第31話 布団侵入事件―旅行先で布団の中に入ってきた!

3月下旬に、食品の安全性対策についての研修会が伊豆の下田で開催されるので、出席のため2泊3日の出張が決まった。


宿泊先は本人が手配するので自由だ。久恵ちゃんが東京に来てから、もう丸2年経つので、気分転換に旅行にでも行くつもりで一緒に来ないかと誘ったら、有給もあるから行きたいという。


昼間は研修会でいないから、一人で気ままに辺りを散策すればと言うと、そうするとの返事だった。部屋はどうすると聞くと、同じで良いというので、海の近くの民宿に一室を予約した。


◆ ◆ ◆

朝、品川駅から特急で伊豆下田へ直行した。途中、河津桜が満開で綺麗だった。予約した民宿に到着したが、ほとんど旅館と同じだった。案内された部屋は2階で海が見える。


午後1時から研修が始まるので、荷物を置いてから、二人で近くの食堂へ行って昼食を摂った。食べ終えると僕はその足で研修会の会場へ向かい、久恵ちゃんは付近の散策に出かけた。「早く帰って」「迷子にならないで」と別れた。


研修会を終えてすぐに宿に戻ると、久恵ちゃんが部屋で待っていた。夕食まで時間があったので海を見に行かないかと誘った。


海はもう薄暗くなっていて、月が出たところだった。黙って月を見ている久恵ちゃんが愛おしくなってそっと後から両手で抱いて、頬に挨拶代わりの軽いキスをした。


考えごとをしているのかじっとして黙っている。寒いから帰ろうというので、宿へ戻った。帰り道、久恵ちゃんが手を繋いできた。いつもの柔らかな温かい手だった。


部屋に戻ると夕食を用意しているところだった。民宿なので、豪華な食事ではないが、新鮮なお刺身、焼き魚などが運ばれている。


一緒に同じ部屋で泊まるのは初めてだ。宿泊名簿には川田康輔、川田久恵と書いた。ここの人は歳が離れているが親子より夫婦とみたのだろう。食事を用意して出ていくときに「奥さんお願いします」と言っていた。


久恵ちゃんの顔をそれとなく見ると、いつもなら「奥さんだって、そう見えるのね」と嬉しそうに言うところだろうが、黙ってご飯をお椀によそってくれていた。


二人で手を合わせて「いただきます」と食事を始める。「おいしいね」と言っても「うん」というさり気ない返事しかしない。


「身体の具会でも悪いの」と聞くと「何でもない」といつもの久恵ちゃんを装った。きっと今夜のことを気にしているのだと思ったが、そのことにはあえて触れなかった。


久恵ちゃんが少し緊張しているような気がする。僕は今日の研修会の話を始めた。いつもなら関心のあるところを聞いてくるのだが、ただ相槌を打っているだけだ。


「今日はあれからどこへ行っていたの?」


「水族館があったので入ってみた」


「何か面白い魚はいた?」


「アシカショーをしていた。観客が少なくて全部で10人ほどだった。一人で見ていてもつまらないので、すぐにここへ帰ってきました」


話が続かない。何とか話題を探そうとするがなかなか思いつかない。僕が食事に集中すると僕をチラ見する。僕が顔を上げて久恵ちゃんをみると目をそらして下を向く。


僕にはもう「これ美味しいね」としか言葉がなくなる。「うん」と答えてくれるだけで、いつもと違う。違いすぎる。


ようやく食事を終えた。僕は窓際のソファーに移った。いつもならすぐにそばに来て座るところだけど今日は食事の席に残っている。


食事を片付けに来た宿の人から「お風呂がまだじゃないですか」と声がかかる。「パパ先に入って」というので、ひと風呂浴びに1階の浴室へ行った。温泉だった。久しぶりの温泉は気持ちがいい。


部屋に戻ると布団が並べて敷いてあった。ソファーでそれをじっと見ている久恵ちゃんに「お風呂どうぞ。温泉だよ」というと、浴衣と着替えを持って黙って出て行った。これはまずいなと思って、すぐに布団を離した。


昔のほろ苦い記憶が思い浮かんだ。入社して間もないころ、帰省しての帰りの列車の中で、同郷の年頃の可愛い女性と知り合いになった。新潟に就職して住んでいるという。意気投合して電話番号を聞いて、帰ってから電話した。遠いので中間の長野で落ち合って周辺の1泊2日の旅行を約束した。部屋は同じでも良いというので民宿を予約した。


1日目の夕方からは正にさっきの散歩からはじまって今この時とほとんど同じだった。あの時、二人はそれぞれ布団に入って寝たのだけど、沈黙の時間の後、思い切って僕は彼女を布団の上から抱きしめた。


その途端「そんなんじゃないよー」「そんなんじゃないよー」と拒絶された。すぐに謝って、もうしないと約束して、その場をなんとか繕った。


次の日は何もなかったように楽しく半日を過ごした。そして帰ってからすぐにその時撮った写真を数枚送ってあげた。結局、後日彼女から別れようとの手紙と写真が送り返されて来た。そして僕にはその時の「そんなんじゃないよー」「そんなんじゃないよー」がずっと耳に残った。


今考えると、早急過ぎたし、まだ、若かったので迷いもあった。もっとお互いに分かり合ってからであれば、うまく付き合えたかもしれない。一番の後悔は彼女を大切に思っていなかったことかもしれない。


今、久恵ちゃんは僕の宝物だ。大切にしないと離れて行ってしまう。勤めて自立している彼女にはそれができる。絶対に嫌な思いをさせてはいけない。縁側のソファーに腰かけて、海を見ていた。月が随分高くなっていた。


久恵ちゃんが戻ってきた。緊張しているのが分かった。浴衣姿がぞくとするほど色っぽい。


何か話しかけてくるかなと思ったが、黙って離した布団に入り、こちらに背を向けて寝たので、部屋の明かりを消して僕も布団に入った。


明かりは枕元の小さいスタンドだけだが、月の光がカーテンを開けた窓から射し込んでいる。


沈黙の時間が続く。どれくらい時間がたったのか分からない。もう寝たのかなと思っていた。久恵ちゃんの起上る気配がしたかと思うと、僕の布団の中に身体を滑り込ませてきた。


驚いて顔を見ると向こうを向いている。手をそっと握ると握り返してきた。「明かりを消して」と小さな声が聞こえた。ずっと二人は同じことを考えていたんだ。気持ちが通じあっていると思うと決心がついた。そして明かりを消した。久恵ちゃんは下着をつけていなかった。久恵ちゃんの決心が嬉しかった。


突然「痛い痛い」といって、身体を固くする。「ご免ね、やめる?」と耳元でいうと「やめないで」という。続けると「痛い痛い」やめると「痛いけど絶対にやめないで我慢するから」と言う。それで続けても痛がるので「これでおしまい」と身体を離す。


そっと抱き寄せてやると「ちゃんとできたかな?」と小さな声で聞いてくる。「うん、大丈夫」と応えると「よかった、これで私はパパのもの、ああ疲れた、寝ましょう」と元の久恵ちゃんに戻って身体を寄せてくる。


後ろから抱きかかえるようにして「おやすみ」と言う。疲れた。でもなんだか心地よい疲労だ。


夜中に久恵ちゃんが寝返りをしたので、目が覚めた。抱いている久恵ちゃんの身体の温もりを感じる。心地よい寝息が聞こえる。


今、僕は久恵ちゃんを腕に抱いて寝ている。寝顔を見るたびに、抱いて寝たらどんなだろうといつも思っていた。寝顔が見てみたい。暗い上に顔を僕の胸にうずめて抱きついているので、表情は分からない。こうなったからにはいずれ見られるだろう。


時々思い出したように無意識にしがみつく。それが愛おしくて愛おしくて仕方がない。起こさないように身体を寄せて華奢な身体を確かめる。大切なものは手の中においておくよりも、自分のものにして抱き締めておくのが一番とそっと抱き直した。


◆ ◆ ◆

翌朝、目が覚めると、久恵ちゃんはもう着替えていて窓際のソファーに座ってこちらを見ている。


「おはよう、昨日の夜はありがとう、嬉しかった。でも今日はだめよ、生理になっちゃった」


久恵ちゃんの早起きの理由が分かった。朝、同じ寝床で昨夜の余韻を楽しみたかったけど仕方がない。


民宿らしい朝食を二人で食べている。久恵ちゃんの表情が明るくなって、元の久恵ちゃんに完全に戻っている。それ以上ににこやかでゆとりと落ち着きが感じられる。


今日はあいにくの雨の日となった。出がけに「今日は雨の日だけど見物に出かける?」と聞くと「ここで海を見ている」と宿で休んでいるとのことだった。


昨日一日は一人で悩んで緊張してそれから考えていたことを実行して大変だったと思う。ひとりでゆっくりしたいのだろう。


あの時の久恵ちゃんは僕に拒絶されないか心配していたと思う。僕にはそういうところがあるから。今考えると一大決心で、一か八かの掛けに出たのだと思う。


もし拒絶していたら立場がなくなって、きっと大声で泣いていたと思う。そして、きっと僕に失望して僕の元を去っていこうと決心したに違いない。久恵ちゃんはそんな娘だ。


それに比べて僕はどうだったか。歳の差にこだわって自分の思いをずっと偽ってきていた。あのとき、手を握って握り返された時、衝動的に決心できて本当によかった。衝動が理性に勝つことが必要な時もある。もし拒絶していたら今朝はなかったと思う。


◆ ◆ ◆

研修が終わって宿に戻ると久恵ちゃんが部屋でソファーに座って待っていた。


「ただいま」というと僕をじっと見た。跳んで抱きついて来るのを期待していたが、ソファーに座ったままで、もじもじしている。


はにかんで遠慮していると思って、ソファーのところまで行って軽くハグする。するとすぐにしっかり抱きついてきた。しばらくは離れようとしない。


ここはしっかり抱き締めてやらないといけないと抱き締める。ここへ一緒に来ないかと誘って本当に良かった。


2日目の夕食は話が弾むと思っていたら、久恵ちゃんがはにかんでしまって、どうもぎこちない。顔をみると真っ赤になるし、話しかけても要領を得ない答えが返ってくる。


それでも食事の後に二人でソファーに座って外の景色を見ていると腕にしがみついてくる。


温泉に先に入って横になっていると、隣の布団に入ってこちらを向いて話始めた。


「私が中学3年生の時、高校受験のため夜遅くまで勉強していた時だけど、夜中に1階のトイレに下りてゆくと何か声が聞こえるの。パパとママの部屋の戸がほんの少し空いているので中をそっと覗いたら、パパとママが愛し合っていたの。驚いてそこを離れなければと思ったけど、見続けてしまったの。薄暗い中でママの顔が見えたけど、今までに私が見たこともない幸せそうな表情だったわ。でパパはというと、怖いような顔をしてママを見てるの、でもママにとってもやさしくしていた。そっと戸を閉めて2階に上がったけど、二人の姿が目に焼き付いて眠れなくなって」


「・・・・」


「私ね、始めは痛いと聞いてたけど、少しだけで、あとはママのようにもっと素敵なことを想像していたんだけど、ごめんなさい」


「そのうち慣れてくると痛くなくなってママのような幸せを感じるよ」


「昨日明かりを消してもらったのは、パパの怖い顔を見たくなかったから」


「男はそういうときには怖い顔になるんだ、全神経を集中して愛するために」


「ふーん、そうなんだ」


僕も昔のほろ苦い思い出を話そうとしたが止めた。久恵ちゃんに聞かせる話ではない。男には死ぬまで誰にも話してはいけないことがあると胸にしまった。おやすみ!


◆ ◆ ◆

研修3日目は12時で終了した。宿に戻って、今日は晴れたので、その辺りを二人で散策した。ほとんど会話らしい会話をしなかった。ただ腕を組んで歩き回るだけでよかった。それでも二人の気持ちは十分に通い合っていた。


「早くお家へ帰りたい」


「そうだね。家でゆっくりしたいね」


それで早めに帰宅の途についた。帰りの電車で久恵ちゃんはしっかり僕の腕を抱えて座っていた。ほとんど話をしなかったが、心は満たされていて、電車の揺れがとっても心地よかった。


◆ ◆ ◆

マンションへ帰って普段の生活が始まった。久恵ちゃんは、生理中は自分のベッドで眠り、夜も僕の部屋には入ってこなかった。少し寂しかったが静かにしておいてやりたかった。


あの晩のことを思い出すだけで僕は十分に幸せな気持ちでいられた。久恵ちゃんもそうだったと思う。落ち着いた穏やかな表情でそれが分かった。

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