第10話 夏を愛する花
透き通った風に、吹かれてゆらゆら。青空に微笑まれて照れた桜が、校門から乗り出すようにして身を揺すっていた。
私はブレザーの胸元に添えた左手を握りしめる。シャツの内側に身につけたガラスの靴を。その甲を、たった今飛び立った花びらがくすぐっていった。
今日から新学期。見鐘台高校に新しい春が訪れる。
「おー!遥!あたしらまた一緒だよ!」
「おはよう紗奈ちゃん!本当?」
昇降口はクラス替えが貼り出され、ごった返していた。人垣で見えずに四苦八苦していたところを、紗奈ちゃんに見つけてもらえたのだ。
「ちなみに王子も一緒。嬉しい?」
「えっ?え、そうなの?」
春休みの間、鷹矢くんはご家族とドイツへ帰っていたので、会うのは久しぶりだった。でも、同じクラスということは、これから毎日教室で顔を合わせるということになる。
「ほら、見える?五組」
「ん…あ、本当だ」
バレンタイン以後は、タカヤくんとは話せていない。
しばらくは私もやっぱり落ち込んで、「ハルカ」としての自覚が足りないなと反省する一方、気持ちに折り合いをつけるのに時間が掛かってしまっていた。その日のうちに湊人にあっけなく見破られてしまってからは、意識して何事も無いように過ごしてきたつもりだけど、たぶん鷹矢くんにも気づかれていた。
何も言わないでいてくれたけど、時々私のことを心配そうに見ていたから。そこに少しの悔恨を混じらせて。きっと、自分がタカヤくんを止めきれなかったせいだと責任を感じているのだと思う。
「美冬とも近くて良かったわ」
私が勝手に傷ついているだけなのに。鷹矢くんは、やさしいから。
「そうだね」
それでも。
あんな思いをしても。
いつも傍にいてくれるあたたかさに、「でも、彼じゃない」――なぜかそう思ってしまう自分がいる。まるで、ひとたび焼け付く太陽を知ったら恋しくて仕方ない、夏を愛する花みたいに。その光に焦がれている。
「ハルカ!」
傍にいるのに会えない日々が、こんな風にさせるなんて、知らなかった。
「あ、ほら。来たよ」
手を振りながら歩み寄るこのひだまりのような笑顔は、私を守ろうとしてくれている。それは本当に恵まれていて、幸せなこと。「いつまでも一緒」を感じさせてくれるほどに。だから私も同じあたたかさを贈りたい。それが、好きという気持ちなんだと信じている。なのに。
役でいることの苦しさや切なさよりも。ふくらんでいくのは、あの灼熱の、眩しい笑顔にまた会いたいと願う気持ち。ただ純粋に、より愚かに。そして、その先にいるのが私であったなら――なんて都合の良い希望を夢見る度に、胸に滞る霧は分厚くなって、追いかける私はさらに奥へと迷いこむ。
「おはよう、鷹矢くん」
「おはよ、王子。ドイツ帰ってたんだって?」
そうこうするうちに春休みに入り、彼がドイツにいる間、物理的に会えない時間はちょっぴりでも霧を晴れさせた。同じ「会えない」なら距離のせいにしたほうが楽だから。でも、それももう、終わり。
「おはよう。…うん、親族の墓参りにね」
やさしい眼差しを向けられるほど、止められない。これからまた毎日、今日からは同じ教室で、彼を探しながら見つからない一日を終えていくの?
「同じクラスだね、ハルカ」
会いたい。
「…うん」
再び立ち込めた霧は深く、深く。
「川崎さんも、よろしくね」
「こっちこそ。うちの遥をよろしく」
どうして私、こんな気持ちになっているんだろう。
「あはは。うん、任せて」
切ない。この笑顔をもらうたび、幸せを感じられるはずなのに。
「行こうか、教室」
「うん…」
彼への思いは、何も揺るぎないはずなのに。
私たちの新しいクラスは二年五組。ここまでが所謂普通科となる。紗奈ちゃんが言うには、噂によれば特に普通科は成績別で、秀でた生徒から順に一組、二組と割り振られているらしい。スポーツ科の湊人は隣の六組、美冬ちゃんは当然、芸術科に進んだので八組と、バラバラではあるけれど棟は一緒なので寂しくはなさそうだ。
「
「そうなの?」
「普通科が僕らだけだからってこと?」
四組までは西、五組以降はこの東の校舎に教室がある。
「んー、そういうことにしとく?」
紗奈ちゃんの含み笑いは、ちょっと困ったおどけ顔に取って代わっていた。ふうんと不思議そうに鷹矢くんは鼻を鳴らす。
「ところで、担任の先生、誰だろうね?」
「…まー、この流れで行くと…」
カララッ。
「はーい!二年生になった皆さーん!おはようございまーす!」
勢いよく滑った扉の向こうから、るんるんと、二週間ぶりの変わらぬ笑顔が現れた。これからも、この明るく楽しい姿で一日を始めることになるみたい。
「冴子先生…」
「やっぱりね。成績優秀の王子がこのクラスなんて、おかしいと思ったのよ」
「え?」
「席についてねー!早速最初のホームルームを始めまーす!」
バタバタ、これまでと同じようで少し景色の違う教室に響く音。冴子先生のツヤツヤの笑顔の裏には何やら陰謀も感じつつ。とにかく今日、二年生としての学校生活が幕を開けた。
始業式が終わると、適当に分けられた班ごとに校内各所の掃除をしていく。紗奈ちゃん、鷹矢くん、私の三人は、他の数人と共に中庭を割り当てられた。
「中庭って言ったらさ、」
すでにモップがかけられ始めている濡れた廊下を、私たちはマイペースに歩いている。
「ここもだけど、あの時はすごかったよねぇ」
紗奈ちゃんは掃除中の生徒を避けながらしみじみと言った。そう、ここは、去年の秋の告白大会のとき、たくさんの生徒で溢れ返っていた廊下。
「うん…なんか、懐かしいね」
あの時は一歩進むのも大変だった。列が短くなるにつれ、心臓は破れそうで逃げ出したいとすら思った。彼に近づくたび、顔を上げられなくなった。
「川崎さんが言ってるのって、もしかして…」
それを思うと、まさにその彼の隣を歩く今が途方のない夢にも思える。
「そうそう、王子の握手会」
それからこの窓から見える中庭。あそこで、私は一番最後で、夕焼けいっぱいに染まる中、手を取られて。風に包まれて。
あの頃のふわふわとやわらかい気持ちが呼び出される。それは確かにまだ、ここに鮮明に。
「遥が選ばれたときは、あたしも美冬もびっくりしたけど、嬉しかったわ」
砂の上に、紗奈ちゃんは靴を放る。私へにこりと向けてくれた笑顔をそのまま横へ、彼へとずらしていく。
「だから王子、末永く大事にしてよね。この子のこと」
「紗奈ちゃ…わっ!」
私の頭を、わしゃわしゃ撫で回す手はあったかい。紗奈ちゃんは察しが良いから、なんとなく感じていたのかもしれない。無理に聞くことはしないでも、こうして励ましてくれる。つくづく、友人に恵まれたなぁと私は思う。
「…うん。もちろん」
それに、真剣な眼差しで応える彼にも。
「あの時、言ったもんね」
一拍置いてから鷹矢くんは、未だ頭を掻き回されている私の耳元を、
「いつまでも、一緒にいてって」
「…!」
ふわり、花風とともにさらっていった。あの時と同じ言葉、同じ温度。いつだって、何もかもをやさしく奪ってしまう王子様。
「ね?」
変わらない。何一つ。
私の気持ちも最初からずっと同じはず。
「鷹矢くん…」
求めるものへと続く一本道を、私はすでに歩いているものと信じて疑わなかった。けれど突然、足元から真っ二つに分かれてしまった。どちらへ進んでも終着点は一緒だと言い聞かせたって、この足は動いてくれないまま。だって、彼らが私にくれるものは――。
鷹矢くんに見つめられると、照れちゃうけどぽわっと安心する。タカヤくんに瞳を強く奪われると、心の奥が少し、泣きたくなる。
まったく、違うものだから。
「…うん…」
あたたかな笑顔に包まれていながら、この瞬間にも。泣きたくなるたびに涙を貯めていた胸の奥底が、のたうち回るほどの苦しみに晒されながら強い力に引きずり出されたくて耐えている、そんな気がして。
私はシャツに隠したガラスの靴を、今朝のようにぎゅっと握る。
ぐちゃぐちゃになった髪の隙間から見えた鷹矢くんに、強い太陽を重ねようとした。
「あれ」
私たちが掃除道具を取りに向かった先では、すでに先客があった。庭掃除用の熊手を逆さに構えた姿と入れ違いになる。湊人だった。
「あ?はるたちも中庭掃除?」
紗奈ちゃんと私に気づいて彼は足を止める。
「うん、六組も?」
「おー、あと三人いる…」
そして私たちの後ろから顔を出した鷹矢くんの存在をみとめて、湊人は眉間の皺を濃くした。
「なんだ、蓮未もいたのか」
「同じクラスになったからね」
鷹矢くんが微笑うのとは対照的に、湊人は下唇を尖らせる。なぜだか不機嫌な様子だ。
「丁度いいや、ちょっと顔貸せよ」
「うん?」
首をかしげつつも応じる鷹矢くんを睨み付けながら、持っていた熊手を無言で私に押し付けると、湊人はすたすた歩き出す。いくら普段から口が悪いとは言え、最初から穏やかでない湊人に、私も口を挟まずにはいられない。
「ちょっと湊人!どういうこと?」
「はるは掃除でもしてろ」
だけど取り合ってはもらえない。鷹矢くんもにこにこ、大丈夫なんて言いながらその後を付いていってしまうし、何がなんだか。
「鷹矢くんまで…」
二人の後ろ姿を見つめながら立ちすくんでいたら、紗奈ちゃんに肩を叩かれた。
「たまには男同士で話したいこともあるんでしょ」
ね、と横顔で促されて、私は気掛かりながらも、反対側へ足を向けた紗奈ちゃんと一緒に掃除を始めることにした。
掻いても掻いても、ほんの僅かの枯れた花弁しか集まらない。これじゃ、ただ熊手を持って中庭を散歩しているだけみたい。
やがて私は無為な時間に疑問を覚える。こんなことなら、二人を探しに行ったほうが余程有意義に違いない。そう思ったときには既に、スカートは翻っていた。
「ごめん、紗奈ちゃん…!」
ゴミ袋を取りに行っている紗奈ちゃんの向かった方角に、両手を合わせて力強く拝むと、私は熊手をその場に置いて裏庭のほうへ走った。
湊人と裏庭。この組み合わせ、本当に喧嘩のにおいしか感じられない。短気だから、文化祭のときみたいに物を投げつけたり、もっと言えば拳を振り上げたりしやしないかと、心配は尽きない。だとしたら一刻も早く見つけ出さないと。
私は広い裏庭のおよそ真ん中あたりから足を踏み入れる。迷う暇はない。数秒の逡巡の後、右へと舵を切る。
「……、おまえのせいじゃねぇの?」
あの声は湊人だ。やっぱりここにいた。でもまだ遠い。
裏庭は掃除の範囲になっていないのか、生徒は一人も見かけない。敷地の外周を囲むように植えられた大きな木々が陽光を遮るから、ここは薄暗くひんやりしている。
「…そうかもしれないね」
鷹矢くんの声。今度ははっきり聴こえる。でも二人がどこにいるのかはまだ分からない。ジグザグに立つ木が、枝を伸ばし過ぎて視界を大きく塞ぐから。
「かもしれないって、それしかねぇだろーが」
「…」
「だんまりかよ。図星だからだろ?そんな奴があいつの彼氏、名乗れんの?」
「できることは…やってる」
「信用なんねーな。やりたいことだけやってるの間違いだろ」
「…何が言いたいの?」
「クリスマス。…家に連れ込んだろ」
私は足を止める。息を飲む。
「…何。ハルカがうちに泊まったこと、言ってんの?」
「…ッ開き直りやがって」
彼らは、イブのときの話をしている。湊人からはあの後、釘を刺されはしたもののそんなに深く追及されなかった。もう終わった話だとばかり思っていたのに、今になって、どうして。
ううん、それより。
「なんでそれを、彼氏でもない奴にとやかく言われなきゃなんないわけ?」
「あ?おまえな、常識的に…」
「ハルカが選んだのが、俺の所だったから?」
ぶわっ、と。突風が吹き荒れ、裏庭の木たちが一斉に軋む。太陽に道を空けるように枝葉を畳む。私は思わず近くの幹にしがみつきながらも、瞼の隙間からしっかりと見た。一瞬、日の光に照らされたその場所が、明らかになる。そして風がやみ、また影の世界がやってきた。
いつかのように、パチン、白から黒へと。間違いない。彼が、そこにいる。
「…は?」
「自分の所じゃなかったから、俺に突っ掛かってんの?」
止めなきゃ。彼と湊人じゃ、絶対にただじゃ済まない。
「誰が。オレは常識で考えろって言ってんだよ」
「あぁそう。あくまで一般論ってこと…」
「当たり前だろ、誰に訊いたって…」
「試そうか」
「は?」
「あの夜何があったか、聞いてもそんな風にしてられるか」
どくん、と。一息に血液を飲み込む心臓を、私は両手で押さえつけた。タカヤくん、もしかして、あのときのこと――。
「…はるに何した」
奥歯を挽く音がここまで聞こえてきそうなほど、静かな怒気。竦む。こんな怒り方をする湊人は、見たことがない。湊人のあんな顔、私、知らない。
「…ほら見ろ、怖い顔」
「何したかって訊いてんだよ」
こんなに立ち聞きするつもり、なかったのに。タカヤくんはいつも以上に煽るような言い方をするし、湊人も今までにない剣幕で。二人はもうすぐそこにいるのに、驚きなのか何なのか私の足は直立不動のまま、痺れてしまっている。
「…一緒にいただけだろ。たった一晩」
静かに、からかうように淡々と。確かに言っていることは嘘ではないけど、わざわざこんな言い方をするのはどうしてなのか、その声色からはうかがい知れない。
「…ッ!」
湊人の息を吸う音は、私のそれと重なって聞こえない。
「…ってめ…」
震える声は、今にも飛び掛かりそう。だめ、抑えて湊人。
「よくも…」
拳を握る気配。止めなきゃ。でも、体が言うことを聞かなくて。私は情けなく、ただ目をぎゅっと瞑るだけ。
「…っ」
その時、私の睫毛を叩いたのは、穏やかな風。それが彼の雰囲気をふわり、と塗り替えた。
「…僕の妹とね」
雲が太陽を覆う。辺りは一層、涼しさをまとう。
途端に鳴りを潜めたその声に、湊人は煮えたぎった吐息を一挙に込めて、派手な舌打ちに代えた。
「おまえな、ふざけんのも…」
「林堂くんだって、毎晩一緒に過ごしてるんだろう?」
「は?…ばかか、飯食ってるだけじゃねーか」
タカヤくんが引いていくと、湊人もどうやら拳をおさめてくれたようだ。彼とはとうとう、話せず終いになってしまったけど、これでとりあえずは――。
「…それが羨ましいんだよ」
「…!」
枝葉からこぼれはじめた光が私を刺すより速く、思い出す。あの夜も、そう言っていたことを。私、タカヤくんの面影を追って、そのことにばかり気を取られて、今の今まで記憶の片隅に置きっぱなしにしてしまっていた。
――妬いてるんだよ…自分でも驚くくらい。
だとしたら、あれはやっぱり――。
「あのな、それは家の事情。蓮未のは…」
「だから、ハルカにだって事情があったと思わない?」
「汚ねえぞ!女のせいにすんのか!!」
その大声に、金縛りに遭っていたような身体はぷつ、と糸が切れて前のめりになる。湊人のボルテージが振り切ってしまう前に。慌てて私は、枝に引っ掛かるのも構わず飛び出した。
「湊人、鷹矢くん!」
二人はよっぽど驚いたみたいで、鷹矢くんが肩を跳ねながら振り返る向こうで、湊人も大きく後ずさる。
「…もう、掃除…終わるよ」
立ち聞きしていたとは咄嗟には言えなくて、当たり障りのない台詞で二人を引き離した。目が合うと、鷹矢くんはにこりと応じてくれたけど、湊人はすぐに脇へ視線を泳がせた。
「うん、じゃあ戻ろうか」
「…」
鷹矢くんが私の隣まで来ると、湊人も渋々後ろを付いてくる。むすっとした顔のまま、いかる肩で新緑を擦りながら。一度も目を合わせることはなかった。
何を話していたの、と聞けば二人は何と答えただろう。お姉ちゃんのことが誤解と分かった今、あの晩の事情を湊人に全て話すのが一番良いのかもしれない。でも、二人の会話を聞いていない体でいるのに、今さら何ヵ月も前の話を蒸し返すのは不自然だ。
足を踏み出すたび、木の陰に次々塗られる。私は悩んだ。けれど、
「どうかした?」
「え、あ、ううん…」
「ごめん、聞いちゃった」と最初から正直に言えば良かったのにという後悔に全て直結してしまい、それ以外、何も浮かばない。
「随分探してくれたんじゃない?ごめんね」
さっきまでとは打って変わって棘のとれた声は、あの夜と同じトーンで。今一度、彼の台詞が頭を過る。
「ううん、全然…」
あの時も、やっぱりあなただったの?
「それならいいんだけど。急ごっか」
前を歩きながら、時折振り向いて見せてくれる、この何事もなかったかのような微笑みにも、私は何も問うことはできなかった。
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