神戸を彩た外国人(2)グルームとハンター

北風 嵐

第1話 日本最初のゴルフ場を作ったアーサー・ヘスケス・グルーム

六甲山から見る夜景は百万ドルの夜景と言われ、その名に恥じない。

六甲山ホテルは山頂にある。神戸市内のホテルに宿を取るのもいいが、六甲山に泊まるのを勧めたい。日本で最初のゴルフ場もある。冬は人口スキー場やスケートで賑わう。 牧場、自然植物園、手近なロッククライミングや登山が楽しめる。そして、別荘、会社の保養施設と人が住まい、小学校まである。外の人には観光地として、神戸市民にはレジャーランドとして、神戸には六甲山は海と共に欠かせないものである。


アーサー・ヘスケス・グルームはこの六甲山の開祖者であり、また神戸ゴルフ倶楽部を創設して日本に初めてゴルフを持ち込んだ人といえば、神戸の人も「うん、聞いたことがある」と答える。グルームは狩りを趣味とし、六甲山に分け入るうちにすっかり気に入ってしまい、六甲山に別荘を作ったのである。


まずは略歴を見てみよう。1846年9月22日、イギリスのロンドン郊外で生まれた。トーマス・ブレーク・グラバー(長崎のグラバー邸の人物)とともにグラバー商会を設立した兄のフランシス・グルームの勧めで同商会に勤務することになり、訪日。長崎での勤務を経て1868年(明治元年の前年)4月に支店を開設するための出張員として開場したばかりの神戸外国人居留地を訪れた。


1870年(明治3年)にグラバー商会は倒産し、グルームは元同僚と共同出資して居留地101番地にモーリヤン・ハイマン商会を設立。日本茶の輸出、中国紅茶の輸入などを手掛けた。グルームは茶には詳しく、葉を手でさわっただけで産地を言い当てたという。1883年には横浜居留地へ移住し、生糸の輸出を行ったが業績が思わしくなく、10年ほどで神戸へ引き返し居留地内播磨町34・35番地に商社を構え茶の輸出を続けた貿易商である。


六甲山の別荘で写した家族の写真で見るグルームは、威風堂々とした巨漢である。前回書いたモラエスと比較してみよう。どちらも日本を愛し、日本名の戒名を持つ。モラエスは日本に憧れ恋をしたがついに日本人になれなかった。


これについて小説家陳舜臣はこう述べている。

《果たして紅毛碧眼の人間は、日本人になれないのであろうか?いや、人によってはなれるのである。モラエスのように考え込む人間はだめだ。「おれは日本人だ」と、ほがらかに思い込む人物ならなれる。何の疑問も抱かずに、そう思ってしまえば、それでいいのである。二人は両極にいる人間である。モラエスは精神家で、グルームは実務家だった。ロマンチストとリアリスト、文学者と商人。翳を持った男と、太陽が一杯の男。グルームは日本人になりうる外人であった》


モラエスのポルトガル時代のことは前回書かなかったが、ある人妻と恋仲になった。彼女の夫は精神を病んでいたが、カソリックの教義で離婚は認められなかった。モラエスは傷ついた心を抱いて日本にやってきたのである。

グルームはその巨体の中に明るい野心を持って、開港早々の神戸にやって来た。そして寄宿したお寺の住職の紹介で明治元年に、早くも宮崎直と言う日本女生と正式な結婚をする。直は大阪玉造の士族の娘であった。夫婦仲は娘の柳が「50年一日の如く、いたわり合い信じ合っていた」と振り返るほど良好で、グルームがオリエンタルホテルの経営で苦しんだ際に直は手持ちの資産をすべて提供したという。夫婦の間には15人の子供が生まれた(うち6人は早世)ことからも夫婦仲の良さは知れる。グルームは宮崎性に入り、子供たちもみな宮崎性を名乗った。芸者の内縁の妻おヨネ、早死で子供もなかったモラエスとは対照的である。


末娘の柳さんが語ることによると子供の育て方は徹底した日本式であったという。子供たちに英語を習わせなかったし、柳さんは日本の小学校に通った。そればかりか洋服も滅多に着せてもらえなかった。柳さんは靴を履きたくて仕方がなかった。買ってもらうには級長になることが条件になったぐらい厳しいのであった。グルームが六甲に行っているあいだに洋服を着て鏡に写し、父が帰って来る前に着替えたという。

グルームはやると決めると何の迷いもなく徹底するのである。こうすれば良いと決めれば自分を納得させてしまえるのである。磊落(らいらく)でものにこだわらない稚気もあったようで、競馬好きの彼は、自分の持ち馬につけた名前は『ベッピンサン』であった。

モラエスは難しい顔をして、髭ぼうぼうで、人を気味悪がらせた。だが巨漢グルームを見ると、誰もが微笑んだ。


グルームは世話好きで、居留地の自治委員会の役員を引き受けたり、神戸のスポーツの発祥の元となった社交クラブ(神戸クラブ)の代表にもなっている。こうした活動よって居留地外人の信望を得ていった。A.C.シム(ラムネの普及販売)や大阪鉄工所(日立造船の前身)を創業したE.H.ハンターらとこうして知り合った。

ハンターとは共同出資でオリエンタルホテルの創業にかかわったのである。1897年、神戸外国人居留地内にあったオリエンタルホテルをエドワード・ハズレット・ハンターらと共同で買収し、社長に就任した。1908年には居留地6番地に同ホテルの新館を建設。ゲオルグ・デ・ラランデの設計したこの新館は「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれ、高級ホテルとして繁盛した。しかし同時期に起こった恐慌のあおりを受けてオリエンタルホテルの経営状態は悪化し、1916年に経営権を日本人実業家の浅野総一郎に売却した。

東洋一のホテルと名を馳せ、経営の変遷はあったとは言え、オリエンタルを名乗るホテルは神戸には現在3つあり、オリエンタルの名前は名門として受け継がれている。


グルームの六甲開発の経緯は先に述べたように、狩りが趣味で六甲山に度々登るうちに六甲山がとっても気にいってしまった。そこで三國池のほとりに別荘を建てた。居留地の外人仲間を招待していると皆も六甲山を気に入り、別荘地分譲となった。

仲間が集まってわいわいがやがや話しているうちにゴルフをやりたいという話になり、神戸ゴルフクラブの創設となった。六甲山の開発の始まりであった。当時の六甲山の唯一の交通機関は「駕籠」であった。六甲ドライブウエイが出来る昭和4年までこの駕籠であったという。


六甲山を巡って、グルームにはいくつかの逸話が残されている。


その一 ある日、グルームは猟師に追われ別荘の敷地へ逃げ込んできた狐をかくまった。狐は付近に住みつくようになり、グルームの膝の上で眠るほどに懐くようになった。狐はグルーム以外にはまったく懐かず、グルームが死ぬと姿を見せなくなった。1919年、グルームに匿われた狐が乗り移ったという男が中山手通に住んでいた家族のもとを訪れた。この出来事をきっかけに家族は六甲山に祠を作って狐を祀ることにした。グルームがかくまった狐の尾が白かったことから祠は白髭神社と名付けられた。この祠は現在六甲山ホテルの西にある。


その二 グルームがゴルフ場の建設工事を行っていた頃、外国人の子供が建設予定地の近くにあった地蔵にいたずらをして首を折った。グルームはこの地蔵に新しい首をつけて別荘内に安置するとともに、新しい地蔵を作って元の場所に置いた。この地蔵はグルーム地蔵と呼ばれ、後に近くから出た湧水は味が良いと評判になった。この湧水はグルームの末期の水に用いられたという。


その三 1911年、グルームの六甲山開発における功績をたたえて記念碑を建てる計画が持ち上がった。グルームは「私は神様ではない。死んでからにしてくれ」と断ったが計画は実行に移され、高さ3メートルの石碑「六甲山開祖之碑」が後に記念碑台と呼ばれるようになる山上に設置された。この石碑は太平洋戦争中に「敵国人の顕彰碑」として軍部の手によって破壊された。終戦後、再び作る話が出たが、遺族はこれを固辞し、名前を書かない「六甲山の碑」として再建されている。


これらから読めるのは、グルームは信心深く、遺族もその心を受け継いで謙虚であったようである。そんなグルームも大正7年正月、神戸クラブでのパーティーで酔って石段を踏み外し、頭を打って亡くなった。享年72歳であった。酒を飲みすぎて土間に転落死したモラエスの最期が思いあわされるが、モラエスは孤独のうちに亡くなったが、グルームはそうではなかった。


モラエスは文筆家であり、著書があるのは当然であるが、グルームは書いた物は残してないが、写真、アルバムを多く残して、当時の神戸を知る貴重な資料となっている。

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