29,幕間:桜野姉妹の夜
「ただいまー」
「おかえり花純。楽しかった?」
「うん、楽しかったよ」
「彼氏と行ったんじゃないんだろうな」
「お父さんの心配するようなことは残念ながらありません」
「そうか、ならいいんだ」
「そうかしら、共学の高校に通ってる娘が彼氏の一人もいないのは、お母さんちょっと考えちゃうなぁ」
キッチンで食器を洗って乾燥機に入れるお母さんと、リビングでニュース番組を見るお父さん。
楽しい時間は刹那に過ぎて、お祭りの残り香を纏ったまま、いつもの夜が戻ってきた。
「いい出逢いがなくて。お姉ちゃんは?」
「部屋にいるわよ」
「ありがとう」
思い出の染み込んだ浴衣を脱いで、入浴して、パジャマを着る。すっかりいつもの格好、いつものにおいに戻った。それでも思い出だけは、奥のほうまでずっと残っているだろう。
2階の自室に入り、虫よけファンを持ってベランダに出る。私はよくこうして、なんでもない住宅街の夜風に当たる。
先客の背が見えた。
「お姉ちゃん」
「おかえり。楽しかった?」
「うん、楽しかったよ。りんご飴買って来たから、良かったら食べてね」
「りんご飴!? ありがとう! 大好きなの!」
「いちご飴も買ってきちゃった」
「ときたらもしかして」
「ぶどう飴も!」
「わーあ、ありがとう! フルーツ飴大好き! 花純ちゃんも大好き!」
「私も、お姉ちゃん大好き!」
お姉ちゃんの名前は
ウェーブのかかったさらさらヘア。ロングスカートがよく似合う上品な出で立ち。これでも彼氏はいないのだから、私に彼氏ができないのも仕方ない。
私もこんな、綺麗なお姉さんになりたいな。
「今年の夏は涼しいね。空は曇ってるけど、織姫と彦星は会えたのかな」
「会えてるといいね」
「そうだね、花純のお友だちも、アニメの世界のみんなと、また会えたらいいね」
お姉ちゃんもラブリーピースはテレビアニメを見ていたので知っている。だけど、私にも会わせて! などと懇願はしてこない。
「本当だね。二人とも、本当に強い子だよ。家族がバラバラになったら、私は耐えられないよ」
「そうだよね、このお家に生まれて本当に良かった。私もそう思う」
「だからね、世の中には大変な思いをしている人がたくさんいるのに、生まれてからきょうまで、こんなにも幸せな日々を送ってきた私には、いつかどんと、とてつもない不幸に見舞われるんじゃないかって、不安なの。
誰かが急にいなくなったり、重い病気にかかったり、そういうことが、漠然と怖い。それだけじゃない。この家族だって、いつかはお別れしなきゃいけない。この街とも、このからだとも。あまりにも幸せで、
「うん、素敵な家族、素敵な街、そこで暮らす自分。いろんなものを見て、いろんなことを経験して、たくさんの思い出が詰まった、この人生。いつかはそのすべてと、お別れしなきゃいけない」
「贅沢だね、そんな悩みを抱えるなんて」
「ふふ、花純ちゃんは自分のことも、ほかの人のことも、よく見ているわよね。妹なのに、母性を感じちゃう。花純ママーって、甘えたくなっちゃう」
「ええー? それはちょっと、すごい違和感だよ」
「そんなことないって」
「あるある」
気品ある大人のお姉さんがJKに抱きついて「ママー」と言っている構図。違和感しかない。
「花純ママー」
「きゃっ! ちょっとお姉ちゃん、本当に抱きついちゃ……」
ベランダだから通りすがりの人に見られちゃうかも。
そんなのお構い無しに、お姉ちゃんは私の胸に顔を埋めてずりずりしてくる。気品にあふれ、目つきはやさしいけど凛としている、自慢のお姉ちゃん。だけどちょっと、甘えん坊さん。
「大丈夫。お姉ちゃんたちは、いつもそばにいるよ。もし、もしもいなくなっても、受け入れてくれる誰かがいる。花純ちゃんがきれいな心を持ち続けていれば、周りにそういう人が少しずつ、増えてくるから」
お姉ちゃんの声が、吐息が、耳をくすぐる。
あぁ、甘えん坊さんは、私のほうだった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん……」
「よしよし、花純はいいこ」
私の頭をやさしく撫でてくれる、華奢で少しひんやりした手。私より少し小さいけれど、ふんわりとして、まどろみを誘う胸。
どんなに大切な人が増えても、私はお姉ちゃんを、この温かな家族を、失いたくない。だから、
「私、見つけたい。笑ちゃんと幸来ちゃんの、大切な人たち」
「見つかるといいね。見つけたいね」
「見つける。私、頑張る。だからね、バンド始めるの」
「あら、パートは?」
「キーボード」
「エレクトーン習ってたもんね」
そう、私は小学校の6年間、駅前の音楽教室でエレクトーンを習っていた。あれからしばらく鍵盤には触れていないけれど、練習すればきっと、また弾けるようになる。
いまの私が、笑ちゃんと幸来ちゃんの力になれること。
「でも、お勉強は大丈夫?」
「うん、それにね、音楽活動は、笑ちゃんと幸来ちゃんのためだけじゃなくて、お勉強の先にあること、自分の将来のヒントを、教えてくれそうな気がするんだ」
「そっか、将来やりたいことがわからないー! って頭を抱える日々と、さよならできるかもね」
「うん、もう高2だし、そろそろそれとは、さよならしたいな」
「しちゃおうしちゃおう!」
「おーう!」
人のためにやることが、自分のためになる。
自分のためにやることが、人のためになる。
人はそうやって、助け合って生きている。
花のように純粋な心を。
そんな願いを込められて『花純』と名付けられた私はいま、打算的ともとれることを考えている。
けれど、それでいいのだと思う。人を想い、自分を想う。それが、物事を長続きさせる秘訣なのかもって、思えるから。
これまでとびきり幸せに生きてきた私にはいつか、その分だけ大きな試練が来るのかもしれない。
でもいまはまだ、毎日がどうしようもないくらい幸せで、温かい。
仲間が増えて、唯一の悩みだった将来への糸口も、掴めそうな気がしてきた。
だから私はこの一瞬一瞬を、目いっぱいに楽しんでいたい。
最後に、あぁ、本当に楽しかった、幸せだった。
そう思える人生にしたい。
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