悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される

仲室日月奈

1. 運命の歯車はもう止められない

 古びた鉄の柵を通り過ぎ、塀の途中にある崩れた部分から躊躇なく足を踏み入れる。今では誰も入ることのない旧校舎は静寂に包まれており、人の気配はない。

 赤茶色のレンガは色褪せ、雑草は伸び放題となっている。だが中庭のカエデの木の下だけ、周囲と比べて草の生長は遅い。

 そこは、勝手知ったるイザベルの特等席――もとい、避難場所だ。


(あれは何かの見間違いよ……ええ、そうに決まっているわ)


 自らに言い聞かせ、ポケットから取り出した紙を慎重に開く。瞳は左右を行き来し、やがて空を仰ぐ。

 数字は変わっていない。ということは見間違いではないということだ。


「どうして伸びるどころか、縮んでいるのよ……っ! こんなの、あんまりだわ!」


 その場にかがみ、背中を丸めて泣き崩れる。

 ラヴェリット王立学園高等部に通うエルライン伯爵令嬢、それがイザベルの身分だ。学園内では向かうところ敵なしで恐れられているため、弱音を吐ける場所は限られている。

 この世の終わりのような嘆きを聞く者は、ここにはいない。

 新学期に行われた身体測定の結果表は、イザベルのわずかな希望をも打ち砕いた。一ミリでもいいから伸びていてほしい、という淡い期待すら裏切る結果となってしまった。

 完璧な令嬢として一目置かれているイザベルだが、容姿には欠点がある。母親譲りの若葉色の瞳はキリリとし、蜂蜜色のロングストレートは毛先だけゆるく巻かれ、華やかさが際立つ。

 しかしながら、イザベルの身長は平均をかなり下回っていた。成長期を忘れたような幼い声も相まって、中等部でも初等部と間違われることもたびたびあった。

 年下からは同学年と思われ、鬼ごっこと称して追いかけ回された過去もある。彼らは遊びのつもりだったようだが、何が楽しくて初等部の暇つぶしに付き合わなければならないのか。

 結婚適齢期を迎えたはずなのに、子供のような外見と高い声に、実の両親から残念な目で見られることも少なくない。


「でも、これから成長する可能性もゼロではない……はず……」


 学園の花壇の隅でひとり嘆いていたときに偶然聞こえた話だと、世の中には成長期が遅い人もいるらしい。


「そうよ。わたくしの成長期はまだ終わっていない……」


 毎日カルシウムやその他栄養もしっかり摂取している。この努力が実る日は近いはず。そうだと信じたい。

 寂れた校舎の壁に映る人影は、しばらく動かなかった。


      *


 エルライン伯爵令嬢の元には、お茶会や鑑賞会などのお誘いがひっきりなしに来る。貴族同士の横のつながりはその子供にも当てはまる。必然と付き合う友人も限られ、今日の集まりもその例外ではない。

 正直、この間の身体測定の悲しみはまだ晴れていない。その心中を察したかのような薄曇りの空は、強い日差しを遮ってくれている。

 本日のイザベルの衣装は、桃色のワンピースだ。胸元には適度にレースとリボンがあしらわれ、子供っぽいのではないかしら、とメイドに質問したら「お嬢様にはこちらがお似合いですから」と太鼓判を押されてしまった。

 似合う服がどうしても子供服よりになってしまうのは、由々しき問題だ。


「イザベル、よく来てくれた。日傘もなしに出歩いて大丈夫なのか?」


 振り返ると、ジークフリート・オリヴィルが眉根を寄せていた。

 いつもと変わらず、公爵令息にふさわしい絢爛豪華な衣装をまとっている。膝丈まであるフロックコートは緻密な刺繍がされた最高級の生地だし、コートからのぞく襟なしベストも凝った意匠が施されている。

 澄んだ青空のような天色あまいろの髪は涼しげで、首回りに巻きつけるクラヴァットがふわりと広がる。切れ長の双眸は落ち着いたダークブラウンに染められ、目が合った令嬢たちは頬を染めて言葉を失ってしまう、というのが巷の評価らしい。


(まあ、わたくし個人の評価では、可もなく不可もなしといったところだけど)

 

 なぜならイザベルたちは、幼いときに親同士が決めた形式だけの婚約者だからだ。そこに恋や愛などといった感情は存在しない。空気のように横にいるだけの、あっさりとした付き合いなのだから。

 とはいえ、令嬢たるもの、婚約者として恥じないようにしなければならない。与えられた役割ぐらいこなさなくては、エルライン伯爵家の家名にも泥を塗ってしまう。

 いつものように目線を少し落として、憂いの令嬢を装う。笑顔は慎ましく、気品を忘れずに。


「ええ。日差しも穏やかですから平気ですわ。それに日傘があると、この素晴らしい薔薇の香りをかぐことは難しいですから」


 今日は公爵家が主催する薔薇の園遊会だ。公爵家自慢の薔薇園は、華やかな薔薇が誇らしげに出迎えてくれ、人目をはばかって嘆いているだけだったイザベルの心もいくぶん和らいでいた。


「君は本当に我が家の薔薇が好きだな」

「もちろん! 何度見ても飽きませんわ」

「そうか。だったら、これを受け取ってほしい」


 差し出されたのは、燃えるように真っ赤な薔薇が一輪。怪我をしないよう、棘はすべて取り除かれ、茎の中心には桃色のリボンが結ばれていた。


「まあ! 見事な大輪ですわね。ありがとうございます」


 さりげないプレゼントに胸をときめかせていると、ジークフリートを呼ぶ声が聞こえてきた。声の方向に振り返ると、そこには複数の女性の姿があった。

 公爵家主催ということもあり、園遊会には貴族の令嬢も多く招待されている。


「イザベル、すまない。他の客人の相手もあるので、これで失礼する」

「ええ、どうぞ。わたくしのことはお気になさらず」


 ジークフリートは名残惜しそうに背を向け、令嬢たちの元へ足を向ける。微笑んで婚約者を見送り、改めて薔薇を見下ろす。

 薔薇は国王が住まう宮殿でも愛用され、とくに今の主流は剣弁高芯咲きの品種だ。

 高芯咲きは花芯が高く、中央部は花芯を包みこむように咲くため、見栄えが美しいと貴族たちがこぞって庭園に植えている。蕾から花びらが一枚ずつ降りて開く様子も人気の理由のひとつ。

 そして剣弁咲きは、花びらの先が裏側に反り返り、先端が尖っている。一方、半剣弁咲きは剣弁よりは鋭さが控えめになり、やや丸みを帯びたのが特徴だ。

 ジークフリートが贈ってくれたのは半剣弁高芯咲きなので、全体的にやわらかな印象だ。フルーティーな香りが強い品種なので、顔を近づけなくても薔薇の香りが立つ。


(はあ……いい匂い)


 香水もいいが、直接嗅ぐ花の香りは癒やされる。個人的には、このプレゼントだけで十分だ。

 彼は婚約者としての義務感からか、この一輪の薔薇のように、ささやかなプレゼントをよく贈ってくれる。仰々しいものではないので断るのも気が引け、いつも受け取ってしまうのだが、今日はいいものをもらった。


(でも、「白薔薇の貴公子」が赤い薔薇を贈るのは変な感じね)


 彼が学園内で呼ばれている愛称は、白薔薇の貴公子だ。もちろん、本人の前で呼ぶわけではなく、女生徒の間でのみ使われる略称だ。もっとも命名した彼女たちは崇拝の気持ちをこめて呼んでいるようだが。

 受け取った薔薇を両手で持ち直し、本来の目的である薔薇の鑑賞にいそしむ。ひとつひとつの咲き誇る様子を見ながら、広い薔薇園を歩く。

 見事な薔薇のアーチの前でうっとりしていると、すぐ横に大きな影ができた。


「アーチ状にするのは難しいと聞いたことがありますが、いや、こちらの薔薇は見ごたえがありますね」


 男の声は独り言のような口調だったが、ここは話しかけられたと考える方が自然だ。

 ため息を押し殺して一瞥すると、長身の紳士がいた。


(……厄介な人につかまってしまったわね)


 舞台映えしそうな高い身長に整った顔、そして淑女の心をつかんで離さない藍色の瞳。男性慣れしていない未婚の女性をはじめ、既婚女性さえも、あっさりと籠絡してしまうと噂の伯爵だ。

 耳元でささやく声はとびきり甘く、腰砕けになる女性は数知れず。

 彼はいつも複数の女性に囲まれているはずだが、一人でいるなんて珍しい日もあるものだ。


「……まあ。ライドリーク伯爵、あなたも招待されていたのですか?」

「つれないですね。あなたと私の関係ではありませんか。どうぞ、ルーウェンとお呼びください」

「いえ、とくに関係はございませんが」


 きっぱり否定すると、ライドリーク伯爵は満足そうに口角をつりあげた。


「そういうところが新鮮で、ますます興味を惹かれますね。どうです? 二歳年上の婚約者殿より、六歳年上の私に乗り換えてみませんか。ロマンチックな恋をお約束しますよ」

「数々の浮き世の名を流す伯爵とはつりあいませんもの。謹んでお断りしますわ」

「本当につれないお人だ」


 肩をすくめて笑う顔は、こうなることを見越していたような余裕がうかがえた。

 美青年と称されるだけあって、赤銅色の前髪を横に払う仕草でさえ、うっかりすると見とれてしまう。とはいえ、無駄にキラキラしているところが、どうも苦手だ。


(紫の薔薇で淑女を口説くことで有名な「紫薔薇の伯爵」の相手なんて、頼まれてもお断りよ。……ああもう、ジェシカが一緒だったらよかったのに)


 唯一無二の親友に思いをはせる。彼女は大の男嫌いで有名だ。辛辣な言葉で近寄る男たちをことごとく追っ払ってきた実績がある。

 園遊会は彼女も一緒に招待されていたのだが、あいにく家の用事で来られなくなってしまった。イザベルつきの執事見習いも、今日は父親の付き人のためいない。

 つまり、自分を守れるのは自分だけだ。


「ああ、そういえば。先ほどから喉が渇いていたのです。伯爵、よろしければお飲み物を取ってきていただけません?」


 立食式のテーブルが向こうにある。紳士であれば、淑女の頼みは断れない。

 思ったとおり、伯爵は笑顔で快諾してくれた。


「もちろん、喜んで。さっぱりとした飲み物を取ってきましょう」

「お願いいたしますわね」


 伯爵が踵を返し、テーブルへと向かう。ふと立ち止まり、こちらへ手を振ってくる。令嬢らしく、微笑とともに手を振り返す。満足したのか、再び歩きだす背中を見て冷や汗が出てきた。


(やっぱり、こちらの魂胆は見抜かれているようね)


 すぐに逃げ出さなくてよかった。

 逃げ出す隙をうかがっていると、運よく数人の女性グループが伯爵に近づいてくる。そのうち一人が伯爵に向かって声をかけたのを見て、今だ、と決意する。

 そろりそろり、と後ろ足で後退し、アーチを抜けて足早にまっすぐと突き進む。

 どのくらい歩いただろう。いつのまにか、薔薇園の端の方まで来てしまったらしく、敷地を囲む柵が見えた。


(ここなら、もう大丈夫だと思うけど……さっきから頭が割れそうに痛いわ)


 油断した。先ほどまでの曇り空は一変し、いつのまにか、空を覆い尽くしていた雲から太陽がその姿をさらけ出している。

 昔からこのまぶしいほどの光が苦手だ。頭がグラグラしてくる。自慢ではないが、長時間外で過ごす場合、日傘をしていないと倒れることもよくある。

 ここに専属執事がいたら、今頃きっと小言を聞かされていた頃だろう。


(……とにかく日陰に行かないと)


 額に手をあて、どこか日陰の休むところはないかと周囲を見渡す。黄色の薔薇が咲き誇るエリアは庭園の東側だ。記憶が正しければ、近くの池のそばに、ひとやすみできるベンチがあったはず。

 重い足取りで目的地へ向かっていると、横の茂みからカサリと音がした。体はだるかったが、念のため気配を消し、音のした方向に近づく。まもなくして、話し声が聞こえた。


「ジークフリート様から、こんなに立派な薔薇の花束をいただけるなんて光栄です」


 鈴のような澄んだ声は聞き覚えがある。同じ学園に通っている男爵令嬢だ。確か、名前はフローリア・ルルネ。そして、彼女に花束を差し出していたのは、ジークフリートだった。


(……え?)


 なぜ、二人が人目を忍ぶようにして逢い引きをしているのか。世間一般において、その理由は単純明白だ。

 彼らが許されざる恋をしているからに他ならない。

 フローリアの垂れ目がちな瞳はキラキラと輝き、どう見ても恋をしている目だ。だが熱っぽい眼差しに見つめられても、ジークフリートはそう簡単に揺らがない。

 爽やかな笑顔を向け、フローリアが抱きかかえる純白の薔薇を見下ろす。


「そう言ってもらえて、僕も嬉しい。どうか、この薔薇が心の癒やしになってくれるように祈っている」

「もったいないお言葉です」


 負けた、と思った。


(わたくしには一輪の薔薇だったのに……)


 これは天罰なのかもしれない。婚約者だからプレゼントも当然だ、と思っていた部分がないかと言えば嘘になる。形式だけの関係に甘んじて、婚約者の趣味すら知ろうとしてこなかった。

 相手に、本気で好きな女性が他にできる可能性を考えていなかった。

 失恋とは違うショックに愕然とする。

 猛烈な頭痛に一瞬、視界が歪んだ。遠くで、懐かしい音楽が奏でられている。それが耳鳴りなのか、幻聴なのかすらわからない。


(ジークフリート様には大切な女性ができてしまったのね……)


 燦々と照りつける初夏の日差しの下、意識はそこでプツリと途絶えた。倒れる最中、ジークフリートと目が合った気がした。

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