第六章 襲撃

第24話 怖さにも涙にも止まらぬ足取り

 これから先、どんな怖いものが待ち受けているのか?

 お市は、あの怖い血風を身体中から撒き散らしていた男の事を思い出していた。

 思い返すだけでも、足が萎えそうになる。

 でも、皆の笑顔を増やすために、自分にしか出来ない事で皆を援け、この怖い騒動が早く終わるように手伝わなければ。


(山神様、山の皆に縋り力を借ります。もし、私が間違えているのなら、私だけにバチを当てて下さいまし。決して命を粗末にはしません。でも、危ない橋を渡ることをお許しください)


 お市の願いが心の中に鳴り響き、樹々が山々がその願いを飲み込んでいく。

 背負子の籠から飛び出した、お市の気持ちに敏感な黒丸が、しっかりと見上げながら、勇ましく「わんっ」と吠えた。

 

「そうね。そうする。宛にさせてもらうね。有難う黒丸」


 黒丸が、「大丈夫だ。任せておけ」と言っているように藤次郎にも聞こえた。

 強い気持ちがあれば、何事も通じる。

 そんなことは、姉の不思議を見なくても知っている。

 では、自分も自分なりに動いてみよう。


「姉さん、番屋の前に湯守様の御屋敷に寄ってみよう。何か話が聞けるかもしれないし、外から様子を眺めるだけでいいから」


「分かった。折角だから、お豊おば様の御顔だけでも――」


「いいや、駄目だよ。気持ちは分かるけど駄目だ。姉さんは外から眺めるだけにして欲しい」


 藤次郎ははっきりと首を横に振った。

 此処ははっきりとしておくところだ。


「姉さん。おいら達は余所様からしたら只の童だよ。お母っさんが見送ってくれたのは姉さんの不思議を知っているからこそで、今、御屋敷に顔を出したら、おいら達は匿われてしまう。無理矢理にでもね。だから、駄目だ。おいらが誤魔化しながら話をする。其の為の用意も忘れていないよ」


 そう言いながら、背中に括りつけたむしろを指して不敵に笑う。

 お市は、そんな藤次郎に、


「ありがとう。藤次郎。本当にありがとう」


 心よりの礼が気持ちから湧き上がり言葉となる。

 しみじみと奥底まで藤次郎の気遣いが染み渡り、怖さも随分と追い出されていく。


「それも分かった。じゃあ、善は急げね。行こう」


 お市とお市と藤次郎は胸中に過ぎる様々な想いと向き合いながら、只管に走っていた。

 その足元を、黒丸が黒い風となって疾走している。

 まだ完全に見えているわけでは無いし、傷も癒えていないが、その脚運びは躊躇なく不安のあるものでは全くなかった。

 向かうは湯守り長者の屋敷である。



「カアカアカア」


 あの商人風の怖い男―― 霞の権蔵には、翼のすっかり治った墨助達の鴉一行がしっかりと後を追っており、時折場所を教えてくれている。

 此処にいると声高に鳴いてくれているのだ。

 見つけられるのなら、後は長者様の屋敷に構えている捕り方衆に伝えればいい。

 皆、武辺者で頼もしい人達だ。彼らの力をまずは借りよう。

 解決するのが早くなるはず。


 そう意気込んでいたお市と藤次郎は、早速出鼻を挫かれる事となって仕舞った。

 湯守り長者の屋敷は、騒然としており、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 どうやら、山人達の襲撃があったようだ。

 門や壁に刺さったままの矢玉は、まるで古老の話に聞く戦場のような雰囲気だ。

 傷の手当を受けている者に骸になっている者を選別しながら運んでいる者。

 涙を流しながら、仏様となった捕り方に手を合わせている御女中。

 その様子を見た途端、お市も藤次郎も自分たちの見込みの甘さを思い知らされて、取り決めたことなぞ、どこかへ吹き飛び二人揃って駆け寄って行った。

 お市も藤次郎もそれはそれは、青ざめた顔で、お市は心配の余り金切り声を上げた。


「お豊おば様っ、お豊おば様っ。ご無事ですかっ。市です。お市です」


「お市ちゃん。藤次郎ちゃんっ、無事だったかい」


 裾を端折り袂をたすき掛けにしたお豊が、捕り方衆を押し退けて、門前迄飛び出してきた。


「お福さんは? お福さんはどうしたんだい? 」


 お市と藤次郎の二人だけの姿に色めき立ったお豊だったが、安楽豊の様子を告げると顔色を元に戻した。


「そう、良かった。皆、無事でよかった。本当に良かった。お市ちゃんも藤次郎ちゃんも、二人とも怪我は無い?」


 お豊は落ち着きなくオロオロと、お市と藤次郎の躰を撫でまわすように、それは細かく見まわした。

 何処も何ともないと安心すると、女傑と呼ばれるお豊の顔に戻った。


「これ以上、大事なお人達に何かあったら、死んだ亭主に顔向けできやしない。お市ちゃん、藤次郎ちゃん。宿に戻って籠っていておくれ。此処を襲った連中は、湯守り様の男衆がやっつけて、這う這うの体で逃げ帰ったから、暫くは何も出来ないだろうし、代官所から酒井田様の手勢もおっつけやって来るまでの辛抱だから」


 お豊はそう言いながら、地に伏している骸を出来るだけ見せまいと、門の外へ外へと二人を押し出している。

 お市も藤次郎もそのことに気付けない程馬鹿ではない。

 仏様を見るのは初めてでは無いが、無惨な死に様が無造作に横たわるのを見たことなぞは有る訳もなく、藤次郎はあまりの事に現実味を感じ取れずにいたのだが、お市は違っていた。

 つぶらな瞳に一杯の涙を溢れさせ、ぽろぽろと涙を零しながらお豊へ、頭を下げていた。


「あたしは、あたしは、……今はまだごめんなさいも言えません。……こんな惨いことになるだなんて……あいつを……あたしが……」


 まるで、自分の所為だと言わんがばかりの表情であった。


「馬鹿なことをお云いでないよ。ほら」


 お豊がお市の涙を手拭で優しく拭き取ると、近くの柿の木の木陰に藤次郎共々連れだって、二人に諭すようにゆっくりと喋った。


「あたしはあの人を……安兵衛を亡くしてしまった。大切な家の者達も奪われてしまった。そんなあたしだから、二人に言えることがある。怖くてもいい、いいえ、たんと怖がって、怖がりきって、その後は、少しずつでいい、足元を見て前を見て後ろを振り返りながらでも、種が芽吹いて甘い実を着けて皆に美味しい笑顔を見せられるよう、思いやっておくれ。他ならない自分を思いやっておくれ」


 お市の肩に、藤次郎の肩に、力が入ったお豊の手の重さがしっかりとかかっていた。その手のしっかりとした重みは暖かく心地良い。

 お市は着物の袖を力一杯握りしめ、涙を目に溢れさせながら、大きく息をはいた。


「おば様。有難う。あたし、前を向くことしか知らないから、怖くても泣いても前を向く。足元は黒丸と藤次郎が見て教えてくれるから大丈夫。うんと用心して辰じいと清七さんが向かった番屋まで行ったら、直ぐに戻ります」


 すかさず藤次郎が、合いの手を絶妙に入れる。


「お豊おば様。私も黒丸もこの通り控えておりますし、先ほど仰った通り、暫くは大人しくしていると存じますので、番屋辺りは安心かと思われますから」


「わんわんっ」


 お豊は二人と一匹の顔をそれぞれしっかりと見つめると、ふう、とため息をついた。


「うん。分かった。お福さんもそれなりの覚悟で送り出したんだろうし、あんた達はあんた達なりに何かを見据えているんだね。それをどうこう言う訳には行かない。でも、こんな有様だから、危ないと思ったなら、きっと逃げておくれ」


「はい。必ず」


「お約束致します」


 頷く二人の手を取って、お豊が言った。


「あたしは暫く此処で、怪我をしたお人達のお世話をさせてもらうので、あたしの代わりに、番屋の辰さんと清七さんに、お豊が心配してたって言伝を頼むわね。辰さんが一緒だから大丈夫だろうけど、あたしを庇った清七さんの怪我の具合を良く聴いて頂戴ね」


「はい。きっとお伝えします」


「ご配慮有難うございます。しっかりと承りました」

 

 お市と藤次郎は静かにしかしはっきりと返事をすると、街道の入り口近くの番屋へと足を向けた。

 余りの事に言葉少なに足を進めるお市と藤次郎の表情は重く、目の色も暗い。

 しかし、いかに足取りが重くても、向かう行き先に迷うものでは無かった。 


「清七さん……」


 震える様な声で呟くお市。

 清七さんが、深手を負っている。もっと早く動いて居ればこんな事にはならずに済んだかもしれない。

 知らず知らずのうちに、歩く足が早足にになり、何時しか駆け出していた。

 もし、何かあったら。

 恐れと心配が交互に顔を出し、お市のみぞおちに重く圧し掛かり、締め上げて往く。


「姉さんっ」


 藤次郎が横を走りながら、いきなり放って寄越した竹筒に、


「何よ、これ」


 と受け止め、お市は怪訝そうな顔をしながらも一口飲んだ。

 鼻の中を紫蘇の葉の香りが満たし、シッカリ溶き混ぜられた蜂蜜の甘やかな味が口の中に拡がる。

 吃驚するほど甘く、爽やかである。

 藤次郎の粋な計らいに、ほっとするお市。


「ありがとっ」


 素っ気無く返事をし、竹筒を藤次郎へ投げ返すと、再び走り出すお市。

 その表情は険しくは有っても、憑物が落ちたような、我を保った顔つきで在り、先程とは雲泥の違いであった。

 藤次郎はそんなお市を見て、小さく笑みを浮かべると、同じく走り出す。

 黒丸は、大好きなお市と藤次郎を見上げながら、わんわんっと声を出し、尻尾を振りながら後へ続いた。

 黒丸はお市と藤次郎の二人に従って走っていることに、とても得意気であった。

 鼻につく血の匂いに密やかに闘志を駆り立てながら、用心深く後に続く。

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