第60話 イベントクリア……とは違う?

 物のついでに、季子さんがお茶を入れてくれることになった。

「美穂さんは今日は学校へは?」

「行ったよー」

 親に聞いたのに、子供が答えた。

「そうか。元気でよかった。みんなに色々聞かれたんじゃないのかな?」

「それがうまい具合に伏せられたみたいで」

 今度は子供に聞いたつもりだったのに、母親が答える。

「報道では娘の名前は出ませんでしたし、詳しい状況も言われていません。多分、下校中の児童を前に暴れた暴漢を、先生が止めに入って刺された、ぐらいが周りの認識なんだと思います」

「そりゃあよかった」

「え、先生まで何で?」

 天瀬が右手前の座布団にちょこんと座って、びっくりしたみたいに両手を上げた。

「何でって何だ?」

「ヒーローになり損なったのに。もったいないと思わないのかなって」

「ヒーローって……まあ、確かに助けたけれども、ヒーローになって騒がれたくて助けたんじゃないからね」

「ふうん。でも、私はヒーローだと思ってるからね、先生のこと」

 事件に遭遇した後遺症なんて全然感じさせない笑みで、彼女は私の右腕を引っ張った。

 途端に痛みが走った。

「!」

「どうしたの先生?」

「あ、天瀬、さん。右腕は今、だめ」

「えっ、治ったから退院したんじゃないの?」

 このやり取りが聞こえたのか、季子さんがちょうど鳴り始めたやかんを火から下ろして、飛んできた。

「これっ。退院しても大丈夫というだけで、完治したのではないわよ。――本当に申し訳ありません、先生」

 天瀬に私の右腕を離させ、続いて、頭を下げさせる季子さん。無論、彼女自身も深々と頭を垂れる。

「いえいいんです。大丈夫です。最初に言えばよかったかな」

「先生、ごめんなさーい。お詫びに、先生がヒーローになりたくなったら、いつでも言って。私からみんなに説明するわ」

 いや、だからそうじゃなくて。――まあ、いいか。

「今のところは、天瀬さん一人で充分だよ」

 そう答えたところへ、季子さんがお茶を運んできた。


 ところで、私には合点が行っていないことが一つあった。天瀬母娘が帰ったあと、独りになって考えてみた。

 あの襲撃者の男――渡辺わたなべ某という名前らしいが、事件そのものを早く忘れたいので、覚えるつもりはない――を捉え、警察に引き渡したことで、私は天瀬美穂を助けたことになる。そのはずだと思っていた。

 言い換えると、私は、この十五年前に呼ばれた理由に対して、答を出したはずだ。それも多分、最高の形で。

 となると、一晩眠って、次に目覚めたときには、十五年後の、つまりは元いた時代の世界に戻っているんじゃないかなと期待していた。いや、信じ切っていたくらい。だから、病院での夜は、この時代の天瀬美穂との別れが惜しくなってきて、眠らずに頑張ろうかとか、せめて小学生の彼女に最後にもう一度会って、ちゃんと別れを告げてから眠ろうかとか、あれこれ考えたのである。

 結局、疲れが出て寝入ってしまったのだが……朝、目覚めると病院のベッドにいた。

 この段階でもまだ私は、戻ってきたのだと考えていた。何しろ、元いた世界で大型トラックか何かに跳ねられた刹那、十五年前に行かされたのだ。戻ったら病院のベッドにいるのはあり得る話じゃないか。火葬場の中だったらどうしようかとすら、思ったくらいだ。

 でも、実際には違った。病院は病院でも、十五年前のままだった。


 つづく

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