第25話 出国

 アガットは馬車の荷台のカーテンを薄く開けて、外を見た。


「雨が降り出してきましたね」

「そうね」


 目の前のユーディアは、憔悴した風で、そう返してきた。


 本当は、訊きたかった。何があったのか、どうして彼女は愛した人と別れなければならなかったのか。

 ユーディアが発する言葉の一つ一つ、周辺の人間の動きの一つ一つ、それらを注意深く見聞きしていれば、薄々ながら感じるものはある。

 けれども、やっぱり訊けなかった。

 それは彼女をますます苦しませることになるだろうと思ったからだ。


 ユーディアは、世界を知っていた。

 虐げられ、軽蔑され、小さくなって生きていかなくてもいいのだと、教えてくれた。

 そんな彼女を苦しめるものを、できることなら全て排除したかった。

 だから、訊けなかった。


「ねえ、アガット」

「はい」


 ふいに話し掛けられ、顔を上げる。

 彼女は窓の外を見たまま、言った。


「神さまって言っても、私の心の内までは分からなかったのね。ようやく、今、気付いたのだわ」

「はい……?」


 何を唐突に言い出したのだろう。言っている意味が分からない。


 雨脚は、どんどん強くなってくる。

 それはまるで、この国から出て行くことを許さない、と雨が言っているかのようだった。


 ユーディアはこちらに振り向き、にっこりと笑った。


「私たちが初めて会ったときのこと、覚えている?」

「え、は、はい。もちろん」


 彼女はマロウに連れられてやってきた。とても美しい銀の髪だと思った。


「私あのとき、アガットが『仲間』だって言ってくれて、とても嬉しかったの」

 

 ユーディアは、何か大切な思い出を守るかのように、胸に手を当てて目を閉じた。


 ああ、そんなことを覚えていてくれたのか。


「私は、あのとき妃殿下が私のことを庇ってくれて、それがとても嬉しゅうございました」


 それは、生まれて初めての体験だった。

 そのときまで、アガットを庇ってくれる人など、誰一人としていなかったのだ。


「ああ、あれは、庇ったというより、私が勝手に我慢ならなかっただけなのよ」

「もしそうでも、私はとても嬉しかったんです」

「ならいいけれど」


 そう言うと、ユーディアは手を伸ばしてきて、アガットの手を握った。


「本当に今までありがとう」


 そして、美しく微笑む。

 なんだか照れ臭くなって、俯いた。顔が赤くなっているのではないか。


「い、いえ、そんな、お礼を言われるほどのことでは」

「ううん、言うほどのことなのよ。アガットには、今まで本当にお世話になったわ」

「そんな……」


 そんなことはない。

 それに、それではまるで、今生の別れの言葉のようではないか。

 今生の別れ。自分の頭の中に浮かんだ言葉に、はっとする。


 そうだ、今生の別れなのだ。

 彼女はこの国から出て行く。

 アガットはあの王城の中で生きて行く。

 ユーディアが気軽にこの国に帰ってくることはもうないし、アガットが気軽にこの国を出られることもない。

 きっともう二度と、会うことはない。


 頭では分かっていたはずなのに、どうしてか現実として受け止められていなかったのだ。


「妃殿下……私……」


 何か言いたかった。けれど、言葉が出てこない。

 今までの感謝の気持ちを述べたいのに、何を言っても陳腐になる気がする。


 そうしているうち、雨音がさらに激しくなってきた。

 ユーディアは握っていた手を離すと、また黙って馬車の外を見る。


「妃殿下、これでは船を出すことはできないでしょう。どこかで泊まらせてもらって、様子を見なければ」

「いいえ、早くここを出なければ」


 頑なにそう言う。


「出てしまえば、大丈夫と思うの。父さまと母さまもそうだったし。早くしなければ、民に影響が出てしまうかもしれないわ」

「あの……?」


 何を言っているのだろう。

 そうは見えないが、ユーディアは冷静な判断力を失ってしまっているのだろうか。どこかおかしくなってしまっているのではないだろうか。


 とはいえ、この天候で船を出す人間などいないだろう。

 これでは、どうやっても無理だ。さすがにここまで酷い嵐になって港に到着すれば、ユーディアだって諦めるだろう。

 港近くの宿を探さなければ。


 そう、この雨は、少しおかしい。

 なんだかじっとりと身体に絡みつくような、そんな嫌な感じがする。


 それでも馬車は、港に辿り着いた。

 やはりその頃には、ひどい嵐になっていた。


「妃殿下、やはり、これでは……」

「少しこの子を見ていて」


 そう言うと、ユーディアは外套を素早く着て、扉を開けて外に出た。


「いけません、こんな雨の中……!」


 だが彼女は聞かない。

 慌てて後を追おうとするが、御子を置いていくわけにもいかず、さりとて雨にさらすわけにもいかず、濡れないように注意深く外套を被せ、自分の身体で守るように抱えて、外に出た。

 だが急に風に煽られて、ふらついてしまう。赤子だけは守らねば、と足を開いてふんばった。


 なんとか顔を上げると、彼女が港の端にある、船着場の管理人が住まうような小さな小屋に駆けていくのが見えた。

 ユーディアが入り口の扉を何度か叩くと、中から男が一人、顔を覗かせた。


「ああ? なんだあ? あれっ、いつかの嬢ちゃんじゃねぇか! どうした?」


 なんとか追いつくと、後ろでユーディアが話すことを聞いた。


「船を出して欲しいの」


 ユーディアの言葉に耳を疑う。この天気の中、本気で船でこの国を出るつもりだ。


「はあっ? 無理に決まってんだろ、こんな雨の中! それでなくとも海流が複雑だって言ったろ? この辺りを知り尽くしてる俺らだって今日は無理だ!」


 男の反応は当然と言えた。


「では船を売ってちょうだい」


 そう言って、ユーディアはいくらかの金貨を男に握らせた。

 男はそれに目を丸くして、戸惑っているようだった。


「いや……でも……」

「足りない? では」


 金貨をもう一枚、男の手に乗せた。


「いや、本当に危ないし……」

「そう。じゃあ他の人に頼むわ」


 そう言って男の手の中から金貨をひったくる。くるりと背を向けるユーディアに向かって、男は大声を出した。


「分かった、分かった! じゃああの端に停めてある船を使いな! もうあまり乗っていない船だが、まだ乗れる。でも、どうなっても知らないからな!」

「ありがとう」


 ユーディアがさきほどの金貨をもう一度男の手の中に戻すと、男は手を握ってばたんと扉を閉めた。

 ユーディアはこちらに振り向いた。


「あら、出てきてしまったの?」


 首を傾げて、アガットに言う。


「あ……申し訳ありません。でも、あの、船を手に入れても、これでは……」


 雨脚は強くなるばかりだ。船を売った男は船乗りだろうが、そんな人間が無理だと言っていたなら、無理に決まっている。


「そうね、国を出るなと言われているのかもしれないわね」


 その言葉に息を呑む。彼女も感じているのだ。

 この雨に、何者かの意思が働いているような、感覚。


 ユーディアは大きく息を吸い込んだ。

 そして、強風の中、叫ぶ。


「聞きなさい!」


 この雨の中、もちろん誰もいない。一体誰に対して言ったのか。

 彼女は、王城の、いや礼拝堂の辺りを見つめていた。


「殺せるものなら殺してみなさい! あなたの血を引く、私とこの子を殺せるものなら、やってみるがいいわ!」


 おかしくなってしまったのだと思った。

 そもそもこの雨の中、船を出そうだなんて正気の沙汰ではない。

 よほどの事があったのだ。彼女の心は既に壊れてしまっていたのだ、と思ったそのとき。


 雨が、弱まった。

 風が、止んだ。

 雲が、晴れていく。


 そんな馬鹿な。

 あれほどの雨だったのに。

 アガットは口を開けて、空を見上げるしか出来なかった。

 小屋にいた男も、閉めていた扉を開けて、顔を覗かせている。


「おいおい……なんの冗談だよ、これは」


 男も気になってずっと見ていたのだろう。扉を閉めていたからユーディアが何を言ったかまでは分からなかっただろうが、それでも彼女の言葉がこの天気を呼んだのだ、とは思ったことだろう。


 ユーディアは、手近にあった桶で船の中に溜まった水を簡単に捨てたあと、馬車の中の荷物を、さっさと船に積み込み始めた。

 本来ならアガットがその作業を手伝うべきなのだろうが、腕の中に赤子がいたし、それより何より、奇跡を目の当たりにして、動くことができなかった。

 全ての荷物を船に載せたあと、ユーディアはアガットの前に立った。


「ありがとう、見ていてくれて」


 そう言って、赤子を受け取る。アガットはただ、彼女の動きに従うだけしかできなかった。

 ユーディアが船に乗り込む。そして、こちらに振り向いて、言った。


「アガット、ありがとう。あなただけが、私の味方でいてくれた。感謝しているわ」


 赤子を抱き、銀の髪をなびかせ、船の舳先に立つ彼女は、さながら女神のようだった。

 風の女神の名を持つ少女。


 しばらく見惚れていたが、彼女が船と港を繋いでいた綱を外し始めたのを見て、はっとして駆け寄る。


「お、お待ちください!」

「なに?」

「私も……私も行きます!」


 アガットのその言葉に、ユーディアは首を横に振った。


「私とこの子は大丈夫と思うけれど、あなたの安全は分からないわ。危ないの。ついてきてはいけない」


 やはり、何を言っているのか分からない。

 セクヌアウスに『呼ばれた』人間。だからなのだろうか、だから彼女らの安全は保障されているのだろうか。


 だが、無茶だ。

 仮に船が無事にどこかに着いたとして、それからどうする?

 赤子を抱えた女一人、たとえ豊富な金子を持っているとしても、生活していけるのか?

 答えは明白だ。


 けれどそんなことは、ユーディアだって分かっているのだろう。でも、それでも、行こうとしているのだ。


「あなたは王城に戻りなさい。そして馬車を返してね?」


 なんとかしなければ。

 ここで彼女たちを行かせてはいけない。

 なんとか。


「嘘つき!」


 口をついて出た言葉はこれだった。

 ユーディアは驚いたように何度も目を瞬かせた。


「いつか、赤毛が有難がられている国に連れて行ってあげたいって言ったくせに! 嘘なんでしょう! 私をからかったのだわ!」

「アガット……」


 何を言っているのだろう。ユーディアを罵るつもりなど、毛頭ない。

 けれど、何を言えば彼女が留まってくれるのか分からない。


「私も連れて行って! 私だって、赤毛が珍しくないっていう土地に行きたい! 世界が見たいの!」


 これは、本音だ。

 この国で、小さくなって生きていくのはもう嫌だ。ユーディアもいなくて、赤毛を気に入ってくれた子どももいなくて。それはどれだけ虚しい生活だろう。

 だから、連れて行って、私を。どうか、どうか。


「本当はね……」


 ユーディアは囁くように言った。


「不安で不安で、怖いの。私一人でこの子を育てられるのか、本当に不安なの」


 涙が一筋、彼女の頬に流れた。


「怖いの、アガット」


 彼女はしゃくりあげながら、そう言った。


「ええ、ええ、そうでしょうとも」


 だからアガットは、何度も何度も頷いた。


「本当に、ついて来てくれる……?」

「御意のままに」


 アガットは船に飛び乗った。


「先に言っておきます。後悔など、しませんわ」

「ありがとう……。そうね、あなたには、全てを語らないといけないわ」


 振り返ると、一部始終を見ていた御者が、馬車を出すところだった。

 アガットは、船と港を繋いでいた綱を、外した。

 船はするすると、海の上を滑っていく。

 この船は、新しい世界に向かっているのだ。そう、思った。

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