ホーボーズ・ブルース

つくお

1

 そういうことをしそうな女だと思っていた。

 一日外で時間をつぶして帰ってきたら、鍵が替えられていたのだ。少し酔ってはいたが事態は理解できた。おれを追い払うつもりだ。

「マコ、いるんだろ?」

 返事はないが中にいることは分かった。口では何も不満を言わず、いきなりこういうことをするのがいかにもこの女らしい。

 仕事から帰ってすぐに鍵屋を頼んだのだろう。鍵屋の仕事ぶりをそばで下唇を噛みながら見守るあいつの姿が目に浮かぶようだった。別に悪く言う気はない。一月近くも居候させてくれたのだから、もった方だと言うべきだろう。

 それでもこんなことならもう少し気を使ってやればよかったと思う。あいつが働きに出ている間に洗い物をするとか、掃除をするとか、何かそういうことを。おれときたら、毎日のようにあいつから小遣いをもらって、ただあてもなくふらふらしていただけだ。一度など他の女を部屋に連れ込んだりもした。わざとじゃないが、あれは確かにまずかった。

「マコちゃん、頼むよ」

 楽器が中に置きっぱなしなのを思い出してドア越しに呼びかける。バンドが解散した今でもギターだけは毎日触っていた。今のおれにはあれだけが自分を世界につなぎとめてくれる唯一のものなのだ。

「聞こえるだろ? マコー。ギター。あれがないとおれ――」

 ドアポストの隙間からしつこく呼びかけていると、脇の方で何かが地面に落ちる大きな音が響いた。もしやと思って通路の端から覗き込んでみると、ギターだった。ベランダから投げ捨てられたのだ。

 あわてて階段を駆けおり、ギターの安否を確認する。ハードケースの表面に擦り傷がいくつもつき、ロックも少しバカになっていたが、楽器本体は無事だった。いったん植え込みにバウンドしたのが幸いしたらしい。

 ギターを肩に担ぐと、腹の底から力が抜けていくような思いがした。三階のマコの部屋を見上げると、窓は閉めきられ、カーテンも隙間なく引かれている。あいつが顔を覗かせる気配は微塵もない。

 おれは黙ってその場を立ち去った。


 財布の中身はすっからかんで、今夜寝るところもなかった。

 おれは駅前でギターケースを広げ、しみったれた気分でJ‐POPや昭和歌謡を歌いはじめた。酔って気分よくなっている年輩サラリーマンのノスタルジーをくすぐって小銭を稼ごうという腹だ。多少好みとは違っても背に腹は代えられない。とりあえず二千円もあればネットカフェで一晩しのげるだろう。

 一時間も歌い続けていると、ようやく通りすがりのスーツの男が投げ銭をしてくれた。一曲終えて確認してみると、一瞬お札に見えたそれはただのレシートだった。ゴミ箱代わりにされたのだ。

 文句を言ってやろうと立ち上がったときには、そいつの姿はもうどこにもなかった。悔しまぎれに目の前の空気をかきむしっていると、ふと背中に視線を感じた。路上ミュージシャンを見下している輩か。睨み返してやるつもりで振り返ると――。

 誰もいない。

 いや、足元にいた。一匹の猫が。

 ――猫かよ。拍子抜けしてしゃがみ込み、撫でてやろうと手を伸ばす。灰色の短い毛をした細身の猫だ。そいつはおれの手をぷいとかわしたかと思うと、地べたに置いたギターに近づいて物言いたげに尻尾でボディを叩いた。震動で開放弦がだらしなく鳴る。

 触るなこら。尻尾をはたこうとすると、猫はさっと身を翻して爪を立ててきた。

「いてっ!」

 慌てて引っ込めた手の甲に、血のにじんだ筋が二本くっきりとつく。

 この野郎。拳を振り上げるようにして身を乗り出すと、猫は攻撃の届かないところまで素早く身を引いた。数秒牽制し合い、ばかばかしくなって肩の力を抜く。さっきのやつといい、こいつといい、今日はとんだ厄日だ。おれはしっしと猫を追い払い、別の曲をやりはじめた。今夜中に稼がなければならないのだ。

 むしゃくしゃした気分で歌をがなりたてていると、コードをかき鳴らす右手に突然もぞっとした感触があった。びくっとして飛び上がると、猫の尻尾だった。

「ま、またお前か!」おれはビビったのを隠して言う。

「なぁぁ」猫は低くうなるように鳴く。

「なぁぁじゃねぇよ」

 猫は何やら嘆かわしげに喉を鳴らしたかと思うと、尻尾をくいと持ち上げた。またギターを狙ってるのかと、ネックを高く持ち上げて警戒する。すると、やつは面白くなさそうな顔でおれの足を直接打ってきた。思いのほか硬い尻尾だ。

「なんだよ」

 まるで弟子を叱責する師範代みたいに続けざまに打ってくるのだ。なぁなぁと鳴くやつの声には、鈍いやつめとでも言うような響きがあった。おれは尻尾をかわそうとしながら、相手が言わんとするところを見極めようとする。こいつ、もしかして――。

「下手だって言ってるのか?」

 猫はちらりとおれを見上げると、ようやく分かったかとでもいうように打つのをやめる。

 ――下手? おれが?

 ――猫がそれを言うのか?

 おれは頭に来てギターを構え直した。くそ猫、そこで聴いとけ。

 弾きはじめたのは自分の曲だ。すぐに猫に音楽が分かるはずなどないと思い直したが、どっちにしても他人の曲ばかりやっているよりマシだ。やつは探るような目でこちらを見たかと思うと、やがてどこかふてぶてしげにその場に伏せた。お前はタレント発掘番組の審査員か。

 名曲だと言うつもりはないが、自分の曲はやはりしっくり来る。おれは目をつぶって自分の好きなように、自分のためだけに歌った。

 一曲終えると、猫はまだそこにいた。ふいに若い男が寄ってきて無言で投げ銭をしてくれる。驚きつつ礼を言うと、そいつは目を合わせることもなく会釈して去っていった。

 百円玉が一つ入っていた。改めて猫を見ると、同じ姿勢のまま関心なさそうに通りに視線を投げている。投げ銭をくれた男は、おれの歌というよりこいつに惹かれただけかもしれない。癪だがその可能性は十分にあった。それでも金は金だ。

「もう一曲いくか?」

 問いかけても返事はない。猫なんだから当たり前だ。おれは勝手に次の曲をはじめた。

 終電まで粘って五千円近く稼いだ。猫はおれの傍らに留まり続け、それがちょうどいい客引きになって何人も投げ銭をしてくれたのだ。

 ギターを片付けても逃げる気配がないので、近くのコンビニで缶ビールとつまみを買い、心ばかりのお礼にと食い物を分けてやった。猫は前足でスルメを押さえつけてうまそうにかじった。

「お前、家はあるのか?」

 首輪はしていなかったが、野良にしては少し毛並みがよすぎるようだった。どこかから逃げ出してきたのかもしれない。そうだとしても飼い主の家など知りようもなかった。おれは相手が逃げないのをいいことに、しばらくこいつを預かることにした。

 同じことをやれば、また稼げるかもしれないからだ。







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