと外に出るという話は聞いていた。今日は彼女は軍の方で用事があったので、ちょうど出ていたのだが……帰ってくると泥だらけのリディアとレイがいたのだ。


 流石のアビーもそれには驚いてしまう。そうして二人で話をしていると、キャロルもやってくる。


「やほやほ〜☆ キャロキャロが来たよ〜って……あれ? どうかしたの?」


 いつもの調子で室内に入ってくるキャロル。そんな彼女もまた、室内の異変に気が付く。今はリディアは正座をさせられており、アビーが怒りの形相でリディアを睨んでいる最中。


 レイといえばただ無表情のまま、その様子を見ていた。


「キャロル。ついにリディアがやらかした。どうやらレイに無茶なことをさせたらしい」

「だからっ! レイも楽しんでいたんだぞ! ほら、本人に聞いてみろっ!」


 あまりにも迫真な様子でそう声をあげるので、アビーはレイに話を聞いてみることにした。といってもまだ十分に話すことはできないので、試しに聞いてみるか……という程度のものだったか。


 そしてアビーはレイと視線を合わせると、彼に問いかける。


「レイ。リディアと遊んだのか?」

「……うん」


 コクリと頷く。その様子を見て、アビーは無茶はしていないのかも……と認識を改める。


「泥だらけだが、何かあったのか? 大丈夫なのか?」

「……」


 ボソリと呟く。聞こえなかったので、アビーはもう一度尋ねてみることにした。


「レイ。もう一度言ってもらっていいか?」

「……キャッチボール」

「キャッチボールをしたのか?」

「……うん」


 レイはそう答えるだけで、あとはいつものように話さなくなってしまった。


「どうやらリディアの話は本当のようだな」

「嘘は言ってないって! だから早く解放してくれ!」

「……で、どんなキャッチボールをしたんだ?」

「……えっと。それは……」


 アビーは長年の付き合いだからこそ分かっている。リディアとキャッチボールをするということが、どんなものになるのか。彼女の基準で考えれば、そのスポーツはまさに異次元になる。


 それに互いに泥だらけなところを見るに、尋常ではないキャッチボールをしたことはすでに自明だった。


「いや、別に普通だぞ?」

「お前まさか……本気で投げてないだろうな?」

「いやちゃんとセーブしたぞ! まぁ……最後には八割くらいで投げていたが……」

「八割っ!? お前の八割をレイに取らせていたのかっ!?」

「だ、だって! レイの身体能力はすごいんだぞ! 私のボールを難なくキャッチするんだ! そりゃあ試したくもなるだろうっ!?」

「は、はああああああああああああっ!!!?」


 リディアの八割でキャッチボールをするなど、死にに行くようなものだ。それを幼い子どもに強いるなど、あってはならない。そうしてアビーがさらに説教をしようとすると、袖がくいくいと引かれる。


 アビーを見上げるようにして、レイがその場にいた。彼はアビーの袖を引っ張ると、ボソリと呟いた。


「……ししょう。わるくない、よ……いっぱいあそんでくれた……」


 ぎこちない言葉だった。それに表情も淡々としていた。しかしその言葉を聞いて、アビーは胸が強く打たれたような感覚に陥る。



「レイちゃんっ! うわああああ、もうっ! 本当に可愛いんだからっ!」


 と、そんなレイの様子を見たキャロルはギュッとレイに抱きつく。その豊満な胸で彼の顔を包み込む。レイは特にそれを反応を示すことはなかったが、ただじっとアビーのことを見つめていた。


 それはまるで──もうリディアのことは怒らないでほしい──と訴えているような瞳だった。


「ふぅ……リディア」

「な、なんだ?」


 本気でキレるアビーには頭が上がらないので、正座のまま彼女の様子を窺うリディア。


 リディアは場の空気が少しだけ弛緩していくのを感じ取っていた。


「レイに免じて、今日は許してやろう」

「そ、そうか……それは助かる」

「ただしっ! 今後は私も付いていくからなっ!」


 ビシッと人差し指を立てると、リディアの胸にそれを押し付ける。どうやら今日は無事に説教を終えることができそうだと、リディアは思った。


 そしてレイといえば、ただずっとキャロルのおもちゃにされているのだが……その視線はリディアのことをずっと見つめていた。



 ◇



「レイちゃん。痒いところはない?」

「……うん」


 浴室。そこにはキャロルと一緒に風呂に入っているレイがいた。特に恥ずかしいという気持ちもないので、彼はなされるがままだった。


 キャロルはニコニコと微笑みながら、レイの体を綺麗にしていく。彼女としても母性本能が刺激されるのか、レイの面倒をみるのを本当に心から楽しんでいるようだった。


「よし! じゃあ、お湯に浸かろっか」

「……うん」


 そして浴槽へと入る二人。レイはキャロルの膝に乗るような形で、ゆっくりとお湯に浸かる。そして彼女は優しく彼の頭を撫でるのだった。


「レイちゃん。今日は楽しかった?」

「……うん」

「キャッチボールしたの?」

「……うん」

「そっか。それはよかったね」


 それ以上、キャロルが何かを聞くことはなかった。ただ優しくレイのことを撫で続ける。そんな時間がレイもまた落ち着くようで嫌がる素振りを見せることはない。


 もっとも数年後には、レイはキャロルのことが本当に苦手になるのだが……それはまた別の話である。



「よし。レイ、今日はちょっと勉強をしよう」

「……うん」


 風呂から上がると、待っていたのはアビーだった。メガネをかけて髪の毛をポニーテールにしてまとめていた。


 そんな彼女の手には書籍があった。彼女はそれをテーブルに広げると、レイに座るように促す。


「レイ。読み書きはできるのか?」

「……」


 首を横にふる。


 彼は自分の意思をよく示すようになっていた。


「よし。では私が今後は教えよう。大丈夫だ。リディアと違って、私は優しいからな」

「……うん」


 そしてレイはアビーに読み書きを教えてもらうことになった。そこで彼女は驚いたのだが、レイは異様に飲み込みが早いのだ。


 身体技能の高さはリディアの話である程度は把握しているが、こんなにも賢い子どもだとは思ってもみなかった。


「レイ……すごいな。全部正解だ」

「……これ、かんたん」


 鉛筆でトントンとページを叩く。レイは直ぐにある程度の読み書きを覚えてしまった。そしてアビーは優しい声で、彼に告げる。


「次は算術でもしようか。計算は大人になるには必要だぞ? 計算ができないと簡単に騙されてしまうからな」

「……がんばる」


 その際に、レイは微かに笑った。本当にわずかだが、笑ったのだ。そんなレイの様子を見てアビーは本当に彼のことを愛おしく思ってしまう。


 ──あぁ。きっと、親心というのはこのような感情を言うのだろうな。


 そして彼女はレイに丁寧に勉強を教えていくのだった。

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