第75話 森
ペガサスは驚くべき飛行速度だった。普通の馬が全力疾走する倍ぐらいの速度で、夜の空を滑るように飛んで行く。羽ばたき自体はそんなに激しくないのにこの速度を維持できていると言う事は、何か特別な力が働いているのかも知れない。風切り音がやかましいが、こればっかりは仕方がない。
ラビリントを脱出した俺達は、まず北に向かい国境を越える事を優先した。いくらラビリントの兵が必死に追って来ようとも、国境さえ越えれば簡単には手出しできなくなる。身分を隠して追手を潜り込ませる可能性はあるが、堂々と行動できないために人数は限られてくる。そうなれば力で排除するのは難しくない。
リムニ湖を突っ切って商業国家まで辿り着ければ一番なんだが、流石に無補給で横断できる距離ではないので、陸地で何度か休憩を挟みながら移動するしかなかった。
「見て! 夜明けよ!」
出発してから数時間、東の空が徐々に明るさを増していき、太陽が少しずつ姿を現し始める。発見されるのを防ぐために高度を高くして寒さに震えていた俺達にとっては、まさに希望の光と言うべきものだった。
「ケイオス! そろそろ休憩させなとペガサスがもたないぞ!」
すぐ後ろを飛んでいたリーシュが風切り音に負けないような大声で警告している。そう言えば最初に比べて速度が随分落ちてきたように感じるし、馬の息も荒くなっている。飲まず食わずで飛ばせ続けているし、これが人間なら仕事を放棄しているかも知れない待遇だ。
「休憩にしよう! あの森の中へ降りるんだ!」
眼下には街らしき物は見えないが、旅人の一人や二人居ても不思議じゃないので、なるべく人目につかない位置で休憩する必要があった。速度を落として徐々に降下し始めたペガサス達は、やっと休憩出来る事を悟ったのか、さっきからしきりに嘶いている。小さかった眼下の森が少しずつ大きくなっていき、木のてっぺんと同じ目線になってすぐ、俺達は数時間ぶりに自らの足で大地を踏みしめる事が出来た。
「あー……ホッとするぜ。地面がこんなにありがたい物だなんて思わなかった」
「本当にね。空を飛ぶのは面白さより怖さの方が勝ってるわ」
ハグリーやルナールなど高い所が苦手な者は、ペガサスの背から降りるなり四肢を放り出して地面に寝ころんでいた。他の者もそこまでではないものの、大体が似たり寄ったりの反応だ。
「リーシュ。今どの辺かわかるか?」
「もう国境は越えてるはずだから、ホラリス国内にあるどこかの森だろう。ホラリスは小さい国だし、街や村の数も少ないはず。補給物資を買い揃えようとしたら簡単に足がつくと思うぞ」
ふむ……。確かにペガサスと言う個人で所有するには高額な魔物を一人一頭所持していれば、あいつらは何者なのかと人々の耳目を集めてしまうだろう。しかしこのまま食料も水も無しで進むのはどう考えても無理がある。やはり一度街か村など人の集落に立ち寄って、物資を集める必要があった。
「地図でもあればいいんだが……手ぶらだしな」
「仕方ない。森の中を探してみよう。何か食べ物が見つかるかも知れないしな。街を探すのはその後だ」
とりあえず腹ごなしをしなければ人も馬も動けなくなる。森の中なら野兎の一匹、果実の一つぐらいは見つかるだろうと思い皆を立たせたその時、どこからか飛来した一本の矢が、鋭い音と共に俺の足元に突き刺さった。
「動くな!」
慌てて身構えた俺達が見たものは、自分達を取り囲む弓兵の姿だ。特徴的な耳と統一されたような緑色の服――間違いなくエルフだ。俺達は知らずにエルフの勢力圏内に侵入していたらしい。
弓を構えるエルフ達はこちらを完全に包囲している上に、隠れた場所からも狙われているらしく、肌がひりつくような殺気を感じる。いったいいつの間にこれだけの数が接近してきたんだ? 疲労が溜まっていたとは言え、自分達の迂闊さが恨めしい。今更逃げ出せそうもないし、このまま黙っていても蜂の巣にされるだけだ。黙ってやられるよりここは一か八かで仕掛けるかと覚悟を決めかけたその時、エルフ達の間から一人の人物が現れた。
「お前達何者だ? 我等が領域に無断で入り込んで、無事で済むとは思っていないだろうな?」
エルフ達の代表者らしい男は、他のエルフ同様緑色の服に弓を装備している。他と違うのは頭にサークレットを着けているぐらいか? 彼は殺気の籠った厳しい視線で俺達一人一人を観察していたのだが、俺達の面子の中で唯一のエルフであるラウを見た途端、男の目が一段と厳しくなった。いや、正確に言えば彼女ではなく、彼女の首につけられている奴隷用の首輪に反応したのだ。
「むっ!? 我等が同胞を奴隷にしているのか!? 貴様等、命は無いものと思え!」」
「待ってくれ! こちらに敵意は――」
「待って! 待ってよ!」
こちらの話も聞かずに激高した男が手を振り上げ、それに反応したエルフ達が弓を放とうとした瞬間、意外にも彼等を止めたのは俺を嫌悪していたはずのラウ自身だった。彼女は俺達を庇うように大きく手を広げ、エルフ達の前に立ちはだかる。
「私達に敵意は無いわ! 無断であなた達の森に入り込んでしまったのは謝ります! それに、確かに私は奴隷だけど、彼等に恨みはないの! お願いだから話だけでもさせてちょうだい!」
今まで散々俺に悪態をついていた人物とは思えないラウの行動に、エルフ達はともかく俺達は呆気に取られていた。俺の知っている彼女なら、これ幸いとエルフ達に加担して俺達に攻撃を仕掛けてくるのが普通だろうに。いったいどう言う心境の変化だ?
「……同胞がそこまで言うのなら、とりあえず話だけでも聞いてやる。そうだな……そこの女二人。お前達だけついて来い。他の者は牢に入ってもらうぞ。この条件を受け入れられないというのなら、この場で全員死んでもらう事になる」
男は俺とシーリをご指名のようだ。とりあえずこの窮地を逃れるためには、一時的にせよ彼等の言い分を飲むしかない。拘束用の縄を持って集まって来るエルフ達を眺めながら、俺は抵抗しないようにリーシュ達に指示するのだった。
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