純白の魔王

江戸端 禧丞

第1話・朝

 上質な睡眠をとれたのが気持ち良く感じられて、朝の微睡みの中にいて寝床から出られない男性。いつも遅刻ギリギリな事を思い出しながら、気だるげに髪を掻きあげて上体を起こした。布団を畳んで押し入れの中に仕舞い、スウェットからスーツに着替えてトーストにバターを塗りたくって完食すると部屋の鍵を持ち、履き古した黒い革靴に足を詰め込み玄関のドアを開けた。男性は中肉中背、短く整えられた黒髪に銀縁の眼鏡をかけた30代の青年、真面目で少し神経質な目立った個性は見受けられない人物だ。


 この青年、少々身体が弱く、ちょっとした事がストレスになって寝込んだりしがちなのだが、その日は気温が高く陽炎かげろうが立ちのぼる様子が見えるほど暑かった。鞄に常備している扇子を取り出して、顔を扇いだり日除けに使ったりしつつ満員の通勤電車に乗り込み、満身創痍まんしんそういの状態で会社に着いた。これ以上歩くのは難しいと判断した彼は、エレベーターに乗って自分の勤め先があるフロアへ行くための階数ボタンを押し[閉じる]のボタンを押した。その直後だ、人生最大級の目眩が彼を襲ったのは──意識が鮮明になり、倒れたまま目で周囲の状況を窺うと真っ暗な空間に人型の何かがいる事に気づいた。青年が意識を取り戻したことに、人型の何かも気づいたらしく、信じられない様なことを言葉にし始めた。


「…おう、気づいたか。悪いな、都市伝説の異界に行くための手順を試してるヤツとお前を間違えたんだよなぁ…隣りのビルでさぁ、いやホント悪いけど、いったん魂と身体離しちまうと元に戻せねぇんだわ」


「マジで?っていうか、誰?」


「俺が誰かはどうでもいいこった、まぁそれでだな、お前に選択肢をやるよ。このまま俺に食われるか、記憶はそのまんま別の世界で生まれ変わって過ごすか、どっちが良い?」


[どっちが良い?]ではない、食われるか生まれ変わるかなら、大概の人間は[生まれ変わる]を選ぶ。ツイていないことに、隣のビルで朝っぱらから異世界移動をしようとしていた人間と自分が間違われる悲劇、おそらくその人物は後で目の前にいる誰とも知らない人喰いに食われるのだろう。たまたま間違えられたこの青年も、瞬時に[生まれ変わる]を選んだ。天涯孤独で仕事に忙殺されるこの世界に未練など一つもない、例え虫だとしても何かに生まれ変われるならそれも良いと思えた。


「じゃあ、生まれ変わる方向で」


「OK、次に気づいたらソコが異世界だ」


 本当にそうなるなら、それが望ましいと思わずにいられなかった。そんな人生だった、意識が薄らいでゆく中で最後に見たのは人型の何かがニタリと嗤っている姿だった。目覚めると、誰かが何やらボソボソと話している様子だったが、視界は良好とは言えない。首を回してグルリと360度確認してみるが、全身を何かに包まれているようで動きにくいと思いつつ手を伸ばして目の前の壁をペタペタと触ってみる。そうすると足元がグラッと揺れて、彼が入っている何かが誰かに持ち上げられる感覚がして再び安定した場所に置かれた。周りからはガヤガヤと賑やかな声が途切れずに聴こえてくる、このまま何もせずにいれば外が見えないと思い、彼はとりあえずペチペチと見慣れない小さな手で壁を叩くがヒビの1つも入らない。暫くすると 手に壁以外の何かが絡み始めた、握ってみると背中に感触を感じたので、もしかしたら鳥系の何かに生まれ変わったのかも知れないと、手で叩くのを止めて背中に力を込めてみる。直ぐにビキビキと壁にヒビが入っていき、あっという間に視界が晴れたと思えば身体を誰かに掴まれ、高々と掲げられると同時に恐らく元青年のこれからの名前だと思われるものが叫ばれた。


「魔王陛下万歳!!!」


「リリオネル陛下万歳!!!」


(─……………魔王!!?)

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