第122話 担任と夫、立場の違い

「当たり前だ」

 口では即答したものの、実際にはこれが天瀬の脱いだばかりの服だということを一瞬、忘れていた。

 となると、時間を掛けていたら、あらぬ疑いを掛けられる恐れも……急ごう。意識過剰かもしれないが、私は服の匂いを嗅がないよう鼻呼吸に努めつつ、廊下を元来た方向へと歩みを早めた。二階以上はどこも窓が開かない可能性が高いから一階だな、いや、各階には非常口があるはずだが等と迷う余裕はなかった。一目散に一階を目指す。バッタが飛び立たないよう、気を遣いながら。

 って、別に私は平気でバッタを掴めるのだから、こんなことする必要なかったんだと気付く。さりとて、今さらバッタだけ掴んで外に放つのも手間は変わらない。児童の服を持っている理由が説明できなくなるとまずいので、このまま行こう。

 行きしなよりも今の方が気持ち的に焦っているせいか、スピードも速くなっていた。危うくよそのクラスの男子児童とぶつかりそうになったことが一度あったが、うまくよけて、一階に到着。そこで従業員に見とがめられた。

「お客様、どうかなさいましたか」

 よほどおたおたしているように見えたのか、その年かさの女性従業員の表情は心配げで、今にも手を差し伸べてきそう。

「あ、いや、たいしたことでは。部屋にバッタが」

「バッタ、ですか? それは大変失礼を。係の者に――」

「ちょ、違うんです。誤解させるような言い方をしてすみません。部屋にいたのではなくて、子供の服か荷物にひっついていたのを、そのまま持ち込んでしまったみたいで。捕まえてすぐに放とうと思ったら窓が締め切りみたいなので、こうして」

「まあ。ではこちらで」

 従業員はユニフォームのポケットからティッシュのような物を取り出すと、素早くバッタを包み込んだ。そのまま力を込めて潰すのかと思ったが、違った。フロント脇の窓――左右ではなく、上下に開くタイプ――から、はらりと外にバッタを放った。

「どうもありがとうございます」

 手慣れた様子に感心しながら、礼を述べた。

「いいえ。お持ちの着物も洗濯しておきましょうか。臭いがつくような虫ではないとは思いますけれども」

「あっと、どうしようかな。僕のではないので」

 デザインはもとよりサイズからして当たり前だ。言わずもがなのことまで言ってしまった。

 だけど相手の女性は気付かないのか、気付かないふりなのか、変わらぬ微笑顔で返答を待ってくれている。

「まあ、大丈夫です。本人に渡して気にするようでしたら、そのときはお願いするかもしれません」

「そのときはどうぞ遠慮なく、お申し付けください」

 京都の街や人には敷居が高いというイメージを抱きがちなところがあるけれども、こういう応対をしてもらえると、どこかほっとするな。

 あっと、ちなみにだが、ここでの「敷居が高い」の使い方だと、二〇〇四年の時点では広辞苑的には誤りあるいは俗説扱いだったかもしれないが、年月を経て新たに出た改訂第何版だかでは、俗説扱いじゃなくなっているから、注意されたし。決して、京都に不義理をしているつもりはない。

 こうして騒動は収まり、本来の役割を果たしに戻ろう、ぼちぼち入浴の順番が回ってくる頃合いだろうからと、みたび、急ぎ足になった。階段を昇っていくと、ちょうど長谷井が駆け下りてきてぶつかりそうになる。実際にはごく軽い接触に過ぎなかったのだが、どちらも勢いが付いていたためか、その場で尻餅をついた。

「痛てて。あ、先生。すみません」

「こっちこそすまん。おまえ達に注意しといて、このざまはないな。どうした、風呂の順番が来たか?」

 先に立ち上がり、長谷井を、腕を掴んで引き起こしてやりながら尋ねる。相手は頷いた。

「二組の連城先生がもうすぐ男子の方は空くからと知らせてくださって。行ってもいいのか、念のために岸先生に聞こうと思ったらいないんだから」

「悪い悪い。ちょっと用があってだな」

 弁解している途中で気付いた。長谷井が、私の手にある服を注視していることに。今さら隠しても無意味どころか、帰って怪しまれるだけだろう。長谷井の出方を待つとしよう。

「先生、あの」

「うん?」

「持っているシャツって、確か天瀬さんが今日ずっと着ていたのとそっくり同じに見えるんですが」

「そうだよ。副委員長の着ていた服だ」

「え……もしかすると、天瀬さんに何かあったんですか?」

「いや、そういうんじゃないぞ」

 応じながら、私は長谷井の必死な感じが、自分と重ね合わさるような気がして、何とも言い表しがたい心地になった。彼のような年頃の男子の気持ちがよく分かる。一方で大人として、ちょっとからかってやりたくなりもするが、そこは抑制しよう……なるべく。

「安心していていい。バッタが服の間から入っただけだ」

「バッタ?」

 焦りと必死さが和らぎ、代わりに疑問が大部分を占める表情になる長谷井。

「な、どういうことなんですかっ?」

 勢いよく説明を求めてくる。天瀬に直接聞こうとは思わないのか、思っていても実行には移せないということなのか。多分、後者の気持ちの方がより大きいんだろう。

 ここで私の中に、いたずら心が芽生えかけた。クラス担任の立場を離れ、天瀬美穂の将来の夫としてのいたずら心だ。

 長谷井にこの服を持たせてやって、天瀬のいる部屋に行かせたらどうなる?


 つづく

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