第49話 翼のない天使①
今から数世紀以上も前のことになる。
ファイバに対する防衛戦争が始まった頃、反攻作戦と並行して立ち上げられた計画がある。
ヴェルヌ計画、というのがそれだ。月面上に都市を建造し、そこに非戦闘員を中心とした人類約十億人を移住させるという冗談みたいに壮大な計画だ。この壮大な計画はその規模の大きさに反比例して極めて短時間で練り上げられ、国家の枠組みを越えた大事業として発案からたったの三年余りで開始された。正直なところ、それはその当時この計画の内容をじっくり吟味する余裕が世界中のどこにもなかったからであるし、文字通りこの地球から逃げ出したいという現実逃避の行き着いた先の産物であった。
ともあれ。ヴェルヌ計画は発動され、月面都市の建造が始まった。それは、気の遠くなるような作業だった。人類はすでに衛星軌道上に大規模な宇宙ステーションを造るくらいには宇宙に進出してはいたが、ヴェルヌ計画はその規模も費用も期間もそれに比べて遥かに途方もないものだった。資源は月面から直接調達した方が効率もよかったし低コストに抑えられるのはわかっていたが、そもそも月面にはまだ資源を採掘する施設も加工する工場も輸送する手段もない。当面は地球上から物資を宇宙へ運び上げるしかなかったのだ。呆れるほど大量の物資を宇宙へ上げねばならなかった。従来の使い捨てロケットでは、コストパフォーマンスも効率も悪すぎて、とてもとても使えたものではなかった。
そこで、軌道往還輸送専用の基地が、世界各地に作られた。
ジョバルド基地も、そのうちのひとつになる。これらの軌道往還輸送基地に採用されたのは、マスドライバーによるカタパルトと、当時実用化されたばかりの、パルス発振型水膜方式レーザー推進システムによるライトクラフトだ。地下約七百メートルから東方向へ斜め四十五度の角度で設置された全長一キロのマスドライバーのカタパルトで、およそ一千メガワットもの大電力をかけてライトクラフトそのものを射ち出して、さらにそのライトクラフトに基地側から目も眩むほどの大出力のレーザーを照射、機体後部のスパイクノズルで集束、水蒸気爆発を起こさせ秒速九・〇㎞/sの速度を与えるというSF顔負けの推進システムである。必要なのはプラズマ化してしまうアルミ製のカタパルト台座と水と少量の化学燃料と大都市丸ごと一個分ほどの大電力だけ。このレーザー推進往還システムによるおよそ二十年間不眠不休の物資輸送によって、戦争開始から三十年後、ついに、人類の総力の結集とも言うべき月面都市およびスペースコロニー群が完成を見た。
そのころ、人類はすでにこの星の半分近くを失っていた。
コロニーへの移住はすぐさま実行に移された。
その際にもこのレーザー推進往還システムは多少の改良を施されて使用されている。
戦争開始から五十年を過ぎたころになると、人類の総数も活力も目に見えて減退し始め、地球の姿そのものも変わり果てていた。
この星はもう、人類のものではなくなっていたのかもしれなかった。
その間もコロニー移住計画は細々と続けられ、人類の防衛線は確実に後退し、そしてついに、ジョバルド基地はファイバの勢力圏に飲み込まれていった。
もはやこの基地の歴史に価値を見出す者は、どこにもいなくなった。
砂混じりの時間だけが、基地の中をゆっくりと満たしていく。
――あるいは、それ以外の何かが。
◆
今までで一番遅い出発になった。
アルシノエが寝ぼけ眼を擦りながらテントからふらふらと出てきたのはもう朝とも言えない時間になってからで、それは眠りについた時間が日付をまたいでかなり経ってからだったせいだ。
仕方がない。
ファイバと戦った場所で一夜を明かすなんて自殺行為に等しかったし、この野営地までの道のりを結局二人とも歩いて戻った。ハルカナはアルシノエを背負うと言ったのだがアルシノエはハルカナにそんなことさせられない、と頑として聞かず、真っ暗闇の中を二時間近くかけてようやく戻ってきたときにはアルシノエは半ば屍と化していた。
それでもアルシノエは、一度も弱音を吐かずに歩き切ったのだ。
テントに潜り込むや否やアルシノエは死んだように眠り、ハルカナは入口のそばで一晩中周囲の警戒にあたり、それからおよそ八時間後、ようやくアルシノエが起きてきたのだった。
それからすぐに二人は出発した。
ジョバルド基地までは南南西へ約十二キロの道のりになる。ずいぶんと遅い出発になったが、全身にガタが来てるハルカナの歩きでも昼過ぎくらいには到着できる距離だ。出発して二時間も経たないうちに、鉄砂漠は緩やかに終わりを迎えた。瓦礫と鉄屑が徐々にその量を減らしていき、代わって砂色の大地がその下から姿を現し始めた。その砂色の大地を辿って前方に目を遣れば、同じ色をした上り坂が空に交わりそうな高さにまでひたすら続いていた。ノラ山地に入ったのだ。ここまでくればジョバルド基地はもう目と鼻の先だ。上り坂とはいえやはり踏みしめられる大地は歩きやすく、アルシノエが心配そうに何度も声をかけてくれたがハルカナはその都度「大丈夫へいきへいき」と明るく答えた。ノラ山地に入ってからファイバの反応は幾つか捉えたが出くわすことはなかった。これまでのことを考えれば、かなりの幸運だったと言える。
そして、どこまでも続くかに見えた上り坂が唐突に終わり、砂色一色の大地の中になにかの冗談のように引かれた一本の境界線が、見えた。
錆び付き、朽ち果て、無様に壊れた、旧時代の屍の群れのような、鉄柵。
その鉄柵の遥か奥に、廃墟と化した建物群と、傾いて半ば埋もれた巨大な墓標のような構造物が見える。
鉄柵を前に、二人はどちらともなく足を止めた。
「……あれが、ノビリオルの言ってた、廃墟……」
アルシノエが、独り言のように呟いた。
ハルカナは、奥の建物群に目をやったまま、頷く。
「そう。あれが、ジョバルド基地」
ハルカナにとって、約束を果たすべき場所。
人類が希望を託した、科学の極みの成れの果て。
「行こうアルシノエ」
「うん」
アルシノエが頷き、二人は柵の壊れたところを通って基地の敷地内へ入った。
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