第6話 思惑と思い遣りに拙い覚悟
旅籠大椛は、参勤交代の身分の高い侍が宿泊することのできる様に設えている旅籠である。
元々は武家の出である照が生計の為に始めた小さな旅籠であったのだが、女将である照のその侘び寂を心得たもてなしに、感じ入る武士達が多く、気が付けば脇本陣と同格として扱われるほどの宿場ではすっかり大きな構えの旅籠となっていたのだ。
その一室、床の間に河童の水墨画が飾ってある一番上等な客間で、陣代勤番の酒井田要一郎と米之助に、大女将の照、そして辰吉が畏まって控え、真剣な眼差しで話し合っていた。
「御久し振りで御座います。酒井田様」
辰吉が両手をついて深々と頭を下げる。
「この様な形でお主と再会するのは残念至極だな。辰吉」
「はい。左様で。ただそれだけのっぴきならない事であると承知して御座います」
「安兵衛が事、誠、無念で在った」
「御心遣い痛み入ります。安兵衛兄ぃが事も含めまして、色々御骨折りを頂戴し、何と御礼を申し上げて良いのやら、この通りです」
また深々と頭を下げる辰吉に、
「我等一同、誠に感謝に絶えませぬ」
と照が合わせて、皆揃って深々と頭を下げた。
「照様、お止め下され。これっ、皆も辞めよ。お主らとは先代からの付き合いだ。堅苦しいのは止せ。それにな。儂は先代初次郎に返しても返し切れぬ恩義がある。おつかわし屋に火急の儀有れば必ず助けると約定もした。此度、態々手勢を連れて来たのは、だからこそ、よ」
面を上げた米之助の顔には、かなり厳しい表情が浮かんでいた。
「酒井田様。矢張り危のう御座いますか?」
「はっきりと申すが、気を抜く暇は暫くないと思え。馬借で音に聞こえたおつかわし屋に、山人の賊風情が早々押し込んだりすることも無いとは思うが、重々気を付けた方がよかろう」
照が含蓄此処に有りという顔をして言った。
「酒井田様。それほどに、敵は手強いのでございましょうや?」
「照様。昔の通り要一郎で結構」
酒井田は昔を思い出したのか、一瞬目を細めて柔らかい表情になったが、すぐさま元の厳しい顔立ちに戻ると言葉を続けた。
「然り。その通りで御座る。源太なる者も、その兄貴分も、屑の悪党だがどうという事は無い小物。だが、問題はそ奴らが組んでいる徒党の頭がかなり手強く、これに手を焼いておる次第。誠に代官所として情けないことでござる」
辰吉は穏やかな表情のまま話を聴いていたが、突如口を開いた。
「怖れ入りまするが、どのような輩か、お聞かせ願えませんでしょうか」
頭を下げる辰吉に、酒井田は目つきも厳しく、
「教えるが、勝手に動くことはならぬぞ、辰吉。きつく申しつくる。良いな」
と念には念をしっかり釘を刺すと、ふうと一息ついて、湯呑の清水で口を湿らせ、言葉を続けた。
「奴等は古くから山を根城にする乱波の類の集まりで、頭も勿論乱波者だ。人を殺すも、集落に火を掛けるのもまるで厭わぬ。狡賢く立ち回り、眼を付けられたとみるや、縄張りすらあっさりと捨て去る。賭場にて、身を崩した凶状持ちを金や女で雇い入れ、いざとなったら使い捨てる。小賢しい悪知恵を弄する面倒な奴よ」
辰吉が腕を組みながら言った。
「安兵衛兄いは、その首魁を捕えようとなさっていたのでしょうか?」
「もしそうならば、如何だと言うのだ」
「源太って野郎は、安兵衛兄いを手に掛けられるような、腕も意気地も御座んせん奴でした。その首領が安兵衛兄いを手強いと踏んでの、仕組んだ筋書きでしょう。何らかの尻尾を掴まれての口封じ。それに偶然絡んじまった手前共に、害が及ばぬように御計らい頂いた事が、今回の事かと」
照が穏やかに云った。
「辰吉殿、少しお控えなさいませ。要一郎殿がお越しの用向きは、そんな事を伝えに態々足を延ばされた訳ではありまするまい」
背筋もしゃっきりとし、毅然として付け入る隙も無い。
生き馬の眼を抜く馬借稼業で、おつかわし屋に旅籠大椛のどちらも共に上手くいっているのは、照の手腕に依る処が大きい。
頭の回転が速く、問題を洗い出し、決断も早く、適切な行動を直ぐに行う。
照の今の表情は、鬼より怖い大女将と囃し立てられる、肚を据えた時の顔だ。
お市の性格は、この祖母譲りである事は間違いない。
「流石は照様。その通りでござる。此度の一件、敵の首魁は彼方此方に草を放ち、此方の動向は筒抜けで、攪乱陽動を繰り返し、御用の用向きすら、手玉にとっており申す。近在の村郷の者達は迂闊には信ずることが適わず、人手も足りず難儀しております。ならばこそ、お力添えを願いたく、罷りこした次第」
米之助がゆっくりと口を開いた。
「御上のお手伝いという、過分な申し出を頂戴し、我等一同、謹んで承らせて頂きます。ただ……お判り頂きたいことがございます」
「有無。無論承知して居る。照様に、妻子の皆は、拙者の直の手配りにて、草津へと向かって頂きたい。草津には安兵衛が妻女の皆が逗留してござる。安兵衛が霊とお豊達への慰めとして、照様、お福殿、嬢に坊の四人で、弔問を願いたいと存じましてな」
照は三つ指をついて、首を垂れながら、
「これは、これは。誠に、そのお心配り有難うございます。早速に福とお市、藤次郎に、傍番として辰吉殿を伺わせたく存じまする。私は二代目と共にここを護りますれば、心配は御無用にて。要一郎殿、二代目。諸々宜しくお願い申し上げまする。これこの通り」
と、口上を述べると深々と頭を下げた。
男三人衆は、静謐に三つ指をついて頭を下げている照の、有無を言わさない溢れ出す気迫に気圧されて無言で視線を交わしていた。
お市は何とも複雑な心境であった。
おつかわし屋の名代として、お福と藤次郎、辰吉と共に、安兵衛親分のご霊前に挨拶にという事だが、その気持ちは重い。
お豊さんをお見舞いし、安兵衛一家の皆様をお慰めする。
そんな大層な事は出来るかどうかはわからないが、出来るだけの事はやりきろうとも思っているし、やりたい。
しかし、お見舞いというのは方便で、実際は、当事者でもあるお市たちの身の安全を慮り、万が一のその不安が、現実の危難となって降り注ぐ事を危惧し、身を隠す為でもある。
お市と藤次郎は、勿論その事を知らされてはいないが、とっくに感付いていた。
ただ、このお見舞いの話の是非を、口の端に上ることすら憚られるが如くで、お市も藤次郎も何も言えず、指図通りに、旅支度をした。
お市は、また自分が小娘で力が不足しているからだと反省一入であった。
せめてもと、幼馴染のお花を連れて行きたがったが、
「大女将のお世話をする人がいないと困るでしょう。それにあたし……」
と、当の本人が、藤次郎をちらちら見ながら、頑固に断るものだから、今回はすっかり諦めてしまった。
「お花ちゃんは、藤次郎と一緒に旅をするのが嫌みたい。やっぱり、赤の他人の男とはずっと一緒に居るのは嫌なのかしら」
そう誰に憚る事も無く、周りに大きな声で云うものだから、結果藤次郎の耳にも当然の如くその話が入り、その時の藤次郎の表情は、冬の荒れている冷たい海を人の表情にすると、かくやあらん、と納得してしまいそうな顔つきで在ったという。
おつかわし屋で働く、強面の馬借の面々ですら、苦笑いするしかなかったとか。
旅支度を段取り良く済ませていく辰吉は表情一つ変えず、いつもと変わらないのは、彼の人の当然至極として、凄いのはお福である。
安兵衛一家の惨状を知るや、顔を青ざめて暫く泣いていたと思ったら、この話が出るや否や、忽ち何時もの明るいお福に戻った。
それどころか、ここぞとばかりに万端の支度を整え、お市の娘支度にすら、余念が無いのだ。
おつかわし屋の名代として、御挨拶に赴くのである。いつもの身を守るための男装での旅支度とは違う。
だからこそ、母の腕の見せ所と言わんばかりであった。
お市は出立前に、髪を結い上げて貰っている最中、いつもの雰囲気の、いつもの様に綺麗な笑顔のお福に、ぽつりと訊ねた。
「おっ母さん、どうしたら、そんなに変わらずに、落ち着いていられるの?」
「あら、慌てて居るし、心配しているし、落ち着いてなんかいないわ。落ち着いて見えるとしたら覚悟の差ね」
「覚悟ってどうしたらいいの?」
「行くと決めたら、行く。お義母様、旦那様、おつかわし屋に大椛の皆々、私に心配されなければならない程、軟じゃない。なら後は信じるだけでしょう。信じる覚悟をもって、行くの。本当に行きたくないのなら、拒めばいいのだから」
お福はにこにこと事も無げに、お市に言った。
その言葉には力みも構えも、抹香臭い説教じみたこともなく、まんまのお福であった。
「おっ母さん。あたし……頑張ってみる」
「頑張る前に、力を抜きなさい。貴女が大好きな皆を信じなきゃ、駄目でしょう」
「ご存知の通り、突っ走る暴れ馬だから。力の抜き方がまだわかりません。母上様、ご迷惑をお掛けします」
「あら、迷惑かけるのが前提なの。困るわね」
お福は優しい笑顔を浮かべながら、お市のおでこをつつき、お市はえへへと小さく笑った。
近くでその話を聞いていた藤次郎も、眉間に寄っていた皺は無くなっている。
襖の陰で立ち聞きをしていた米之助は、満足げに頷くと、足音を忍ばせながらその場を離れた。
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