Dance in the dark -闇のサーカス-
第7話 ショコラ
エルリア帝都、ロサニウム地区。
帝都の大通りに面した、今は廃墟となった洋品店。
ガラス製のショーウインドーの向こう側の、着飾らせてもらえなくなった木製のトルソー。
店の傍らの路地を進んでいくと、何の変哲もない赤茶色の煉瓦造りのアパートが2つ相対するように佇んでいる。
ここが娼館という事実を隠すように、ひっそりと。
と言うのも、娼館自体が政府に公に認められているものではないからだ。(最も、政府もその存在を知りながら黙認しているだけだが。)
そして今夜もまた一人、欲望を満たそうとここを訪れる男がいた。
その慣れた足取りは、どうやら贔屓の女がいるようで、迷いがない。
男がふと顔を上げると、ハイヒールの音を響かせながらアパートの階段を登る女と目が合った。
赤いドレスを纏い、血のように赤い唇と瞳をした女。
そして真珠のように艶かしく光る白い肌に、思わず喉を鳴らしてしまう。
何より、目があってもにこりとも笑わない媚びないその表情に、嗜虐心を煽られる。
男はロビーの中にいたエリザに鼻息荒く尋ねた。
「おい、あんな女いたか?」
「あぁ、あの子?最近入った子なの。」
「あの女がいい。」
ダメよ、とエリザが煙草をくわえた。
それでも男は食い下がらない。
「いくらならいい?」
「いくら積まれてもダメよ。それに、あの子に手を出したら、高くつくわよ?」
男はエリザの言葉の意味を悟ったようだ。
「……なんだよ、つまんねぇ。どこぞの大臣のお抱えかぁ?」
「ま。そんなところ。」
吐き出した煙の向こう、二階の窓を見上げた。
あの子を他の男に触れさせるわけにはいかないのよね。
なんせそういう契約なんだから。
その頃、アヤメは自分の部屋だというのに落ち着きなく歩き回っていた。
髪型は乱れていないかとか、化粧は濃すぎないかとか、この服装は変じゃないだろうかとか、まるで初めてのデートでの待ち合わせのように、何度も鏡を見ている。
というのも、今日はヤマトが訪ねてくる夜だからだ。
エリザを介してヤマトから連絡があり、それを聞いた時、心躍る気分になった一方、そんな自分に戸惑いを覚えた。
この感情は何だろう。
はじめて会った夜の、海のように青い瞳、地を這う鮮血。
それはゾッとするほど残酷で、冷たくて、だけど美しくて、一瞬で魅入られてしまった。
あの日は礼のひとつも言えずに逃げ出してしまったが、もう一度どこかで会えたらなんて、期待したりもしていた。街ですれ違う軍服姿の男を、目で追ってしまうくらいには。
再会のきっかけが、義父に売られて娼婦となったことなんて、なんとも皮肉なものだが……。
そして何より頭から離れないのが、ホテル・エルリアでの夜だ。
身体に刻まれてしまったかのように、今でもその呪いが解けない。
指。
体温。
唇。
声。
甘い快感。
そのことを思い出すだけでアヤメは何も手につかなくなった。
2週間ぶりに会ったヤマトは、少しだけ前髪が伸びたような気がする。
なんて、そんな些細な変化にもアヤメは気づいた。
「ほんとに来てくれるなんて、嬉しいです。」
「約束だったからな?」
ヤマトが唇の端を持ち上げて笑った。
仕事終わりでそのまま来たのだろう、ヤマトは軍服姿だったが、なぜかその手には高級チョコレート店の紙袋と、ワインの紙袋を下げている。
「総帥からお前にプレゼントだ。この前のお礼に。」
「いいんですか?私、何もしてないですよ?」
「受け取っておけ。あの人は女性に対してだけはマメなんだ。」
言葉の端々に棘があるような気がするが、たぶんアヤメの勘違いではないだろう。
アヤメの部屋はクローゼットとドレッサー、ベッドしかないような簡素なものだ。
ドレッサーの上にはいくつかの化粧品や香水、アクセサリーが並んでいる。
ヤマトが脱いだ上着を受け取り、ハンガーに掛ける際、帝国軍の軍服の仕立ての良さに感心した。
「そういえば、あれからどうなりましたか?」
麻薬組織の残党にホテル・エルリア内のクラブが占拠された事件。
当初は新聞でも大々的に報じられていたが、日を追うに連れ徐々に下火になっていき、その後の情報が入ってこなくなった。
軍から提供されるのだろうか、事件の関係者として掲載されていたヤマトの写真を切り抜いて保管してあるのは秘密だ。
ベッドに腰掛けたヤマトが足組みする。
「軍で拘束されていた麻薬組織のリーダーとやらは警察に引き渡し済みだ。あとは粛々と死刑判決を待つだけだろ。あの下っ端共も、あんなテロまがいのことを起こしたことで罪の上乗せだろうさ。死刑か、よくて一生牢屋の中ってとこかな。まぁ、自業自得だな。」
「そう……ですか。」
死という言葉を聞いて、改めて麻薬に関わることの罪の重さを実感する。
街の治安維持の為、そのように法改正させるように働きかけたのは帝国軍の総帥だと聞く。
そんなマクシミリアンが自分のことを見逃した意味が今だによく分からないが、ともかく自分は彼に生かされたのだ。
「お前も何か変わったことはないか?ここでの生活はどうなんだ?」
「特に不自由はないですよ?」
アヤメはヤマトの専属娼婦としてここに身を置かせてもらっているので、他に客を取らされることはなかった。
娼館の女主人エリザは「軍人相手に上手いことやったわね。」とニコニコだった。
それもそのはずだろう。
ヤマトからは、一介の娼婦が貰えるものとしては破格の報酬を渡されたのだから。
「困ったことがあれば何でも言えよ。」
「はい、ありがとうございます。」
アヤメはさりげなくヤマトの隣に腰掛けるも、なんだか気恥ずかしい気分になった。
一夜を共にした関係と言えど、お互いのことなど、ほぼ何も知らない。
何よりもそんなに広くない自分の部屋に、ヤマトと2人きりというのはかなり緊張感がある。
とりあえず「チョコ、一緒に頂きませんか?」と提案したのは、何よりもアヤメ自身の気を紛らわせるためだったのかもしれない。
ヤマトは少し考える仕草をして、
「それよりワインの方が嬉しいな。」
と言った。
なるほど、そっちよね、とアヤメはまた一つだけ賢くなったような気がした。
アヤメがエリザから借りてきた2つのワイングラスを抱えて戻ると、ヤマトがオープナーを使ってボトルのコルクを回していく。
アヤメはワインに詳しくないが、高価なものなのだろう。総帥が買ってきたというワインの銘柄を見たヤマトが「よくこんなの買ってきたな」と呟いた。
そういえば、ホテル・エルリアのクラブで一緒にいたりと、帝国軍の総帥は一軍人であるヤマトのことを随分目にかけているようだ。
「ヤマト様は、総帥と仲がいいのですか?」
途端に、ヤマトがあからさまに嫌な顔をした。
「昔、直属の上官だっただけだ……。」
そう低く、暗く、重く、苦々しく言う様子に、彼の今までの気苦労、その他諸々の全ての感情が凝縮されているような気がした。
「何年か前、怪我で内勤してる時期にあの人の補佐官みたいなこともしていたが、それはそれは大変だった。まぁ、主に女性関係だが……。あの女に聞いていないのか?」
「エリザさんにですか?総帥とは若い頃からの知り合いとだけお聞きしていますが……。なんでも、エリザさんがクラブで働いていた頃の常連だったとかで……」
「お前、そんな話を本当に信じているのか?あの女は総帥の愛人の1人に違いない。」
「えっ?エリザさんが?嘘。」
アヤメが目を丸くした。
社会的地位のある男性は、往々として女性との綺麗な遊び方を心得ているものだ。
だからあの人が愛人の一人や二人いてもおかしくはないのだが、まさかエリザが?
エリザは30代半ばくらいだろうが、よく手入れされた髪や肌、維持されたスタイルの良さは同性のアヤメから見ても十分に魅力的だったし、あり得ない話ではないような気もするが……。
「本人に聞いてみたらどうだ?」
「さすがにちょっと聞けませんね、そんなことは……。」
「ふっ、まぁそれもそうか。」
乾いた音を立ててコルクの栓が開いた。ヤマトによってグラス内に見事なボルドー色の液体が注がれる。
「綺麗な色ですね。」
むせ返りそうなアルコールの香り。
その中に、ほんのりと果実の香りが含まれているような気もする。
いただきます、とアヤメも口に含んでみるが、たった一口だけでクラクラと酔いが回りそうだった。
一方で、ヤマトは何か別のものでも飲
んでいるかのように、平然としている。
グラス内のワインを煽るその横顔を見て、あぁ、これは、とアヤメは心の中でため息をついた。
さぞかし女性にモテるだろうと。
ヤマトは言葉使いや立ち振る舞いにどことなく品の良さが現れていて、知性を感じさせる。
はっと人の目を引く派手な美形というわけではないが、端正な顔立ちをしているし、軍服姿で歩けば何かと感度の高い帝都の若い女子たちの話題に挙がっているに違いない。
恋人はいるのだろうか?
結婚はしているのだろうか?
そういうのは聞かないほうが、「いい関係」でいられるだろうとは分かっていたが、どうしても気になっていたことがあった。
「ヤマト様は、どうして私を?」
何もしなくても女の方から寄ってきそうなのに、なぜ自分を専属の娼婦にしてくれたのかということだ。
「……お前に興味が湧いたんだ。」
アヤメは「興味?」と反芻した。
グラスの中のワインが揺れる。
「お前は機転がきいて、頭も悪くない。おまけに顔は美人だ。女にとってそれは武器だ。そしてあの状況でも引かないその度胸……。私はお前のそんなところが気に入った。」
……なんだかよく分からないけど、美人と言われるのは嬉しいな、とアヤメは思った。
「お前が望めば、何だって手に入れることができるだろう。金も、男からの愛も、全てだ。だがお前はそれをしようとしない。まるで生きることを諦めているようだ。」
「そう、……かもしれませんね。私、死ぬのは怖くないんです。」
「だろうな。お前は自分が死ぬと思った時、笑っていたからな。だが、どうしてそうなった?お前のそこに興味がある。」
あの夜と同じだ。
眼鏡の奥の、深い海のような青い瞳が見つめてくる。
「……娼婦の身の上話なんて、退屈なだけですよ?それに女は、嘘をつく生き物ですから。」
「ふん、なるほど?それは哲学だな。まぁいい。それはいずれ暴いてやることにして……。お前には差し出したその美しさに見合ったものを与えてやるさ。お前の願いなら、何でもきいてやる。」
「例えば?」
「お前の為なら、誰でも殺してやる。」
不敵な笑みを浮かべたが、その言葉には決して冗談ではないという響きが含まれている。
アヤメも唇の端を持ち上げて笑った。
「……悪い人。」
「良い人だとは、最初から思ってないだろう?前にも言ったが、私は任務であれ基本的に人殺しは好かん。だがお前のためなら、そんな感情は捨てられる。」
「素敵。じゃあ、考えておきます。」
含みのある言葉は、どうやら思い当たる人間がいるようだ。
ヤマトは口元だけでふっと笑うと、総帥から貰ったチョコレートを開けるように促した。
アヤメはワインのことは分からないが、甘いものには目がないので、これがなかなか手の届かない高級チョコレートということを知っていた。
それを選ぶあたり、やはり総帥は女性の扱いには慣れているようだ。
まるで宝石箱の中身のように輝くガナッシュ。
舌の上で蕩けそうなその甘さは、それだけで幸せな気持ちにさせてくれる。
「ん、美味しいですよ。」
「そうか。少し頂こうかな。」
そう言われてアヤメはチョコレートの箱を差し出そうとするが、顎を掴まれて唇を重ねられた。
「ん……」
そのまま口内を浸食され、ワインの味と混ざり合う。
座っているのに体の力が抜けそうだ。
チョコレートの甘さなんて比じゃないくらい、幸福感のような感覚に満たされる。
「……。甘いな。」
「あまい、です……。」
「酒に酔ったか?顔が赤いぞ。」
「……お酒のせいじゃないです。」
湿度が含まれた瞳で見上げた。
「そうだ、その目だ。」
「え……?」
「初めて会った夜から、綺麗だと思っていたんだ。お前の目は、宝石みたいだ。」
その言葉は、アヤメにとっては心臓が止まりそうなくらい衝撃的なものだった。
幼い頃から蔑まれてきた、血のように赤い瞳。
綺麗だなんて、言われたことがなかったからだ。
「いや、別に陳腐な言葉で口説こうとしているわけじゃないんだぞ。本当にそう思ったんだ。ずっと見ていられそうだ。」
「そんなこと言われたの、初めて。いつも気味が悪いって、言われるから。私は、嫌いなんです。」
「そんな可哀想な人間の言うことなんて信じなくていい。悩むだけ時間の無駄だ。私が綺麗だと思っているんだ。それで十分だろう。」
嬉しくなった。
こんなにも自分を肯定してくれる人がいるなんて。
「ヤマト様はチョコレートみたいな人です。甘くて、苦くて……。」
ヤマトの首にするりと腕を回す。
そしてまた2つの味が混ざりう。
「チョコレートは、好きだろう?」
「もちろん。」
だけど知ってしまった。
もっと甘美な味を。
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