第12話 晴夏
「…遥は、それでいいと思ったの?」
「…うん」
皆は、私の拙い話に真剣に耳を傾けてくれた。湊人が反発するように身を乗り出しては、紗奈ちゃんが落ち着かせてを繰り返しながら。でもやっぱり納得いかないのか、下瞼をピクピク震わせて、湊人は拳を潰れるくらい握っている。
「でも…王子はじゃあ、遥のことが好きで一緒にいるわけじゃないっ…てこと…っ?」
ずきん、とした。美冬ちゃんは泣き出しそうだ。身体中が軋むくらいに苦しいのは、そんな顔をさせてしまった負い目から―― ううん、違う。本当は全部、分かっていた。だから今まで言い出せなかった。
こうして話してしまうのを躊躇っていたのは、きっと鷹矢くんの秘密を守るためだけじゃなかった。私自身が、認めたくなかった。私じゃない誰かへの恋心を着ているだけの、かりそめの恋人であることを、言葉にしてしまえば真正面から突きつけられる。真実を直視せざるを得なくなる。
ガラスの夢に逃げたかったんだ。
「…うん…っ」
最初から分かっていたことなのに。それでもいいと引き受けたはずだったのに。ここまで充分、あたたかくてやさしい時間を過ごして来れた。切なくても苦しくても、願い続けた気持ちを秘めてきた。嘘で誤魔化した夢だとしても、その先にあるものを信じようと、この指で触れるまでやりきろうと。自分で決めたのに、私は。
決めたはずなのにどうして、今さら。
「…そう、」
泣いたり、なんか。
「そう、なの…っ」
忘れられない感触がある。離したくない熱がある。封じ込めると何度も決めたはずの、
ひとつ零れたら止まらなかった。貯め込んだ涙はきっと、こんな風に流すものじゃなかったのに。
「……んだよ、それ……」
「林堂…」
「はるが良くたって…」
奥歯の軋む音、震える肩。
「オレはぜってー、許さねェ…ッ!」
「林堂っ!?」
美冬ちゃんが弾き出した声に顔を上げたら、涙の散る向こう側、ここを飛び出していく湊人を、揺らぐ視界がかろうじて捉えた。
「…湊人…!」
追いかけなきゃ。私はシーツをはね除け、ベッドから飛び降りて。
「遥!だめだって」
その腕を紗奈ちゃんに引き留められて、勢いを殺せず振り返る。
「でも、あのままじゃ湊人…!」
「林堂のことも、汲んであげなきゃ。黙ってられないのも…て、あっ!」
渾身の力でもって振りほどく。早く、止めなきゃ。
「遥っ!」
背中の声にも、ほどけそうなポニーテールにも構ってなんかいられない。湊人のあの様子、絶対にタカヤくんを探しに行った。早く見つけなきゃ。今度こそ何が起こるか分からない。
だから、放ってなんておけないの。
私は人気の無い校舎を走り抜ける。
まだ本調子ではないみたいで、少し走っただけでいやに胸が苦しい。それが別の痛みのせいだということに、また目を瞑り知らぬ振りをして。
「はぁっ…」
ここまで、どの教室にもいない。一体どこに――と、窓の下に広がる、地を埋め尽くす新緑に私の視線は引き寄せられる。思い思いに揺らす葉が、手招きしているみたいだと感じたとき、春のあの時の場面が頭をよぎった。
「もしかしてっ…」
どうしてもっと早く思い出せなかったんだろう。私は鋭く切り返した爪先で、廊下に横たわる四角い夕陽を蹴りつけた。
急いで。早く。私のものじゃないみたいな脚に頼みながら、階段を飛ぶように降りて、開いたドアを倒れ込むように掴み、渡り廊下へ半身を出したところで聞こえたのは、静かで、
「おい蓮未」
「…」
「どういうつもりだてめえ」
「…何が」
「はるにあんな顔、させて…」
「…」
不穏な声色。
低木が葉を擦る音に紛れて、確かに。
私は上履きのまま土の上へ逸れる。二人の影はまだ見えない。
「はるがなんて言ったか知らねェけど、王子様ってヤツはそんなに偉いのかよ!?はるを傷つけても許される身分ってわけか!?」
「…」
「別の奴の代わりなんて、それではるが平気だとでも思ってんのかよ!?」
「…うるさいな」
「はあ!?何様だよおまえッ…あんなに泣かせて…!よくも今まで…」
言い争う声。湊人と彼だ。
「…ハルカがいいって言ったんだ」
「こ…の野郎ッ!」
見つけた――!
「湊人!!」
掴みかかって振り上げた拳を、私は両手で抱き止める。
「ハルカ…」
「はるっ?おま、寝てなくて…」
「ばか、何やってんの!」
「馬鹿はこいつだ、ついでにおまえもだ!」
間髪容れずに、湊人は上から声で潰してくる。でも、どう言われたってこの腕を自由にさせるわけにはいかない。
「今、そんなことしたら、レギュラーどうなるのよ!試合、出れなくなってもいいの!?」
「…そんなの!こいつを殴ってから考え…」
「チームに迷惑がかかるのよ!?湊人一人のせいで、みんなが…っ」
わずかに眩暈。
「はる!」
「ハルカ!」
ちょっと大声を出しただけで、またくらりとしてしまう。やっぱりもう少し寝ていないとだめだったみたいだ。
躊躇う湊人の腕を払いのけ、タカヤくんが私を支えてくれる。
「触んなッ」
それを湊人が引き剥がす。タカヤくんの肩から体操服を掴み上げ、鈍い音を響かせながらまた壁に叩きつける。
「…ッ」
「湊人、やめて…」
「遥!」
「いたいた…っ」
キンとする頭を押さえていたら、後ろから紗奈ちゃんと美冬ちゃんの声がした。止めるのも聞かずに走り出した私を、探しに来てくれたんだ。
「紗奈ちゃん、美冬ちゃ…」
ほっとしたのも束の間、その二人の背後から現れる、また別の人影を目に留めて、私は言葉を飲み込んだ。
「こーら!あなたたち、閉会式さぼって、何やってるの!」
相変わらずの甘い抑揚の中に、普段ならあまりない鋭さを聞いて、全員が肩を跳ねさせた。冴子先生だ。その厳しい視線は二人を捉えて逸らさない。湊人がタカヤくんを押さえつけているところを、ばっちり見られてしまった。
「もう一度訊きます。…何をやってるの?」
「あの、先生、これは…」
私は慌てて二人を隠すように立ち塞がる。ただそれはもう完璧に手遅れだった。
「清次さん、あなた体は?休んでいたはずでしょう?」
「それは…」
「…とにかく、もう少し休んでいなさいね。川崎さん、乾さん」
「はい」
「はいっ」
「連れ添って、清次さんを保健室に。ちゃんと寝かせたら、後片付けに回ってね」
「はい」
「それから、蓮未くんと林堂くんは、先生についていらっしゃい」
「…」
「…ち」
タカヤくんの横顔は、先ほどよりは幾らか落ち着いたとは言え、まだ激しい感情が渦巻いているように見えた。それは、自分でも制御がきかないみたいに。
「…行こ、遥」
背中に手を添えられて、見ると、紗奈ちゃんはぎこちなく微笑んでいた。
「…」
これ以上のわがままは何の足しにもならない。僅かに顎を落として応じる私を、ほんの一瞬だけ見たタカヤくんの瞳には、まだ暗色がかかって。
「…っ」
やっと会えた彼を、こんな風に置き去りにしていかなければならないなんて。
紗奈ちゃんたちに連れられながら、私は後方に残してきた二人のことを、何度も振り返った。見つめることしかできなかった。
タカヤくんが、あんなに激しい態度を私に向けたのは「ハルカ」さんが倒れたから。大切に思う人がそうなれば、心配で心配でああなってしまうのも、無理は無いのかもしれない。でも、それにしたって狂おしいほどの取り乱し方だった。それに、何かを怖がる怯えた瞳。
「はぁっ…」
私は息を切らしていた。安静にするように言われても、じっとなんて、していられなくて。
「…はっ…」
今さらなのは私が一番よく分かっている。だけど、タカヤくんをそんな風にさせてしまう「ハルカ」さんという存在について、やっぱりきちんと知るべきだと思ったから。
違う。知りたい。
どうして、彼をあんなにも乱すのかを。傍にいない彼女が。私じゃなくて、彼女が。
「…はぁ…」
一刻も早く。こうして今も速く速くと、私の足を転がすほどに強く。他にどう言えば良いのか解らない、羨ましいにも似た気持ちを飛び超えて、その先は知るのが恐くて、そこで私は、際限なく嵩を増す感情の海に潜ることをやめた。
「…着いた…」
ここへ来るのは、あの夜以来だった。イブの日。重そうな黒鉄の門、若い夕陽を反射する「Hasumi」のプレート。その下のインターホンを押す前に、私は息を整える。
ご家族にお話を聴けたら、分かるかもしれない。その思いつきだけで、ここを目指した。言い様のない気持ちに囚われながら。
鷹矢くんには、彼女のことを訊くことはできないもの。いつかのサルビアに埋もれそうになった、あんな寂しそうな顔はもう二度とさせられない。
「…よし」
私は、宛がっていた人差し指を、押し込んだ。
「嬉しいな、またハルカちゃんに遊びに来てもらえて」
心地よい声と共にふわん、と近づいてくる香り。鷹矢くんのお母さんは、シルバーのお盆にコーヒーカップを二客乗せていた。そしてローテーブルの脇に膝をつく。
「タカヤ、一緒じゃなかったんだ?」
「突然すみません。鷹矢くんはまだ学校で…」
笑顔で迎えられ、私はリビングのソファーに通されていた。「どうぞ」と目の前に置かれた、ほろ苦いアロマを浴びながら一礼をする。
彼は、湊人と一緒に冴子先生に連れられた。今頃、職員室でお説教か、その後の罰掃除をしているところだと思う。お母さんの様子からするに、そういう連絡は入っていないようだから、大きな事態にはならなかったのだろうけど。
そこまで考えて、ひとまず私は胸を撫で下ろす。
「そうなのね。リーナが眠いって言うから私、途中で帰ってきちゃったんだけど、リレーどうだった?ハルカちゃんも走ったんでしょう?」
「はい、鷹矢くんがものすごく速くて。おかげで一位でした」
「そう!それは良かった」
にっこり微笑むそのお顔は、やっぱり鷹矢くんのやさしい笑顔と瓜二つで。だからこそ、先刻の苦しそうに歪めた顔がまたこの胸を、ザクリと痛め付けてくる。
「…」
対面するのは今日でやっと二度目なのだ。そんなに世間話も長く続きはしない。私は唇が触れただけのカップを、ソーサーに置いた。
梨衣奈ちゃんはお昼寝中。訊くなら、今しかない。
「あの…っ」
「なあに?」
「実は、お尋ねしたいことがあって…」
微笑みを絶やさず、私の迷う口をゆっくり見つめて。そんなところだってやっぱり、そっくりで。
「鷹矢くんに、以前、言われたんです…」
コーヒーの中、揺らめく私が見つめ返す。
「私が、ある人に似てるって…」
噛んだ下唇の痕まで鮮明に。
「…『ハルカ』さんって、どんな人なんですか?」
陰はほとんど全て、ひと繋ぎになった。夕闇をとぼとぼ、私は帰路につく。長く話し込んでいたわけじゃない。帰る気になれなくて、まだ感覚の戻りきらない脚をこうして、あちこち引きずり回していただけだった。息を乱すほど闇雲に身体中を駆け回る、どうしようもない気持ちと一緒に。
――…タカヤはね、目の前でハルカを亡くしているの。
ハルカさんもまた鷹矢くんと同じように、ドイツ人と日本人のご両親の間に生まれた。
――家庭環境に問題があってね、小さな頃から施設にいたの。
そんなとき、里親として名乗りを上げたのが鷹矢くんのご両親だった。同じドイツと日本のハーフ。子供達はすぐに仲良くなり、蓮未家は円満だった。
――ハルカは、そうね、良く晴れた夏の、太陽みたいな子だったわね。明るくって、容赦がなくて。
「晴夏」。その名前が、彼女が本当のご両親から受けた唯一の贈り物だった。
鷹矢くんたちが十歳のときから一緒に暮らし始めて、女の子だということを忘れさせるくらい、それはそれはやんちゃな人だったそう。鷹矢くんに負けじと悪さをしては、時には取っ組み合いの喧嘩もしたりして。
――最初は男の兄弟みたいって言われてたんだけどね。気づいたら、仲良くなりすぎちゃった、ていうのかな。まあ同い年だし、うちに迎えたときから、私たちもそれくらいはね…。
少しずつ惹かれ合っているのだろうことは、ご両親も薄々分かっていたそうだ。大人になるまでは静かに見守ると決めていたから、何も言わなかった。お互いに。
――リーナが産まれてからは、ちょっぴり女の子らしくなって、お姉ちゃんらしく、よく面倒を見てくれたものよ。
あの夜、初めて小さな彼女に会ったとき。私のことを「おかえり」と迎えてくれた。その意味をこのとき、私はようやく理解する。
梨衣奈ちゃんは私に、本当に「おねえちゃん」の面影を見ていたのかもしれない。ずっと離さなかった小さな両手、震えていた声。それを思い出す程に、どんな思いだったのだろうかと、胸が締め付けられる。
――勝ち気な性格は根っこのところでは相変わらずだったけどね。ただ、幼少期の生育環境がたたってか、少し体調を崩しやすいところがあって…。
その日。鷹矢くんと晴夏さんは二人で街に来ていたらしい。彼女は体調が優れなくても上手に隠してしまう人で、いつもご家族や鷹矢くんは気を回していた。
――二人で出掛けさせるのはそれが初めてだったのよ。高校入学を控えて、幾らか落ち着きも出てきたことだし、本人たちが一人前のつもりでいたから。私たちも無理に止めなかった。
後悔してもしきれない。そう語る鷹矢くんのお母さんは小さな声を震わせていた。
急に倒れたそうだ。頭から突っ込むように。意識がない以上、受け身なんて取れようはずもない。
――運が悪かった。何度そう言っても、あの子は…。
倒れ込んだ際、柱の装飾で酷く頭部を打ち付けてしまったようだと、後に医師から聞いた。意識は戻らず、そのまま活発な笑顔が帰ってくることは無かった。
晴夏さんは、永遠に失われた。
だからなんだ。今日、私が倒れたとき、あんなにも激しい感情をぶつけて、隠しきれないほどの怯えを宿らせていたのは。
私は、彼に、悲愴な光景を、重ねさせてしまった。
――タカヤは自分を責めて呪って閉じ込めた。塞ぎ込んで、喋らなくなって、かと思えば急にハルカの名前を叫びながら家中を探し回ったり…。このままじゃだめになる。私たちの決断は早かった。
そして、一家は日本へ越してきたそうだ。新しい土地で、家族をやり直すために。
――そうしたらね、あの子。突然人が変わったみたいに…いえ、もう一人の自分を作ってしまったと言ったほうが正しいのね。
「…タカヤの名前に、『鷹矢』という字をあてたのは、それからよ」
「…え?」
「あの子はこっちで…生まれたから」
「それじゃ、鷹矢くんは…」
「そうしたら、リーナもお兄ちゃんとおそろいにするって、聞かなくてね」
「…」
「ハルカの思い出も何もない家で過ごすようになって、タカヤも以前のような発作はなくなった。段々外にも出られるようになったし、今は学校にも通わせられる。でも、それは『鷹矢』だから」
「…」
「『タカヤ』はまだ、ハルカのいる世界の中で生きている。夢から醒めたくないのね」
「…晴夏さんのことを、受け容れられない…」
「…心の傷が癒えるまで何年かかるか分からない。それまでずっとふたつの人格が居続けるかもしれないし、突然どちらかがいなくなるかもしれない。…ただ、傷によってできたものはそれが無くなれば一緒に消える可能性が高い。向こうのお医者さんにはそう言われたわ」
「…!」
「ハルカの死から立ち直ることが、本当の意味でタカヤの心のためにはベストなんだと思う。…けどね、時々思うの」
「…」
「そのとき私たちは確実に、また一人、息子を失ってしまうんだなって」
「晴夏さんのことを乗り越えたら、鷹矢くんはいなくなってしまう…ってこと、ですか?」
「……」
「そんな…」
「鷹矢は良い子よ。タカヤのことをいつも思ってくれている。お兄ちゃんみたいにね」
「…私も、そう思います」
「春休みにハルカのお墓へ行ったときも、タカヤには見せないようにしてくれていたし」
「…お墓参り…」
「まだ、現実を見るのは辛いだろうからって」
「…前に、私も聞きました。タカヤくんのこと、出てこないようにしてるって…」
「そう…。タカヤはまだ不安定だから。あ、でもね。私とも少しずつ会話できるようになってきたのよ。…ハルカのことばっかりだけどね。二月にはチョコレートを貰った、すごく美味しかったって嬉しそうに話してくれて…」
「あ…」
「…あなたが、あの子の振りを一所懸命にしてくれているおかげなのね。本当に、ありがとう」
「いえ…私は…」
「あれからは話せてないんだけど。最近は元気そう?」
「私も今日…数ヶ月ぶりに会いました…」
「そう。どんな様子だった?」
「…取り乱してました…何かを怖がっているようで…」
「ハルカちゃん?一体…」
「私のせいなんです!私が、晴夏さんと同じように倒れたから…」
「えっ?…それで、あなた体は大丈夫なの…?」
「はい…タカヤくんのおかげで…」
「タカヤが…」
「でも、そのせいで彼に、辛いことを、っ思い出させて、しまったんだって、お話、聞いて…っ分かって…っ」
「そうだったの…」
「ごめ、なさい…っ私の、せいで…っ」
「ハルカちゃんのせいじゃない。ね?」
「…あんなに、何かを、っ怖がるような目、して…っ」
「…まだ、自分を責めているのね、タカヤは。きっと、今度こそ守らなきゃって、思ったんじゃないかな」
「まもる…」
「あなたのことを」
「…っ!」
「…ありがとう、ハルカちゃん。こんなに、タカヤのこと、思ってくれて」
――こっちに来て、あの子はすごく元気になった。全部、あなたに出会えたおかげなのよ。こんなにやさしい女の子がそばにいてくれて、私も本当に嬉しいの。お願いハルカちゃん。勝手だけど、タカヤのこと、よろしくね…。
いつの間にかテーブルに落ちていた雫が、どちらのものか分からなかった。はい、と小さく返事をしたら、まるで娘をあやすように背中をさすってくれる、鷹矢くんのお母さんの手のあたたかさに、私は縋る他なく甘えた。
おばさんには、今日は家で食べるからと連絡をしておいた。とは言っても食欲も作る気力も何も無い。湊人にどんな顔をして会えばいいか分からないのもある。
真っ暗な自宅の玄関扉がいつも以上に重たくて、一度持ち替えて引き直す。からがら、体を滑り込ませた。
「ふう…」
自分が望んで聴いたことなのに、遣り場の分からない思いがぐるぐると巡っては、喉の奥からせり上がってくる。軽い吐き気。
晴夏さんは、もういない人。
そして、鷹矢くんは――。だから幾度も儚く見えた。あの時のあえかな微笑みが、今一度頭に浮かぶ。
そのまま背を凭れて、暗闇に引きずり込まれるように冷たい石の床に座す。スカートのポケットから、スマホのバックライトが透けて漏れていた。
「…」
メッセージが何通も。紗奈ちゃんに、美冬ちゃんに、あとほとんどは彼だった。文面を見るに、今はもう鷹矢くん。
まだ、落ち着いて向き合えない。絡まる糸が頭を錯綜しているから。指一本で四角い明かりを消したら、私は再び暗がりに身を落とす。
返事はシャワーを浴びてからにしよう。重だるい身体はしばらくそのまま動けなかった。
電気も点けずにいたせいか、自室から見上げた夜空はいつもより星がよく見えた。しし座が少しずつ傾き始めている。一瞬、その上を星が流れた気がしたけど、よく拭けていない前髪から滴る雫が、見せるものかと両目を閉じた。
ぽたり。
表紙のお姫様は、いつかのようにまた微笑みながら涙をこぼした。笑顔でいても、いつも笑っているとは限らないと、そう言いたげに。
あの時も、そうだったね。最初から教えてくれていたんだ。なのに私、彼が笑ってくれていることに、安堵して、甘えて、一方的に。
「……」
スマホにも降り立った粒を指で拭いながらメッセージアプリを開く。すると同時に着信が入る。
鷹矢くんだ。
私は一呼吸置くために、レースカーテンを閉めた。シンデレラの涙を拭ってからベッドへ向かう。応答ボタンをタップして、耳にあてがった。
「…!」
腰を沈ませて軋んだ音と、電話の向こうの彼の吸い込んだ息とが重なる。
「…ハルカ?」
「うん。ごめんね、連絡もらってたのに」
「大丈夫?まだ具合、悪い?」
「全然。もう平気」
私がそう言うと、ほっと息を抜く音が聞こえた。
「ごめん、ハルカ。今日は本当に…」
「ううん、心配かけてごめんね」
「…保健室で、すごく乱暴にしてしまったと思う。腕、痛めたよね?」
実はまだ少し、赤く指の形が残っている。私はそれを、なぞりながら答える。
「ううん、…大丈夫」
「ごめんね。僕がもっと気を付けていれば、あんな事には…」
ひどく落ち込んだ声。それだけで、彼がすごく申し訳なく思っていることが分かる。自分のせいだと責めている。
鷹矢くんのお母さんが言っていたのは、そう、こういうことだった。いつも気に掛けて、気負って。
そしてそれは、私に対しても同じで。
「…やっぱり、お兄ちゃんなんだね」
「うん…?」
聞き返すような彼の頷きに、促されるように。たぶん、そうして欲しかった。いつまでも知らない振りなんてできない。私が自分から切り出す機会を与えられたかったんだ。
風に騒ぐカーテンが、早く早くとけしかけているようにも、止めて止めてと口を塞ぎにくるようにも、見えた。
「…鷹矢くんのお母さん、言ってたよ。鷹矢くんは、タカヤくんのお兄ちゃんみたいな存在だって」
「母さんが…?」
その驚きまじりの声が、もう後戻りはできないよと教えてくれる。
私は、握る手に知らず力を込めた。
「タカヤくんのことを抑え込んだり、今みたいに責任を感じたり…鷹矢くんは、本当、お兄ちゃんすぎるよ…」
大事なことは私に言わずに。
「一人で全部抱えてる。…心配になるくらい」
今日一日で色んなことがありすぎた。言葉にするほどに、内におさめきれない。晴夏さん、タカヤくん、鷹矢くん。皆、一生懸命に思い合っているからこそ辛くて、傷ついて、どうしようもなくて。それは分かっているけど。
思い遣って頑張るほど、そこへ近づいていくのに。
消えてしまうかもしれないのに。
「晴夏さんのことも、そんな風に背負いこんでるの?」
「!」
「…ごめんね、もう全部知ってるの」
撫でるのは、強すぎるタカヤくんの痕跡。これは即ち彼の晴夏さんへの想いの深さ。私はもう身をもって知らされた。
敵いはしないことも、悟ってしまった。
「…」
鷹矢くんは、驚いても狼狽えてはいなかった。むしろ私の声の方が毛羽立っていて、次に聞こえる彼の言葉たちは、それを宥めてくれるようにしっとりと、やさしい響きをもっていた。
「…そっか。なんとなく、そんな気がしてたよ」
「…え?」
「母さんは何も言わないけど、帰ったらキッチンにお気に入りのコーヒーカップが伏せてあったからね。それほど母さんが喜ぶお客さんって言ったら、今はハルカしかいないし」
「…」
沈黙が、暗い部屋に染みていく。レースを突き抜けてくる月明かりが、私を抱いてくれている。彼の声を待つ私の、全身を冷たく巡る痺れごと。
そしてようやく聞こえてきた、ふ、と考え込むような吐息と、二度目には観念したような溜め息。私は肩に顔をうずめた。
「…そうだね、僕がなんとかしなきゃって気持ちはあったと思う」
その声に私は、くんっと顎を上げた。受話器越しに伝わる、いつもの彼よりもっと成熟した、大人びた雰囲気。
「晴夏のことで、タカヤの心は壊れる寸前までいった。…そうならないための、僕だから」
達観した、ってこういうことを言うのかな。
私の知る彼のようでそうでない感覚。そこにいるのに遠い感じ。やっぱり、鷹矢くんは、――。
「そしてハルカを巻き込んだ。…傷つけるかもしれないと、分かっていたのに。タカヤのためだと、言い訳しながらね」
相槌を打つこともできない。私はただ、黙って聴いていた。
「実際、何度も傷つけた。これまでも、今日も、晴夏のことだって…」
こんなときまで、懺悔のような彼の話を。
「今まで本当に、ごめん」
「どうして…っ」
衝いた言葉を、もう少しのところで私は飲み込んだ。苦かった。きっと、そんなことを聞いても何にもならない。
「…謝らないで。これは、私が自分で決めたことなんだから」
タカヤくんが夢の中をさ迷い続ける道も、鷹矢くんがその日が来るまで悩み続ける道も、誰にとってもハッピーエンドにはたどり着けない気がしたから。
胸を押さえる手に落ちる、月が痛い。
「…だけど、ハルカも悩んでいただろう?」
「え…」
「ずっと、元気がなかった」
「それは…」
彼の姿を追っていたことを、言い当てられたのだと思った。何でもない風に日々を過ごしてきたつもりだけど、あの心配そうな目を思い出すほど、自己満足だったと思い知る。
でも、今認めてしまえば鷹矢くんはまた身を削って頑張ってしまう。笑顔で完璧に隠した裏で一人、苦しんでしまう。
「…もう、」
黙ったのは一瞬のはずだった。でも、その詰まりかけた声からは、これ以上待てないと言われた気がした。
「…こんなことを続けることに、嫌気が差したんじゃないかなって」
「そんなことないよ!」
「…じゃあ、どうして今日、渡したドリンク、飲まなかったの?」
「それは…だって」
「…僕のじゃ、嫌だった?」
「違うよ!嫌なら迷わない…」
嫌なわけない。嫌いなわけない。
「嫌いなら、…迷わないし、こんな気持ちにも、ならないよ…」
嫌なのは、自分の気持ちにばかり苛まれている私。本当に、嫌になるくらい、自分勝手だ。皆それぞれが、比べ物にならない苦しみや痛みを抱えながら誰かのためにたたかっている。そんな彼らへ、こんな私が本当の意味で何かできることなんてあるの?
刺すくらいに冷たい気持ちが、後から後からせり出してくる。無力感。いくら深く息を吸っても間に合わない。
そして、その間に鷹矢くんが息を飲んだことを、私は知らない。
「…僕も」
切羽詰まった呟きに、私は呼吸を止めた。そうしないと、細い声を聞き逃しそうで。
「…?」
滴り落ちる雫の音さえ邪魔なほど。
「僕だってそうだよ。何とも思わないなら、こんな風には…ならない」
とても不安定だった。それがそのまま心を表しているのなら、どれほどぐちゃぐちゃに潰してきたというのだろう。
「鷹矢くん…?」
泣いているのかもしれない。そう思うくらいにぐらぐら揺れる彼の声を、私は懸命に手繰り寄せる。
「…確かに最初は、タカヤのことを思ってタカヤのために行動しようと、それだけを僕は考えていた」
言葉を切った彼は一層あえかに、だけど譲れない強さをも持ち。
「でも僕は、僕自身を無視できなくなっていたんだ」
まっすぐ、その光に溶けそうな双眸に射留められた錯覚さえおぼえるほど。
「母さんの言う『お兄ちゃん』の役目は果たしたいよ。…でも、この想いも大切にしたいんだ」
そこまで言い終えると、鷹矢くんは深く息をした。いつの間にかカーテンはぴたりと動かない。空気も時間さえも止まったように。
「…初めて会ったときのこと、覚えてる?」
そしてクルクル、巻き戻りはじめる。
一斉にひれ伏した本たち、揺れる瞳、弱く笑う、――。
「…覚えてるよ、あんまり綺麗だからみとれちゃったもん」
忘れようもないあの日のことを、私は今でも鮮明に思い浮かべられる。電話の向こうでふふ、と微笑う彼もきっと、それは同じだった。
「僕もね、ずっと見てた」
さっきの彼が成熟した大人だとするならば、今の彼は、秘密の宝物を守り続ける、小さな、
「…ハルカのこと、」
――王子様。
「…一ヶ月」
「…っ!」
そして、キュルル、記憶の時計は急速に進む。
そんな風にあっという間ではない、この時がどんなに長い、ふわふわした日々だったかを、私は知っている。
廊下の人だかり、割って入れずに眺めていた。
遠くから姿を見ている、私はたくさんの中の一人だった。
私の記憶の粒の中にいる鷹矢くん。それを、彼の目線から見てみたらどんなだろうなんて、考えたこともなかった。そんなもの、無いと思っていた。
「あの日から、ふと気が付けば探してた。隣のクラスにいるって、すぐに分かった」
小さな王子様が、絶対に見せまいと、後ろ手に握りしめているもの。
「見かけるたび、川崎さんや乾さんと楽しそうに笑ってて、」
見つけているのに知らないと首を振り続けているもの。
「ペンケースを忘れたって廊下を逆戻りしてたり、」
それを見せれば、探している人に会えるのに。
「時々、下駄箱ですれ違ったり」
「鷹矢…くん…?」
「そういうの全部、毎日積み重ねて眺めてた」
きっと彼は、確める前に知っていた。
「だから、あの放課後の中庭に、ハルカが来てくれて本当に嬉しかった」
誰のためのガラスの靴かを。
「ムシのいい話だって自覚はある。けど、もう曖昧にしたくないんだ。泣いてほしくない、ずっと笑っていてほしいから」
誰が見つけるべきガラスの靴だったのかを。
「本当は、最初から好きだった」
思わず押さえた口元。
漏れ聞こえる吐息がうるさくて。
「遥のこと」
「…っ!」
誰でもない私を。その声が、私を呼んだ。
指先にいくつも、伝う雫が熱かった。
――…大丈夫、ハルカはそのまま、自然にしてくれてたらいいよ。
――ハルカはこんなに、優しくて、かわいくて、…一緒にいると、なんだか落ち着くんだ。
――ははっ、ハルカらしいや…。
――前に、シンデレラの絵本が好きって言ってたから。
数え切れないほど貰った言葉の数々から、拾い上げて思い起こされたもの。
「最初から」。そうだ、初めからずっと鷹矢くんは、私を、「遥」自身を、見てくれていた。
「…だからもう、遥のこと、傷つけたくない。泣いているときは傍にいたいし、最高の笑顔も、怒った顔だって、僕にだけ見せて欲しい」
「鷹矢くん…」
「…だから悔しいんだよ、可笑しいけど」
「…え?」
「遥の…そんな顔を引き出すのはいつだって…タカヤなんだ」
「…!」
「遥を傷つけたくない、でもそれ以上にたぶん、タカヤに遥を取られたくない」
宝物を見つけた小さな王子様は、大事に守っているうちに、それを誰にも渡したくなくなった。
「…だから遥、」
それゆえの激しくて暗い羨望。
「僕だけを見て」
「…っ」
はっとした。切なくて苦しい、その気持ちのことを、私は良く知っているはずだから。
「僕が…」
電話口の声は一層、掻き消えそうなほど細く、か弱く。青白い月の光のように頼りない。
そこに降り立つ彼の姿。幻だと分かっていても走り出した。きりつめられた胸を庇うみたいに、寂しそうに微笑うから。
「…僕がずっと遥を大事にする」
あの時と同じ。どこからか沸き上がる、強く真っ赤なサルビア。儚く、彼がその向こうに埋もれていきそうで、私は咄嗟に手を伸ばす。
「好きだよ、遥」
月が浮かび上がらせた、声。夜に透かされる、彼。借りものの輝きは、朝になれば紛れて塗れて、全て太陽に帰すこと、きっと誰もが知っていた。
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