第2話 ハルカ
まだ若い緑を見せつけるイチョウ並木。ずっと続くこのゆるやかな坂を上りきれば、家はすぐそこだ。銀杏を踏まないように、樹とは反対側の端を選んで歩く。
このライトグレーのカーディガンから覗く、赤みがかった灰系チェックのプリーツを揺らす姿は、私の他に無い。部活をしない人は、さっさと家路につくか、駅前などで寄り道をしているからだ。そんな人通りの少ない、今は隙間の時間帯。ぶわっと空を舐めるうろこ雲に手を引かれ、少し歩みを速めた。スーパーのレジ袋が待ってと鳴いた。
おばさんから頼まれたポン酢と、湊人のために仕方なく買ってきたコーラを片手に提げ、私は「清次」の表札までたどり着くことなく、ひとつ手前の、林堂家のインターホンを押す。
「はーい。おかえり遥ちゃん。今開けるわね」
朗らかな、おばさんの高い声。この「おかえり」が聴けるから、自分の家よりよっぽど帰る場所であると、私に思わせてくれるのだ。
「ただいま、おばさん。はい、ポン酢」
「ありがとー。おろしハンバーグにしようと思って、大根すっちゃった後で気がついて。助かったわぁ」
しかし、渡した袋が思ったよりずっしりとしていたので、不思議そうに中を覗き込む。
「あぁー、湊人ね。女の子にこんな重いもの持たせてー。ごめんね」
1.5リットルのコーラのペットボトルを、まるで引っこ抜いた大根のように目線より高く掲げた。おばさんはまだ帰らない息子をそこに思い浮かべ、じとっと見やる。
「ううん、レギュラーの前祝いだから」
「あらー。春の大会は出られるのかしら?」
「うーん、来年に期待?」
ふふっと、顔を見合わせて笑うと、おばさんは台所へ戻っていった。
最初の頃はそれこそ、しきりに手伝いを申し出ていたのだけど、そのたびおばさんに「ゆっくりしてて」と肩を押されリビングへ連れられた。だから、湊人が部活を終えて帰ってくるまでの間は、ここで宿題や予習をしている。というのはポーズだけで、実際にはいつも、スマホをいじりながら目の前の大きなテレビに釘付けだ。湊人が帰ってくるのは大体20時前だから、ニュースが終わってバラエティ番組が始まると、私は慌ててエンジンをかける。
そんな、ゆるい私の放課後。部活は考えなかったわけじゃないけど、こうして学校のある日は毎日夕飯をお世話してもらっているし、帰宅時間がまちまちになると迷惑がかかりそうで。それに、仕事が忙しいお姉ちゃんの負担をできるだけ無いようにしたかった。ここで勉強と夕飯を済ませたらすぐ帰宅して、お風呂の掃除や、そのままになっている朝食の後片付け、干しっぱなしの洗濯物の取り込みを終わらせておく。それが私の役目だと思っているから。
「ただいまー」
玄関から伝ってくる声。それを背で聞き、途端に私は慌て出す。あぁ、あと一問なのに。
「今日ハンバーグ?」
「当たりー、さすが鼻だけはいいわね」
「るせっ」
いやにうるさい足音と、ダイニングでのやりとりがおさまるとしばらくして、背後に視線を感じる。でももう少し、あとちょっとで解けるから。
「…ただいまー!」
ローテーブルにかじりついている私を、どんな顔して睨んでいるかは想像がつく。オーラがすごい。わざわざ真後ろからアピールしなくてもいいのに。あれっ、なんかおかしい。こんな複雑な数字になるわけがない。
「た、だ、い、まー!」
「もうっ!おかえり!」
気が散って計算ミスをしていたようだ。タイムアップをしぶしぶ認めて、私はくるっと振り返る。口を尖らせて。
「んだよ、愛想ねーな」
「今宿題やってるの。見て分かるでしょ」
「まだ終わってねーのか、何してたんだよ」
ぎちぎちのスポーツバッグを私の横にどっかり下ろすと、湊人は洗面所に向かって行った。
「…うるさいなあ、もう」
テレビを観てだらだらしていました、なんて、今まで汗を垂らして練習を一生懸命頑張ってきた湊人には言えなかった。後ろぐらいし。
コトン、コトン。お皿がダイニングを賑わせる幸せの音が、そんなモヤっと気分を一掃してくれる。
「じゃあ食べましょうかー。遥ちゃん、ご飯よそってくれるー?」
「はーい!」
まあいいか、あとは計算し直すだけだし、家でやろう。今はもう毎晩絵本を読むためだけに使っている、自室のデスクで。
私はノートを閉じて、ダイニングへと向かった。
湊人のお父さんは単身赴任中で、たまにしかここに帰って来ない。それは小さい時からずっとそうで、だから夕飯に呼ばれるようになってからは、私よりも、むしろおばさんのほうが喜んでいるらしかった。
「男の子って、母親とあんまり会話したがらないじゃない?」
林堂家は一人息子なので、お話好きなおばさんにとって、私はありがたいことに娘のような存在なのだと言う。
近くに新しくオープンしたパン屋のオススメメニューとか、コーヒーショップの期間限定フレーバーが美味しいとかいまいちとか。そんな話、湊人じゃ相手にしてくれないから、といつも私に話してくれる。
「学校じゃうるさいくらいなのにね?」
「黙って食え」
「何よ偉そうにー。湊人が作ったんじゃないでしょ」
「食わねぇんならくれよ」
「やだ!おばさんのハンバーグは私だって大好きなんだから」
伸ばされた魔の手から我が子を守るように、お皿を顔の横まで持ち上げた。ここなら絶対安全圏。
しかしそんな私を見据える湊人の視線は冷めたものだ。
「…食い意地張ってっと、王子に引かれんぞ」
「な…!なっ!」
ドヤ顔の私は一瞬にして総崩れ。
「あら、なーに?王子って」
加えておばさんの女子トークセンサーにまで引っ掛かってしまった。フワフワの笑み、キラキラの眼差し。
ぼっと赤くなって固まる私の顔を見て、湊人はこれ見よがしに大雑把な息を吐く。
「なんだやっぱり、はるもかよ。浮っかれてんなー、んっとに」
言いながら眉間に皺を寄せて、ハンバーグの最後のひと欠片を、その大きな口に放り込んだ。
「教えてやれよ、隣のクラスの超ーっ、イケメンの話!」
大袈裟に目をぎゅっとつむったり、箸をカチカチ鳴らしたり。その身振り手振りが馬鹿にしているようで、なんかいちいち腹が立つ。飲み込んでもいないうちから喋るから、口の中のお肉が丸見えだ。
「なによ。っていうか食べながら喋らない!お行儀の悪い」
「オレは王子でもなんでもないから、気にしなくていいんですー!」
「そんなんだからモテないのよ!」
徐々にヒートアップ、じりじりと前のめりになる私たちの間を、おばさんががっかりした叫びで割る。
「ええーっ、湊人、やっぱりモテないの?」
「えっ?そ、れは…」
おばさんの純粋な瞳に、私は視線を泳がせたじろいだ。
「…有象無象にモテたって面倒くせーだけだっつーの」
はっ、と息を吐いてぼそりと呟くと、湊人は上体を引いていく。
「…っそーさま」
そしてやってらんないとでも言いたげに、湊人の右手は強めにダイニングテーブルを叩く。下唇を突き出すのは不機嫌な証拠。いつもならお皿くらいは下げてから自室に引いていくのに、今日は箸すら投げ出したままで、さっさとドアの向こうへ消えていった。
「…遥ちゃんにも?」
「えっ?」
「…あ、そっか。その王子様のことが、好きなんだもんね?」
「えっ、いや、それは…!」
「そっかー。…そっかぁ」
指を編んだ両手に顎を乗せながら、そうやってひとしきり呟いておばさんは、どこまでもやさしく、目尻を垂れて笑っていた。
休日を挟んで月曜日。そのとんでもない御触れに、学校中は騒然としていた。
いつもなら私の登校するこの時間、昇降口へ入っていく人はもうほとんどいない。それも皆一様に教室へ向かっているはずなのに、今朝は誰もが下駄箱の前の掲示板に、足を止めていた。気にはなった。でも、もうチャイムの鳴る時間だ。あんなに群れができていたらどのみちよく見えないだろうし、私はそれを横目に教室へ急いだ。
「ああっ遥!やっと来たっ!」
「こんなときまでいつも通りなんだから」
「え?」
おはようもそこそこに、美冬ちゃんと紗奈ちゃんはまくし立てる。というか、クラス全員、特に女の子たちの落ち着きが無い。
「見た?掲示板」
「それが、すごい人で…」
「見てないのかっ!実はね…」
その時、各教室に一台ずつ備え付けられている、校内放送用のスピーカーがノイズをこぼし始める。異変に気づいた教室はざわめきを次第におさめ、やがて天から大きく息を吸う音が聞こえる。
「全校生徒の皆さーん!おっはようございまーす!」
やけにテンションの高い、甲子園で選手紹介をしていそうなほろ甘い抑揚。この可愛さと色気を兼ね備えた、それでいて突っ走るこの声は。
「冴子先生…」
彼女しかいない。英語担当教諭であり、この一年五組の担任、小泉冴子(こいずみ・さえこ)先生。そして挨拶の後のこの間は、各々の教室において「おはようございまーす!」と元気に返してくれるのを、ただただ純粋に期待しているのだ。
「…はーい!皆さん今日もとっても元気ですね!」
先程からずっと静まり返っている校内に、冴子先生のハイブリッドな声だけがわんわんと響く。
「実はすでに掲示板にも掲出しましたが、」
にわかにまた、浮き立ち始めるクラスメイト。ざわつく教室をキョロキョロ見渡す私が耳にしたのは、
「本日放課後、『一年六組蓮未鷹矢くん一斉告白大会』を開催しまーす!」
とんでもない一報だった。
「…ええーっ!?」
スピーカーからの大音声に勝るとも劣らぬ叫び声。それは、紛れもなく純度100%、私のものだった。
「ど…え…ど…どういうこと!?」
あの後も延々と冴子先生の独壇場は続いていたのだけど、呆然としていた私はもう右から左だった。他の皆は、実際に掲示板を見たり伝え聞いたりですでに知っていたらしく、話題から取り残されていたのは、あのタイミングで驚声を上げた私、ただ一人だけだった。
「たぶん、とても聴けた状況じゃなかったと思うから、説明してあげるねっ」
スピーカーが黙りこくってから少しして、私の目の前で細い指をひらひらさせると、美冬ちゃんはにっこり笑った。
「まず、今後一切の、一年六組クラス前または王子に対する押し掛け行為を禁ずる」
紗奈ちゃんはまるで、判決文を読み上げる裁判官のように、粛々と。
「やっぱり、事実上廊下が封鎖されちゃうと、困るもんねーっ。学校側も随分と頭抱えてたみたいだよっ」
美冬ちゃんはまるで、教育番組のお助けキャラのように、爛々と。
「その代わりの救済措置が、今日の放課後のアレらしい」
「それにしたってメチャクチャな…」
「冴子先生の発案だからねっ」
「うん…そうだろうとは、思ってた…」
私の目の前に「名案でしょ?ねっ?ねっ?」と同意を求めてくる冴子先生の迫るお顔まで、見えるようだ。良くも悪くも、いや、良い意味でそうだったことは今のところ記憶には無いのだけれど、規格外の先生なのだ。冴子先生という人は。
「希望者は放課後16時半までに、中庭集合だってさ」
きっと彼女はその準備をうっきうきでやっているのだろう、朝のホームルームそっちのけで。その証拠に、この瞬間教室に足を踏み入れたのは不機嫌そうな副担任の先生だった。その姿と、遅れて鳴るチャイムに急かされながら、紗奈ちゃんは肩をぽんぽんと二回叩いてくれたけど、それだけじゃ私の空っぽの勇気は少しも満たされない。
迫る戦禍に、私は武者震いすらできずにいた。
決戦の刻、迫る。なんだか現実味のない催しに身体中がふわふわとしたまま、気付けばもうすぐ放課後だった。黒板の上のアナログ時計が秒針を進めるたびにピリピリと漂う、これは何?ただならぬ空気に怯えつつ、鞄にうずめた顔から目線だけをぐるりと這わせる。うん、誰も
起立、礼。そして、女の子たちの、目の色が、――変わる。
だって、紗奈ちゃんよりもスタートダッシュの速い子なんて、今まで見たことなかった。それなのに。ホームルーム終了の挨拶が終わると同時、クラス中の女の子はまるでイリュージョンのように、忽然と姿を消していた。
「…あれ?」
光の速さで巻き上がった辻風の名残で、私の髪がぱっさと肩に着地する。
「王子の潜在ファンは予想を遥かに超える…と」
「あはっ、笑っちゃうくらい男子しかいないよっ。隣のクラスも、ぜーんぶっ」
いつの間に廊下へ出たのかけらけらと、美冬ちゃんは両手でぐるりと円を描きながら戻ってきた。
「えっ、みんな行っちゃったってこと?中庭に?」
「あたしが思うに、宝くじ気分なんじゃない?彼氏持ちの子もみーんな」
「それは彼氏、かわいそうだねっ」
カーディガンのポケットから取り出した小さな櫛で、立ち尽くす私の乱れ髪をとく紗奈ちゃんと、スカートの折り目を整える美冬ちゃん。
「はっ。ばっかじゃねーの」
机が震えるくらい乱雑に、湊人はスポーツバッグのファスナーを無理矢理閉めると、私たちの背中に大声でそう吐きつけた。
「アイドルじゃあるめーし」
その手を止めることはないまま、紗奈ちゃんはちらっと振り返った。
「ある意味アイドルなんだよ」
「そーそーっ。林堂とは縁の無い世界だけどねっ」
「るせっ!」
ぱちっと目が合った。そう言えば、金曜日の夕飯のときも、蓮未くんの話題で言い争った。それ以来、湊人と話していないことを思い出す。
だから私も口を突き結んでいたと思う。ぐっと押し込まれるみたいに、黙ったままに。
「…行くんだろ、はるも」
やっぱりまだ、夕飯のときのことを根に持っているみたい。下唇だけを膨らませて、むすっとした表情で視線を逸らす。
「な…」
「早くしねーと有象無象に先越されっぞ!バーカ!」
言い終わるより早く、湊人はバッグを引っ掴む。50メートル6秒を切る速さをこんなところで発揮して、逃げるように教室を出ていった。
「…可愛くない」
「可愛いけど、ガキだね」
「うん、ガキっ」
「え。可愛いの?」
どうやら私と二人とでは感性が真逆らしい。しかしそんなことはどうでも良いとばかりに、紗奈ちゃんは私の鞄を持って、美冬ちゃんは私の腕を引く。
「でも林堂の言う通りね!このシステムだと、どーやっても早い者勝ちだし」
「…え?」
「遥より前に並んでる子がOK貰っちゃったら、遥、お話すらできないよっ」
「ちょっ…」
ぐいいっ。すでに女の子の姿なんて一人も見えない廊下に、今朝より大きな私の声がこだまする。
「待って、私、まだ行くとは言ってない!言ってないったらー!」
まさにガラスの靴の奪い合い。王子様がその手に持つただひとつの輝きは、一体誰の手に渡るのか――。それを目当てにきっと、学校中のほぼ全ての女の子が参戦するであろうバトル・ロイヤル。これは一度っきりの公式戦なのだ。
そして今、戦いは始まる前から始まっていたことを痛感する。
「進まない…」
一年生の教室のある三階はガラガラだったけれど、中庭へ続く一階廊下は、長蛇の列というより押し寄せる洪水のような有り様だった。階段の中腹で身動きのとれなくなった私たちは、最後尾であるのをいいことにとうとう座り込む。
「紗奈ちゃん、部活行かなくていいの?」
「どうせ、先輩もみんなコレに来てるだろうし。遥を送り出してからでも余裕よ」
「…美冬ちゃん、今日はお家で作りかけのお洋服…」
「だーいじょうぶっ!ドキドキする遥を見てるほうが、もっと良いの思い付きそうだしっ」
だめだ。二人はどうしても私に参加させたいらしい。当の本人は決心も付いていないというのに。
スマホの画面を点けた。時刻は16時を過ぎたところ。確か希望者は16時半までに中庭に行っておかなければいけないから、それまでこの人波が動かなければ良いのだ。さっきから一向に進まないし、このままなら私の粘り勝ち。これで良いんだ。告白なんてしたことないし、どうしたらいいのか――
プツッ。ズー。今朝も耳にした、このノイズ。はっと皆が一斉に顔を上げた。なんだか、イヤな予感がする。
「中庭に向かっているBoys and girlsの皆さーん!」
やっぱり冴子先生だ。目の前ですし詰めになっている女の子、それからよく見れば確かに男の子の姿もある。とにかく全員が、天の声に耳を傾けようと、仰ぎ見ている。
「先生としたことが、ごめんなさい!中庭じゃキャパオーバーだったみたーい!ちゃんと全員受け付けるので、安心して、ゆっくり押さずに進んでね!それじゃ、先頭で待ってまーす!」
プツッ。そして轟く歓声。コンサートホールのそれのように、階段の踊り場をけたたましく駆け上がっていく。
しばし空気の揺れに当てられて、落ち着く頃には一段、また一段と、やっと階段を降りきった。
「そう言や、男バレのやつが言ってたなー」
「何を?」
「『蓮未の魅力はルナティック』だって…」
「…?どういう意味?」
「なるほどっ、だからボーイズアンドガールズなんだねっ」
「えっ?」
「この告白大会はジェンダーレスってことよ」
「王子も罪作りだねっ」
同性をも惑わせる魅力、ということなのかな。それには私も頷かずにはいられなかった。私だってあのとき、あまりに綺麗な顔立ちと、なぜだか切なく微笑った彼の佇まいに、身動きできないほど見惚れた一人だったから。
「中庭なんて、ひと学年入るのがやっとなのに、全校女子プラス男子まで呼び込んじゃったら、そりゃこうなるわね」
長身を生かし、涼しい顔で列の先を眺める紗奈ちゃんは、冷静に納得する。私も爪先立ってふらふら、ずっと奥まで続く廊下を見てみれば、思ったより男の子率が高いことが分かった。
「それにしても、意外と進むの早いねーっ?」
「超高速でばっさばっさ、行ってんじゃない?」
紗奈ちゃんは右手を刀に見立てて大きくバツを描く。
「今日一日で見鐘台一年分の涙、流れそうだねーっ」
仮にもこれから戦地へ赴く乙女たちの列、その後ろから、二人はそんな容赦ないじゃれ合いをやってのける。集中を高める皆の耳には届いていないのがせめてもの救い。
そうこうしているうちに、中庭へ続く扉も見えてきた。もうすぐ、熱気の充満したこの廊下も、日常の平穏を取り戻すことだろう。
「あ、冴子先生」
「え?どこ?」
「その向こうに王子もいる」
「えっ!えっ…」
途端に緊張が身体中を乱反射する。そうだ、私も剣を交えなければならない戦士なのだ。あまりに長いこと散漫に、前の人に付いてきただけだったから、今さらそれを思い出して逃げ出したくなる。
「ねえ、帰ろう、やっぱり」
「何言ってんの」
「そうだよっ!ここまで来てっ」
秒で却下される。
「冴子先生泣いてない?」
「そう言えば言ってたねっ、『先頭で待ってる』ってっ」
「ちゃっかり最初に告白したってか」
「職権濫用っ!」
妙な盛り上がりを見せる二人に、私はもう付いていけなかった。目の前がぐらんぐらんする。胸が乱暴にかき混ぜられているみたいに、心臓が痛い。
「あれま、本当に一瞬で斬ってるわ」
「ふーんなになにっ…」
列はみるみる縮んでいく。もうあとどれくらいだろう、緊張で足元から目を離せない。
「『ありがとう、ごめんなさい』」
「そして握手。…これじゃ本当にアイドルの握手会じゃん」
ああ、どうしよう。私はぎゅっと目を瞑る。スカートのプリーツはもうグーの中でぐちゃぐちゃだ。敵前逃亡は大罪だと聞いたことがあるけれど、王子前逃亡は許されるのでしょうか。いや、きっと許さない、この二人が――
「はい、行っといで」
「頑張ってっ!」
「…っ?」
背中をトンと、軽く押されただけなのに。
――どこまでも落ちていくような浮遊感。
「……君は…」
喉は貝のようにぴったり閉じてしまって、咄嗟に何も声が出なかった。両手でスカートを握りしめたまま、私の見開いた両の瞳に映る、王子様。
「……」
私はどうしてここにいるんだっけ?どうして彼は、また、瞳を震わせているのだろう?
蓮未くんはひとつ重たい瞬きをする。そしてあのときのように、その唇はほんのわずかな微笑みを乗せる。
「前にも会ったね」
憶えていてくれた。あまりの感激と衝撃で、すんっと大きく、忘れていた呼吸が声の通り道を繋ぐ。
「…あ、うん…っ」
それでもまだ上手く喋れない。乾いた唇じゃ、しぼんだ声しか出せなくて、彼にちゃんと届いているかも分からない。
今日最後の夕陽に透かされた細い髪は、落葉の香りを乗せた風にそよぎ、一層幻想的に、この世のものとは思えない彼の美しい表情を包み込む。
微笑みが儚げなのは、きっと、そのせい。
「…名前、訊いてなかったね」
そう。まだ、名前すら。名前すら?
「…清次、遥…」
でも、あのとき確かに――
「……えっ?」
そして唇は薄く開いたまま、ぴくんと跳ねた上瞼。
「ハルカ……?」
そう。そうやって名前を呼ばれたから、私は振り向いた。
知らないはずの、私の名前を。
でも今、彼の口が紡いだみっつの音は、全然知らない響きをしていて。
秋風が薙ぐ。緊張を混乱が塗り固める。
横殴りになる髪の隙間から見える彼の表情は、なんだか懇願するようで。
「君も、ハルカって、いうの…?」
――「君も」。それは、どういう意味なのだろう。浮かんだ疑問はそのまま風に拐われていって、縋るような眼差しに瞬きをやめた。
「うん…?」
やっとのことで私は、ぎこちなく頷く。
そうすると、蓮未くんは肺をめいっぱい拡げるように大きく息を吸って、その分肩を上擦らせた。一度天を見上げたかと思うとブレザーをネクタイごと鷲掴む。数秒、自身の胸を見つめた。息を止めたまま。
「ふうっ。そっか……分かった」
まとわりつく風を押し戻すみたいに一気にその息を吐くと、私をまっすぐ見た。これまで見た中で、一番穏やかな面差し。そして右手を差し伸べられる。
ああ、そうか。ここで、「ありがとう、ごめんなさい」、そして握手。
結局、好きなんて、ひと文字も言えなかった。初めての告白は、これから、する前に散ってしまう。でも、名前を覚えてもらえただけ、ここに立った意味はあったと思おう。そして明日からまた、「隣のクラスの王子様」を見かけただけでそわそわする、そんなふわっとした日常で、夢と憧れに浸って――
だから私も右手を差し出そうとして、
「そっちじゃないよ」
降る声に、私の固まった手は影だけ、彼に触れる。
「えっ?」
暮れ色に照る頬は、繊細に動く。
「だって、付き合ってくれるんだろう?」
――そして微笑んだ刹那、風の向きが、温度が、空気が。変わった気がした。
パチンと、白が黒に、オセロの石――
「…ハルカは、いつもこっちだろ?」
そう言って、夕まぐれに濃く影を差す彼は、全然知らない顔をして。
「…っ!」
私の左手指を、絡めとった。
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