虹の光
十影 蔵人
第1話・過去からの来訪者
鴨川の土手に等間隔でアベックが並ぶ光景は京都名物の一つになっている。大学に入学したての頃は恋人と共に、その中の一組となるのに
本来なら夢が
浅井さんは俺が修士課程の院生として在籍してる研究室の木下教授から
しかし意外な事にと言うべきか、教授と浅井さんの間には男女関係がないばかりか互いに男女であることを意識さえしてないようだというのは研究室全員の共通認識だ。浅井さんは純粋に師匠として教授を尊敬し、教授は優秀な
その浅井さんがなぜ俺を気に入ってるのかわからないし聞く勇気もないのだが、木下研究室で浅井さんに気に入られて損はないし、浅井さんをよく知る研究室の他のメンバーから
ふいに浅井さんが目を覚まし俺の顔を
「柴田君、彼女作らないの?石田君ちのラボに入ったら今より出会いがなくなるから今のうちに彼女作りなさい」
哀しい。目がうるうるするのを、しっかり見られた。
その時突然、鴨川の
「
俺があっけにとられているのをよそに浅井さんは土手を
「警察が来る前にタクシーで逃げるわよ。さっきのを見た運転手だと怪しまれるから東山まで走るわよ」
なんで逃げる。
俺達は鴨川を突っ切り、川端通り側の土手を
「一乗寺までお願いします」浅井さんが運転手に告げる。俺の部屋に連れて行くつもりだ。
「なんで俺の部屋なんですか」浅井さんに耳打ちすると「私の家に男物の服がないからよ」という答えが帰ってきた。俺の服に着替えさせるつもりか。一応納得できる理由だが、ホントにそれだけですか浅井さん……。
男は終始無言のまま車の中や外、そして俺達をキョロキョロと見回してる。運転手が男の頭と身なりを見て「なんですか?時代劇の撮影ですか?」と
「ここで止めてください」と浅井さんは俺の部屋から少し離れたところで車を止めさせ、俺と白装束の男を車から降ろすと「先に行ってなさい」と言って、そのまま車を走らせた。
「逃げられた……」
そう思ったが途方に暮れてもいられないので男を部屋に連れ帰り、そして何も言わないのもなんなので、なぜか「ろくにおもてなしもできませんが」と言ってしまってコップに水を入れて男に手渡した。男は終始面食らった様子で一言も喋らなかったが、恐る恐る口をつけたコップの中身が、ただの水らしいとわかると一気に飲み干し「すまんがもう一杯」と言ってコップを差し出したので、今度は氷を入れて男に渡したが、これは失敗だった。
「なんだこれは?」と
20分ほどするとチャイムが鳴ったので扉を開けると浅井さんが何やら袋を二つ持って立っていた。俺の顔を見て「なに情けない顔してんのよ、逃げないわよ」と言うとドアに鍵をかけチェーンまでおろした。
「着替え用意しといて」と言うと、浅井さんは男をユニットバスに押し込め、袋の中身を取り出して自分も入っていった。袋の中身は理髪用のハサミと櫛、それに理髪用のケープだった。
「あの、せっかくの所、申し上げにくいんですが、ハサミと櫛くらいはうちにもありますよ」とドア越しに言うと、ちょっと間を置いて「ハサミは理髪用じゃないでしょ!こういうことは形が大事なの!」と怒鳴られた。
「負け惜しみだ」
そう
しばらくすると「なんだこれは!」と、また男が叫んだ。どうやら浅井さんがシャワーの使い方を教えてるらしい。浅井さんが男をユニットバスに残して出てくると、俺は男のために用意した着替えを浅井さんに見せたが、浅井さんが「下着は?」と聞くので「服を貸すのはやぶさかでないですけど、パンツを貸すのはちょっと……」と言うと、浅井さんは俺を押しのけて「つべこべ言わない」と勝手に
「なんで俺に渡すんですか?」と尋ねると「多分履き方を知らないから履かせてやって」と、ご
「それで、なんであの男がパンツの履き方を知らないと思うんです?」
「三条河原に突然水柱が立って、中から白装束でチョンマゲの男が現れた。これは過去からタイムスリップしてきた罪人に決まってるでしょ」
なにが決まってるんだか、ホントに科学者か、この人は。
程なくシャワーを終えて出てきた男にバスタオルを渡し体を拭かせたあとパンツの履き方を教えてやったが、男はTシャツの着方を教えても自分で着ることができなかったので、俺は
浅井さんはというと俺の布団に座って理髪用具と一緒に買ってきたらしい缶ビールを開けて飲んでいて、俺にも一本缶ビールを、そして男には
「無茶ですよ!」俺は叫んだが、ビールを口にした男は案の定「なんだこれは!」と叫んで缶を落とし俺の布団にビールをぶちまけた。
やれやれと布団を干している俺にはお構いなしに浅井さんは二本目のビールを開け、男に持たせたコップに
「これはビール。麦から作ったお酒よ。この苦味と泡が、そのうち癖になるから、まあ飲んでみて」
男はそれこそ苦々しい顔ですするようにビールを飲んでいたが、グビグビと一気に飲み干す浅井さんに負けまいとしたのか、やおらコップの底を持ち上げてビールを喉に流し込み、むせ返っていた。
「私は浅井、彼は柴田君。同じ大学……、同じ師匠のもとで学問をしているの。あなた名前は?」
男はむせ返りながら「
「あんた実在したんだ。あんたの事は芝居にもなってる。三条河原で秀吉に釜茹でにされた大泥棒で」と言ったところで五右衛門と名乗る男は大いに
「泥棒でないなら、なんで釜茹でにされるほど秀吉の怒りを買ったの?」
浅井さんがそう尋ねると五右衛門はこう答えた。
「茶々は
なんてやつだ。本来なら一族郎党、
「私は盗賊ではない!」
盗賊の汚名を着せられ盗賊として名前を残したのは気の毒だが、あんた釜茹でにされても仕方のないことはしてるだろ。
ともかく三条河原で釜茹でにされることになり釜に入れられ火をつけられ炎が立ち
「それがなんで現代にタイムスリップすることになったかは
そう言うと浅井さんは五右衛門が着ていた白装束を理髪道具が入っていた袋に詰めて部屋を出て行こうとする。炭素年代測定をやらせるつもりか。私費でやらせるにしても、どう説明してやらせるつもりだろう。
「とりあえず今日は、あなたの部屋に泊まってもらいなさい」
「布団がありませんよ」
「あなたは寝袋があるでしょ。今から大学に行くから持ってきてあげる。こんな天気だから布団もまあ乾くでしょう。問題はないでしょ?」と言うと、俺の返事も待たずに出ていった。
五右衛門と部屋に残された俺は、とりあえず彼が今置かれている状況をネットも使いながら説明しようとした。彼が釜茹でにされたとされる時から四百年以上も
「要するに金持ちの商人が天下を握ってるということか?」と言うので「まあ、そんなとこだ」とお茶を濁した。
五右衛門がインターネットにさほど驚かなかったのは、タクシーやら冷蔵庫やらシャワーやらビールやらでさんざん驚いたので、もうなにがあっても不思議はないと達観してしまったからだろう。キーボードをかな入力にしてやると自分でも何やら調べ始めた。やはり秀吉のことは気になるようでウィキペディアを一通り読んでいた。
「この鶴松というのは私の子か?」
知るか。
「あれから関白殿下も色々大変だったようだな。結局家康に天下を取られて世継ぎまで殺されるとは」
自分を釜茹でにした男でも殿下と呼んでしまうのは、どういう心理なのだろうと考えていると、五右衛門が空を見上げるようにして
「茶々は
だから知るか!
二時間ほどして浅井さんが帰ってきた。
「この人の言うことが本当かどうかも、あの白装束が本当に四百年以上前のものかも、まだわからないけど、あの白装束から微量の放射線が検出されたわ」
放射線のことは考えてなかった。浅井さんは最初からそのリスクに気付いていたと思うのだが、よく素手で持ったりしたな。目の前で見たことのない現象が起きれば追求せずにはいられず、身の危険にさらされるのも
それからしばらくの間、俺達は浅井さんが追加で買ってきたビールを飲みながら互いの時代のことを取り留めもなく話し続けた。
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