チョコミントの憂鬱
社長と過ごした大型連休が終わった私に訪れたのは、大きなチャンスだった。
「新商品の開発か…」
先ほど行われた朝礼で、来年の2月14日――バレンタインデーで私の誕生日でもある――に新商品を出すことが決まったと言うことを部長から聞かされた。
その新商品を開発する権利をゆだねられたのが、私たち新入社員である。
来月にそのプレゼンが行われる予定なので、それまでに新商品を考えるように…と、言うことである。
自分が企画した商品が認められれば来年に商品化されて世間に出て行く――こんなチャンスはめったにないことである。
「片山さん、張り切ってるわね。
もう考えてるの?」
そう声をかけてきたのは松本さんだ。
「夢への第1歩なんで、このチャンスを絶対に逃したくないんです。
しかも、2月14日は私の誕生日ですよ」
私は言った。
「いつかはチョコレートのセレクトショップを出すことが片山さんの夢なんだもんね。
でも熱心なのはいいことなんだけど、先に目の前の仕事を片づけてね?」
そう言って書類を渡してきた松本さんに、
「はい…」
私は返事をすると、彼女の手からそれを受け取った。
昼休みになった。
「それじゃあ、先にお昼ご飯に行ってきます」
私は財布を手に持って会社を後にした。
昼ご飯を買うために会社近くのコンビニに入ると、そこに並んでいるチョコレート関連の商品をチェックした。
新商品の参考にするためである。
「おっ、チョコミントが出てる」
そう呟いた後、12粒入っているチョコミントの箱を手に取った。
もうその時期がきたのかと、私は思った。
これから暑くなるにつれてチョコミント関連の商品が増えてくる。
チョコミントは、数あるチョコレートの中では好き嫌いが多いんじゃないかと思う。
ミントの清涼感とチョコレートの甘さが私は好きな方なのだが、一部ではそれを“歯磨き粉の味”なんて表現する輩もいる。
そう言えば夏にチョコミントの商品はよく見かけるけど、冬に見ることはあんまりないな。
秋冬はイベントの関係もあってか、チョコレートの商品がよく並んでいる。
でもその中でチョコミントの商品は見たことがない。
「サーティーワンではチョコミントがあるんだけどな…」
寒い時期に食べるものじゃないから並ばないのかな?
でも、冬でもチョコミントが食べたいって言う人はいるよね?
「考えてみるか」
新しく出てきたチョコミントをかごの中に入れると、ミートソースのパスタとレモンティーも入れてレジへと持って行って会計を済ませた。
コンビニを後にして会社近くのベンチに腰を下ろすと、先ほど温めたばかりのミートソースのパスタとレモンティーを取り出した。
「いただきます」
いつものように両手をあわせてパスタを食べていた時だった。
「社長、かっこいいよねー」
キャッキャッとはしゃいでいるその声とその言葉に、口からパスタを吹き出しそうになった。
そっと声のした方向に視線を向けると、後ろの方のベンチで3人のキレイな女性たちがお昼ご飯を食べているところだった。
彼女たちは私のような制服ではなく、スーツを身にまとっていた。
秘書課の人たちだ。
やっぱり、秘書課にはキレイな人たちが集まるもんなんだな…。
何とも言えない劣等感を感じながら、私は彼女たちから視線をそらした。
「童顔のくせに低い声って言うギャップがいいと思わない?」
「仕事している時の顔とか、すっごいセクシーだし」
「何もかもがかっこいい!」
社長がかっこいいとか何とか言っていますけど、その人は私の彼氏ですから。
心の中でそう呟いて、目の前の昼ご飯に集中しようとした時だった。
「社長って、つきあっている人いるのかな?」
その言葉に、私の手からフォークが落ちそうになった。
周りに関係のことは秘密にしているとは言え、言われると冷や汗ものである。
「いないよ」
3人のうちの誰かが返事をした時、
「私、社長を狙っちゃおうかなー?
結婚したら玉の輿間違いなしだし!」
誰かがフンと鼻息を吐きながら言った。
やめて!
その言葉が口から出そうになったけれど、レモンティーで喉を潤して飲み込んだ。
「無駄だよ」
「…えっ?」
何を言われたのかよくわからなくて、私の唇から声が出た。
マズい、聞こえちゃったかも知れない。
そう思って目玉だけ動かして後ろの方に視線を向けたけれど、
「何で?
どう言うこと?」
彼女たちは私の出した声…と言うよりも、私の存在に気づいていなさそうだった。
よかった…だけど、“無駄だよ”ってどう言う意味なんだろう?
まさか、私と社長の関係に気づいている…って言う訳じゃないよね?
もしそうだとしたら、どうしよう…。
心臓がバクバクと激しく脈を打っている。
レモンティーを飲みながら次の展開を待っていたら、
「社長、誰ともつきあわないんだって」
その言葉が耳に入ってきた瞬間、私の身に何が起こったのか全くわからなかった。
誰ともつきあわないって、どう言うことなの?
「えっ、どうして?」
「それが私もわかんないんだよね。
ずーっと前に社長のことが好きでアタックしてた子がいるんだけど、社長がその返事に対して“僕は誰ともつきあわない”って言ったんだって。
あんまりにも冷たい声で冷たい言い方をするもんだから、その場が凍りついちゃったわよ。
質の悪い怪談話よりもこっちの方が怖いって思っちゃった」
「ひょえーっ、でもどうして社長はそんなことを言ったんだろ?」
「昔、女性関係で嫌なことがあったからじゃない?
ストーカーされたとか夜道で襲われそうになったとか6股かけられたとか」
「わーっ、超怖いわ」
「あっ、もうすぐで昼休みが終わっちゃう!」
カツカツとヒールの音が聞こえて視線を向けると、彼女たちは早足でその場から立ち去っていた。
「――誰とも、つきあわない…」
先ほどの言葉を呟いたら、手からレモンティーが滑り落ちた。
地面に落ちたそれは中身が広がって、水たまりを作った。
――僕は誰ともつきあわない
そう言っている社長の顔が頭の中に浮かんだ。
「――じゃあ、何で私とはつきあっているの…?」
その呟きに対して答えてくれる人はいなかった。
そうだ、もしかしたら私は意地悪をされているのかも知れない。
彼女たちは私と社長の関係に気づいていて、それで偶然を装って私に近づいて、私の耳に入るように言ったのかも知れない。
いや、そんな訳ないか…。
考え過ぎてしまった自分を反省して首を横に振ると、ミートソースのパスタを押し込むようにして口の中に入れた。
空っぽになったパスタと落ちたレモンティーを拾って袋の中に入れると、近くのゴミ箱に捨てた。
走って会社に戻ると、エレベーターに飛び乗った。
「――私は、本当は社長の何なんだろう…?」
社長は私のことが好きじゃなかったの?
好きだから、私とつきあっているんじゃなかったの?
だから、何度も躰を重ねて…そこまで思った時、私は気づいた。
「――ああ、そうか…」
私は躰を重ねるには好都合の相手だったと言うことなんだ。
要は、セフレだったんだ。
エレベーターが止まったのと同時に、私は逃げるように降りてトイレへと駆け込んだ。
個室に入ると、ようやく息を吐くことができたような気がした。
「――ひどいよ…」
そう呟いた瞬間、私の目から涙がこぼれ落ちた。
社長と会う約束の週末は明日になろうとしていた。
その前日の夜、私は憂鬱な気分になっていた。
湯船に浸かって本日の疲れを癒しているけれども、憂鬱な気分は癒されなかった。
「――どうしよう、明日だ…」
明日、社長と顔をあわせる自信がない。
どう言う理由をつけて社長と会うのをやめようかと、そればかりを考えていた。
風邪をひいた…と言うのは、無理過ぎるからやめた。
それだと会社を休む必要性まで出てくる。
何か適当な理由がないだろうかと思っていたら、私の頭の中にその理由が浮かんだ。
「そうだ、これで行こう」
そう呟いた私は湯船から出ると、バスタオルで濡れた躰を拭きながらリビングに脚を向かわせた。
テーブルのうえに置いてあったスマートフォンを手に取ると、社長に電話をかけた。
時計は夜の9時を過ぎたところである。
この時間なら仕事は終わっているだろうから、社長も電話に出てくれるだろう。
そう思っていたら、
「もしもし?」
案の定で、社長が電話に出た。
テナーのその声を聞いた瞬間、胸がギュッと締めつけられたのがわかった。
この間のことが思い出しそうになるけれども、気を落ち着かせた。
「えっと、心愛です…」
そう言った私に、
「うん、わかってる」
社長は返事をした。
「あの、明日のことなんですけれども…」
「うん」
「その…ちょっと、どうしても行けなくなってしまいまして…」
「どうして?」
その問いかけに、ビクンと心臓が跳ねた。
落ち着いて、落ち着くんだ…。
理由はちゃんと考えた。
後はその理由を社長に話すだけだ。
そうやって何度も自分に言い聞かせると、
「実は、おばあちゃんの具合が悪くなって入院をしたんです…。
それで、お見舞いに行かないといけなくて…」
社長に先ほど考えた理由を伝えた。
どうかウソだと言うことがバレませんように…。
スマートフォンを握りしめて願っていたら、
「ああ、それは仕方ないね」
社長が言った。
どうやら信じてくれたみたいだ。
「そう言うことなので…」
「わかった、じゃあまたね」
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
ブツッ…と音がして、社長が電話を切ったのがわかった。
電話が終わったその瞬間、私はその場に座り込んだ。
「――し、心臓に悪過ぎる…」
でも信じてくれたみたいでよかった。
話に出したそのおばあちゃん、私が高校1年生の時に亡くなったんだけどね。
と言うか、社長から逃げるためのウソに使ってごめんなさい。
スマートフォンをテーブルのうえに置くと、渇いた喉を潤すために冷蔵庫へと足を向かわせた。
冷蔵庫のドアを開けて水が入ったペットボトルを取り出すと、それが視界に入った。
「あっ、チョコミント…」
新商品の参考としてチョコミントを買っていたことを思い出した。
食べるどころか開けることなく、冷蔵庫の中にそのまま入れていたのだ。
ペットボトルと一緒にそれも取り出してリビングに戻ると、下着とパジャマを身につけた。
水を飲んで渇いた喉を潤すと、チョコミントを開けた。
そこから1粒取り出すと、口の中に放り込んだ。
「苦い…」
思った以上のミントの清涼感が舌を刺激した。
後からチョコレートの甘さがやってくるけれど、ミントの方が強かった。
この苦い感じは、まるで今の私みたいだ。
もう1粒に手を伸ばすことはおろか、新商品を考える余裕は今の私にはなかった。
「――恋って、チョコレートみたいに甘くないんだな…」
ポツリと呟いたその言葉は、1人のリビングに静かに響いた。
久しぶりに過ごした1人の週末は寂しく、そして呆気なく終わってしまった。
社長といることが当たり前だったから、1人の週末に自分は何をしていたのかすっかり忘れてしまっていた。
1人の時の週末は、私は何をしていたのだろうか?
週末が終わって会社に行って、いつものように仕事をしていたら昼休みを迎えた。
「松本さん、一緒にお昼に行きませんか?」
財布を手に持った松本さんに声をかけたら、
「うん、いいよ」
彼女は首を縦に振って返事をしてくれた。
会社近くのカフェで日替わりパスタを頼むと、
「週末、何かあった?」
松本さんが聞いてきた。
「えっ…特に、何もありませんが」
私は首を横に振って返事をした。
どうしてそんなことを聞いてきたのだろう?
そう思っていたら、
「何か様子がおかしかったから。
でも、何もないならいいわ」
松本さんは言った。
様子がおかしい、か…。
松本さんの目はそんな風に映っていたようだ。
「あの…」
「何?」
「失礼だとは思いますけれども…松本さんには、つきあっている人っていますか?」
そう聞いたら、
「いるよ」
松本さんは首を縦に振って答えた。
「そ、そうですか…」
私よりも年上だから、そうだよね。
「つきあい始めて…そうね、3年かしらね」
松本さんは言った。
「3年ですか」
マネをするように言った私に、
「もうそろそろ年齢も年齢だから結婚したいんだけど、まだ先の話になっちゃうかな…。
彼、私よりも仕事の方が大切みたいだから」
松本さんはそう呟いて、やれやれと言うように息を吐いた。
彼女も彼女でいろいろと事情があるみたいだ。
そんなことを心の中で呟いたら、
「そう言うことを聞くと言うことは、片山さんにはつきあっている人がいるの?」
松本さんが聞き返してきた。
ギクッと躰が震えたのを感じたが、
「私は、そう言うのはまだですかね~?
チョコレートが恋人と言いますか、何と言うか…」
アハハと笑いながら、松本さんの質問に答えた。
まさか、その相手が社長だなんてとても言えない…。
と言うか、チョコレートが恋人と言うのは痛過ぎるにも程があるでしょ…。
「チョコレートが恋人…なるほどねえ」
答えを聞かされた松本さんは呆れていたけれど、それ以上は何も聞かないようなのでホッと胸をなで下ろした。
結果オーライだからいいか…。
「お待たせしましたー」
先ほど頼んだ日替わりパスタが運ばれてきた。
今日はきのこのクリームパスタのようだ。
「食べようか?」
そう声をかけてきた松本さんに、
「はい、いただきます」
私は返事をすると、両手をあわせてパスタを食べた。
「新商品の件は順調なの?」
松本さんが聞いてきた。
話が違う方向へ行ってくれたみたいだ。
「うーん、まだ考え中ですね。
冬にチョコミントと言うのはどうかなと考えたんですけれどもやめました」
私が返事をしたら、
「どちらかと言うと、夏のイメージが強いわよね。
後、私はチョコミントが苦手なのよ。
どうしても歯磨き粉って感じがする」
松本さんは思い出したくないと言うように首を横に振った。
やはり、チョコミントと言うものは好きか嫌いかに分かれるもののようである。
社長からの連絡は特にないまま、金曜日の夜を迎えた。
お風呂に入って疲れを癒してパジャマに身を包むと、バスタオルで洗った髪の毛を拭きながらリビングに戻った。
テーブルのうえのスマートフォンに社長からの着信がないかどうかの確認をしたけれど、
「特になし、か…」
そう呟いて、スマートフォンをテーブルのうえに戻した。
ドライヤーで髪を乾かすと、息を吐いた。
「――もう愛想つかされちゃったのかな…」
本当に、私は躰を重ねるためだけの存在だったのだろうか?
社長に初めて会って、恋をして、躰を重ねたあの日のこと。
会社と言う思わぬところでの再会に驚いたけれど、彼は私のことが好きで、私も彼のことが好きだから、お互いの気持ちを受け入れた。
週末は社長と一緒に2人で過ごすことが当たり前になった。
明るい時間に、それも社長とデートをしたことがとても嬉しくて、楽しかった。
私を見つめる目、私を抱きしめる手、私に触れる指、重ねられる唇、そして…ささやかれる言葉はいつも意地悪だけど、たくさんの“好き”がつまっていた。
「――詩文さん…」
私は、あなたのことが好きなんです。
あなたなしでは、もう生きることはできないんです。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
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